著者 渡辺やよい
「愛は四年で終わる」説ってどうよ?
ひところ流行った「愛は四年で終わる」説をご存知だろうか。これは人類学者のヘレーン・E・フィッシャーさんが「愛は四年で終わる」という非常にショッキングな説を発表して話題になったものだ。
彼女の説によると「生物学的に見ると人間の本来の姿だ」というのだ。この説は人間が狩猟時代を生きていた頃の夫婦の生活様式に当てはまるというのだが、そもそも人間の遺伝子は狩猟時代からほとんど変化していないらしい。
つまり、社会の状況がどう変化しようとも、遺伝子は原始レベルのままだということなのだ。だから、この遺伝子に仕組まれた本能に従順であればあるほど、結婚なんて長続きしない。というわけ。結婚した人間が、浮気や不倫するのは当然のことなのだ。人はオリンピックのように四年に一度は離婚すべし。
第一章 結婚してもしあわせ
近ごろは何かというと遺伝子様のご登場。自分の無意識の行動は、実は遺伝子が操っていたのである。ああ、遺伝子レベルまで出されてしまってはお手上げだ。浮気をした夫の首根っこをつかまえて非難しようにも「だって、遺伝子がそうしろと俺に命じるんだよ」などとかわされてしまうのだ。
遺伝子サイコー、遺伝子万歳。「愛こそすべて」「この愛は永遠」などと謳う世の中の歌や小説は、すべて遺伝子様の前ではたわごとに化す。
こうなると、私の親世代(昭和ひと桁世代)がよく言う「結婚とは楽しいものではない」「我慢するものだ」「大人の義務である」という説はがぜん意味あるものになってしまう。
つまりは、世の中をうまく回して行くためには、夫婦が長続きして子育てをして税を納めて国を守る維持していく必要があるために、結婚は法で守られ奨励されているわけだ。
ううむ、せっかく「結婚だっていいものだ」という説を展開しようとしたとたん、直撃弾だ。
私だって、別に愛の成就が国が法で認めてくれる結婚とは全く思わない。
事実、私は子どもができるまでは夫とは事実婚だった。私は二十代からフリーで仕事をしてきて、会社事務所や免許など旧姓で登録しているものが多かった。そのため書類の手続きがめんどうくさいということで、婚姻届けをだしていなかった。
当時は国会で夫婦別姓案が盛り上がっていので、いずれ法案が通ったら届け出を出せばいいや、と、たかをくくっていたのだ。(が、いつの間にやらその草案はなしくずしになり、二〇〇六年現在、全然そういう動きが出ない。その前に子どもができてしまい、今の法律が未婚母子にやさしくないので、私はともかく子どもに先々不都合なことがない方がいいと、ついに籍を入れた。そして、その後の書類変更の手続きは、やはり煩雑であった。)
それでも人間はなぜ、遺伝子に逆らってまで「永遠のパートナー」を求めたりするのだろう。何度も恋に破れ失敗をくりかえしても「こんどこそ」と、希望をもったりするのだろうか。
それは、人間が動物と違って「心」という、生物学では説明できない素晴らしくも厄介なものを抱えているからだ。人が人に恋をして愛する気持ちは、世界がきらきら光り希望に溢れ官能的でこの上なく素晴らしい。
これが永遠に続けば、と、誰しもが思う。そして、永遠の愛を誓って嬉々として結婚したものの、あえなく本能や遺伝子に屈服していくわけだ。うう…・弱きものよ汝の名はヒト。
でも。
絶頂感
(オーガズムに達する)だけが愛ではない。じんわりしみじみちょこっとでも、愛はある。育む愛、努力する愛、あれも愛、これも愛、どれも愛、なんでも愛。どこにでも愛は潜んでいる。日常生活の繰り返しの中、パンドラの箱の中に最後にひっそり残っていた希望。それを大事にパートナーと愛を育てていく生き方もありだと思うのだ。
いまや幸福の価値観は多様化し、「結婚こそ女の幸せ」という意味も薄れている。そういう時代に、あえて結婚する意義を見い出したい。
そして、夫との最初の出会いから二十年近くなった現在、
「『愛』はそこにあるか―い?」
と、聞かれれば、
「あるとも!」
と、答える。
私側から言わせてもらえば、
「愛していますとも」
おおっ、世界的権威の人類学者様の定義に真っ向から刃向かった大胆発言。ごちそうさまです。あんたらジョンとヨーコか。
いや、しかたないけれど(なにがしかたないんだ)そうなんだもん。
ほんとのところ、どうも私は夫依存症の気があるようで、常に夫がそばにいてくれないと、寂しくて頼り無くて仕方ないのである。
私はなぜか自己評価が異様に低いのである。いくら仕事に打ち込み頑張ってそれなりに成果を出しても自分に自信が持てない。そんな私に、夫という他人が一緒にいてくれるというだけで、救われるのだ。もう今は片思いに近いかもしれないけど、彼が私と共にいてくれる限りは、私の心は安らかで愛は永遠なのだ。
私は、夫のことを「主人」と呼びたくない。「旦那様」とも少しちがう。強いて言えば「つれあい」だ。赤の他人人間が出会い、ひとつのユニットを作り、人生の時間をともにしていく。つれあいにしか見せない分らない性生活を積み上げていく時間、その醍醐味。それを愛おしみ楽しむ、それが現代の結婚だと、思いたい。
「結婚すればどんな愛も必ずや冷めてしまう」に異議あり!
私と同じ姓をもつ某男性作家御大は「純愛は不倫しかあり得ない」と豪語して、不倫小説ばかり書いていらっしゃる。そこには「結婚は打算しかない」「結婚すればどんな愛で必ずや冷めてしまう」という定義がされている。そもそも、この御大のいう夫婦の定義がものすご―く「男」にとって都合がいいのだ。
要約すれば、男が女性にアプローチするのは「ヤりたい」それだけ。男という生き物はヤりたいために女性のご機嫌を取り、獲物をゲットしてセックスするのが至上の歓び。男が結婚したがる本当の理由というのは「結婚すれば好きな時にすきなだけセックスすることができるから」。
しかし、「男」というものは、一人の獲物では満足できない動物なのだ。やがて一人の女性に飽きてしまい、ましてや子どもなどできて醜くなった(御大は妊婦のことをそういうのだよ)妻とのセックスなんてもってのほか。他の若くて美しい獲物を求めて狩に出る。
それがうわきなのだが、浮気は「男の本能」であり、妻はそれを責めてはいけない。なぜならば「男」というものはいずれは「母」なるあなたのもとに帰ってくるのである。どーんとかまえて待っていなさい、ってな感じなのだ。
なんて「男」に都合のよい話だろう。
それば「結婚」か?
そんなもの、女としてはしたいだろうか?
この御大の「夫婦とは」「夫とは」「妻とは」というエッセイ群は、私から見ると恐ろしいほどのセックス至上主義と時代主義な結婚観と男尊女卑に満ち溢れている。そりや、あんたはそうだろうけど、その人生観を「男たるものは」で、ひとくくりにするところがすごい。
あまりの女性蔑視ぶりに私がぷんぷんして夫に、
「あなたは、私と結婚したのは毎日好きな時に好きなだけエッチができるから? そのわりには最近ごぶサッタデーだけど、やっぱり浮気しているのね? き―っ」と、問い詰めてみると、
「なんだよ、そりゃあ、エッチしたいだけならもっと巨乳とするよ、ははは」
「なによそれ、うき―、あったまくる―」
と、本をぶんぶん振り回していたら、
「だからそいつの『男』でおれまでいっしょにしないでくれよ。だいたいさ、そんなに怒るならそいつの本なんか買わなけりゃいいのに。わざわざ読んで不愉快になって、印税増やして結局某を儲けさせてるんじゃん、ばぁか」
と、逃げて行きました。
いや、ごもっともなんですが。
こうした本が団塊世代から上の男性には受けているということは、こういう考えの「男」がまだまだ多いってことなのだろか。そういう男どもと結婚した女性の気持ちを、私は聞いてみたい。それは「本能だから」と、納得しているだろうか。
愛よ、遺伝子に負けるな。
緊張感のないつれあいが愛おしい
家とは、基本的にリラックスする場所である。
外ではびしっとした折り目正しいスーツで決め、ばりばり仕事をこなす頼れるビジネスマンも、家へ帰れば着慣れた毛玉だらけのジャージでビール片手にごろ寝して「エンタの神様」にがははっと大笑い。緩と急、ハレとケ、鬼は外福は内、恋人時代はそとずらを見せあっていた男女も、夫婦になり家庭をいとなみはじめると、内面暴露しまくりたるみきってしまうことが多い。
お互い髪はぼさぼさ顔は洗わないパンツいっちょうでいえのなかを徘徊する。夏場など、暑がりの夫はすっぽんぽんでうろついたりする。うーん、これでは百年の恋も一気に冷めまいね。「信じられない、こんなだらしない人だったのか―」と、目から鱗が百枚くらいぼろぼろ落ちまくる。
しかし、私は夫婦になったら恋なんて冷めてしまっても構わないと思う。本性をさらけだしあってからが、夫婦は面白くなるのだ。いや、面白がれない夫婦はだめだと、思う。
恋の花が咲きまくり、お互いが運命の赤い糸で結ばれたと信じあい、「きれいだよ」「かっこいい」などと言い合っていた恋人の頃の面影は、お互いみじんもないのだ。
しかし、私はだからといって夫に失望したことはない。(夫側は不明だが…)
我が家には犬も猫もいるのだが、彼らがリラックスしきっている時というのは、信じられないくらいだらしないポーズをとる。仰向けに腹を出し切って四肢をでれんと投げ出し口をぽかんと開けて舌をはみださせ白目をむいて寝ているのだ。その姿は全身で「幸せ」と伝えている。その姿は、飼い主の私だけが知っている。私にだけ見せる無防備さ、それが愛おしい。
緊張感のないつれあいが愛おしい。
外にはいくらでもかっこういい見栄えの魅惑的な男女がごろごろしているだろう(彼だってうちのなかではおならもするし鼻毛も抜くだろうが)。
恋をするにはパワーと緊張感と高揚感が常に必要だ。ハイテンションで脳内には花火がどっかんどっかん上がる。興奮状態が欲情をうながし、セックスも燃える。
差し込み文書=興奮状態が欲情をうながし、セックスも燃えあがせる避妊用具
恋はすばらしい。
一方、恋の果てに選んだ夫婦生活は、恋がジェットコースターなら夫婦の足漕ぎスワンボートといった感じで、刺激もスリルも絶叫もない代わりに、周りをゆっくりと眺めながら二人で漕いで行ける。時には漕ぐのを休んでぷかぷか浮きながらおしゃべりしたりする、そうやって少しずつ進んでいく感じ。
結婚は、地道な衣食住の連続である。日々は判で押したように過ぎていく。あれほど恋した連れあいも、空気のような存在になる。男女の緊張感など皆無だ。そういう生活の中で、自分が選んだ伴侶となるだけ楽しく幸せに暮らしていくにはどうしたらいいのか。
「結婚なんて遊びじゃない、人間としての義務だ、楽しいことなんか期待するな」と私の親の世代はよく言っていた。一度結婚すれば、どんなにソリが合わなくても我慢して添い遂げる、それが結婚だと、しかし、この二十世紀、一度きりの人生、楽しくて何が悪い。幸せになったもん勝ちだ。楽しめない結婚なら、しないほうがいいくらいだ。だから結婚するなら、楽しくすごそう。
今の私の人生に、夫は必要不可欠な存在だ。彼が必要だ。彼との日々を紡いでいきたい。すでに激しく恋をする時期は去ったけれど、今は愛を発酵させる時期にいる。恋を手にすることはたやすいが、愛を持続させることはむずかしいことか。私は発酵食品をよく作るから知っている。
うまい発酵食品には時間がかかる、根気もいる。いたずらにいじらず、しかしケアは怠れない、一歩間違えば腐敗という結果が待っている。そうやって時間とともに発酵させたものは、蓋をあけるとふくいくたる香りを放つ。絶妙な味わいになる。
子どもはやがて家を出ていく。その後に残るのは、他人同士である夫婦。しかしその二人には、積み上げてきた日々がある。それを慈しみ、また前に進むために、私は毎日彼に言い続けている。
「あなたが好き」
と。彼は2ちゃんねらーなので「オナカイパーイ」と、すげなく返すが、でも、私は口にしないより口にし続けているほうが、きっと相手もうれしいと信じて、しっこく唱え続けているのだ。
「すき」と。
つづく
第二章愛犬家の日常生活
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。