著者 河野美代子
先生たちの疑問にこたえる
落とし物の財布にコンドーム
Q 先日、こんなことがありました。校庭に女性用の財布が落ちていたと、生徒が届けてきたのですが、名前が書かれていない。届け出もすぐになかったものですから、係の先生が調べたところ、中からコンドームが出てきたのです。身分証明書もあったので、名前も分ったのですが、それが自分の受け持つ中学生。どう対処したものかわからず、そのまま本人に返却しただけで終わってしまったのですが、別な指導は考えられるでしょうか。
(私立校教論/O・T)
財布の中身を見たあなたの課題
A O・Tさん、戸惑いが目に見えるようで、思わずくすりと笑ってしまいました。何て言うと、怒られるかもしれませんね。真面目に答えさせていただきます。
まず、本人には黙って返された、それは当然でしょうね。お財布は極めてプライベートなものなのですから、いくら落とし物でも、中身を見てしまった、それを取りたてて何か言えるものではないと思います。いまだに、持ち物検査なんて、かばんの中を点検するなんて学校もあるようですが、生徒のプライバシーを大切にしない大人にはぞっとします。
でも、あなたの戸惑いも解らないものでもありません。きっと、あなたから見ると、中学生って、まだほんの子どもですよね。それもきっと、いわゆる問題児でなく、普通の生徒なのでしょう。その子どもがコンドームを持っていた。もしかしするとセックスをしているのかもしれない。大人から見るとまだ子供でも、本人はけっこう、大人のつもりなのです。
あなた自身の同年代を振り返ってみて下さい。性に対して興味も随分あったのではないでしょうか。確かに、私たちの若かったころに比べて、今は行動が早くなっています。
そのような環境を大人自身が作り出してしまっているのですね。テレクラで売春している中・高校生にもずいぶん出会いますが、でも、彼女たちを相手にしているのも大人の男たちなのですからね。
コンドームを持っていた彼女が、どのようなセックスをしているか、または実際はしていないのか、わからなくてもいいことだと思います。ただ、言えるのは、「しっかりと学校全体で性教育に取り組んでいますか?」ということなのです。それも、中学校の今、どういう行動をとるべきかということでなく、将来豊かな性が選択できるための性教育をしっかりしてほしいのです。
大いに興味もあり、多くの情報に接し、性の意識が形成される中学時代に、一生を左右される基礎ができるからなのです。それがお財布の中身を見て、ショックを受けたあなたの課題だと考えるのですが、いかがでしょうか。
べたべたカップル、どうしたらいい?
Q 休み時間など、すごくべったりのカップルが目立つようになりました。廊下で肩を寄せ合ったり、教室では椅子に男子が据わり、その上に女子がすわって、みんなと平気で喋って話している姿も見ました。私などはそんな光景を見ても、どう対応していいのかわからず困っています。
私たちの時代は、学校から帰る時ぐらい一緒で、クラスの中や学校では、ほとんど話をすることもしなかったのですが。時代の流れでは済まされない何かがあるような気がするのですが。アドバイスをお願いします。
(兵庫/H・F)
貧しい注意より性教育を!
A 私たちが若かったころ、わたしたちはいつも「今どきの若い者は」と大人たちに言われていました。そして今、私たち自身がその言葉を若者に向かって使う年代になっていることを痛感します。きっと、大昔からこれらの繰り返しだったのでしょうね。
自分が若かったころと比べても仕方ないんじゃないでしょうか。それぞれの世代が、社会、環境、全く異なる世界に生きているのですから。でも、この頃つくづく思うことです、人生の先輩として、私自身がしてきた数々の失敗を、後輩たちに伝えたいと。しでかした者にしかわからない痛みを、これからの人たちに語りたいと、決して私たちの自慢話でなく。私たちがやってきたことを、君たちは繰り返すなよ、と。
だって、私たちは、そんなに立派じゃないと思うからです。このどうしようもない今の社会をつくってきたのは、私たち自身ではありませんか。もし、あなたが「今の若者は」と思うのだったら、若者をそんな状態にしてまった責任の一端は自分にもあるということですよね。
そこで――、あなたの学校では「性教育」はいかがですか。きちんとカリキュラムを組んで、または全校的に取り組んでいらっしゃいますか。性教育というのは、決して「性」を科学的に学ぶことだけではありません。命や人間関係や人権や、そして生きることそのものを考えることでもあります。それらを総合的に学ぶ中で、自ずから必要なマナーも身についてくるものだと思います。
おそらく、あなたの学校の多くの生徒たちが性関係を持っているでしょう。人知れず悩んでいる生徒だっているかも知れません。それだけでなく、ほとんど全ての生徒たちが、それぞれの長い人生のさまざまな人間関係の中で、いつかはきっと性関係を持つときがくるでしょう。
その時のためにもと考えると、性教育の必要性がわかっていただけるでしょうか。それらに取り組むことしか、方法はないんじゃありませんか。でないと、「べたべたする人のいないところにしろ」なんて、貧しくおかしなことしか言えないことになってしまうでしょう。
生徒に妊娠の不安を相談され、応えられなかった自分
Q まだ新任教員だった一五年ほど前、当時のある女生徒から、「生理が来ないので妊娠したかもしれないので不安、先生、一緒に病院に行って」と言われ、困惑してしまい、結局、「彼に話したの? 一緒に行ってもらえないの?」と聞き、「とても言えない」という返事に、「私もついて行けない」旨を話して突き離してしまった。
当時のことを思うと、今で気が重いので、あの時、私はどうすべきであったかのか、河野先生のご意見をお聞かせください。
(県立高校教論/Y・Y)
誰にも相談できず中絶の時期を失する生徒の現実
A Y・Yさん、一五年も前のことをまだ痛みとして感じておられるのですから、きっといい先生なんでしょうね。あなたも今では経験を積んで少々のことでは動じないようになっているでしょうけど、新任の時に戸惑ってしまったのは無理からぬことでしょう。
私は、あなたの選択は正しかったと思いますよ。私は仕事柄、さまざまな教師に出会います。生徒が困っている時、そして、特に性にかかわる相談を受けた時、「自分でできる範囲で動く」のが原則だと考えています。いちばん困るのは、自分では何もできないから他の人に相談する、そしてその人からまた他の人へと、どんどん話が拡がって行き、ついには職員会議なんて、一生徒のプライバシーが公になるケース、最悪ですね。
でも、その生徒はその後どうなったのでしょう。とても悩んでいたのでしょうし、あなたに相談するのもよくよくのこと。勇気がいったでしょうね。私の現場では誰にも相談できずひとり抱え込んで、病院にやって来たときには遅かった、人工中絶の時期を失し、生むしかない、という生徒がときどきいます。そんな時「どうして身の周りに一人でも相談できる大人がいないのか」と悔しい思いをします。その生徒は手遅れにはならなかったでしょうか。
自分にできなかったのだから、正直断ったのはいいけれど、せめて「保健室の先生に相談してみたら」(もちろん、養護の先生が信頼できる人であったらの話です)とか、次の行動を一緒に考えてあげて欲しかったな、と思います。
ついでですが、担任や養護の先生が病院についてこられた時、私は「いい先生がいて良かったね」と心から生徒に言っています。
生徒の妊娠に動揺、担任としてどうアドバイスすべか
Q 一学期の終わりも近づいた頃、私のクラスのある女子生徒が学校を休みがちになった。進路決定に重要な時期であったので、出席してきたときに面談すると、「先生、実は妊娠したの」と言ってきた。今までの教員生活で初めての事であったので、さすがに動揺した。養護教論にはすでに相談してあったらしい。こう言う場合の「担任」としての「アドバイス」の仕方をおしえてほしい。(結果としては、生命の大切さ、性についての自分の思う所を話し、相手の男性も同意のうえ、中絶しましたが)
(県立高校教論/M・H)
深い中絶の傷、できれば立ち直りの援助を
A 「担任」としての「アドバイス」の仕方をおしえてほしい、ということですが、何の目的でしょうか。あなたのお手紙だけではとてもわからないことだらけで大変難しいのです。
彼女と相手の男性との間はどうだったのか、彼女自身はその妊娠をどう受け止めていたのか――生みたかったのか否か、彼女と家族との関係は? それに何より大切なのは、彼女はあなたに助けを求めるつもりで話したのか否か。そんなことが解らないままでは、お答えのしようがないのです。すべての担任と生徒に共通するハウツーなんてないと思うからです。
あえて言うなら、あなたが「動揺」したのは、なぜでしょう。高校生のセックスなんて、あってはならないことと考えていたからですか。それとも、「避妊に失敗してドジなやつ」と嘆かわしく思ったからでしょうか。あなたの「性」に対する意識が見えないのです。
さらに、何事かお説教されたようですが、あなた自身の、彼女に対する思いはどうなのでしょうか。彼女にとっては、まさに学校どころではない大事態と、胸の内をどこまで理解されているのでしょうか。
中絶したということですが、ひとりの女性が中絶することの大変さをご存知ですか。産婦人科に重い足を向けるしんどさ、手術台の上で味わう孤独感や恐怖、全身の痛みをお分かりですか。おそらく手術後も彼女の胸の中は、後悔や、情けなさ、悔しさ、みじめさ、申し訳なさ、などでいっぱいでしょう。
あなたが、そんな彼女に対してできることと言えば、立ち直りの援助、この貴重な体験をバネにして、さらに強く生きていくことへの支えとなってあげることぐらいでしょうか。もちろん、それも彼女が援助を求めているなら、の話ですが。もしあなたが、受け持ちの生徒が、「妊娠した」「セックスをした」ということばかりこだわっているのなら、むしろ何も言わないで、そっとしておく方がはるかに彼女の立ち直りへの援助となるのだ、と、私はそう考えます。
中絶後も性交繰り返す生徒への指導は?
Q 高二の生徒が妊娠八週で人工中絶をしました。ところが、出血や下腹部痛が完全に直っていないのに。また同じ相手とセックスをしていることがわかりました。コンドームは使ったり、使わなかったりのようです。「自分を大切にしなくては」という話は通用しません。どう説明してやったらいいでしょうか。医学的な話をきちんとしてやるしかないと思いますが‥‥。
(保健室の姉さん)
つらい中絶、繰り返さぬ決心をさせること
A 人工中絶の後、私が行っている立ち直りへのケアをお話ししましょう。
体がちゃんと回復していることを確認した後「今後はどうする?」と問いかけます。彼とはこれから付き合うのか否か、つき合いを続けると言うのであれば、「では、セックスは?」。これが、実はくせ者なのですが、多くの少女たちは、人工中絶に打ちのめされていて「セックスはもうしたくない」と言います。
では、いったん、セックスまで経験したカップルはそれっきりしないのかというと、決してそうではないのです。私も何度も苦い経験をしています。また次の妊娠をしてきて、「あの時、もうしないと言ったじゃない」と嘆くとことが何度かありました。だから、つき合いを続けると言うのであれば、セックスもまたしはじめるものと考えた方がいい。そこで強力な避妊の仕方を指導します。
「これからの避妊は? どうしようと思っているの?」「彼はどう言っているの? どんな話をし合っているの?」「これまではどうだったの? なぜ妊娠してしまったかわかっている?」二度と中絶なんて惨めな思いを繰り返さないと決心することが、立ち直りのために何よりも必要なことだと考えています。
若者たちの避妊はとても甘いのです。コンドームを使ったり使わなかったり、膣外射精だったり。その根底には「セックスというのは、本来生殖行為。たった一回だって妊娠する」ということがわかっていないことがあります。
言い換えると、「避妊というのは、一回も欠かさずしなければならないものなのだ」ということがわかっていないのです。大人たちがきちんと教えていないということですね。そして、それらの話し合いと実行がちゃんとできる関係であることが、何より大切なことなのです。
人工中絶の後、彼女と彼は何を話し合ったのでしょうか。そして、今後はどうしようということになったのでしょうか。あなたはそれらの事を彼女に話し、共に考えてあげるべきでしょう。
せっかく人工中絶という困難な出来事を経験したのですから、その体験を今後生かすべく指導してあげてください。あなたが言っているように、抽象論では何の役にも立ちません。具体的に、熱意をもって語ってあげることだと思います。
性風俗についてどう考えるべき?
Q 「性風俗業」の話で、同僚同志でも「ランジェリーパブがどうのこうの」といった話題が楽しそうに出ています。どうかと思う反面、私自身、ヌード写真や
Hなテレビなどに目を向けてしまう面を持っています。「どういう態度を取るべきか」などと聞くのは恥ずかしい話ですが、いわゆる「性風俗」というものをどうお考えでしょうか?
(高校教師/A・H)
お金媒介の「性」でなく、豊かな「性」との出会いを
A A・Hさん、あなたは性的な興味を持つことは、いやらしいこと、恥ずかしいことと考えていらっしゃるのではないでしょうか。人は偉そうなことは言ってても、しょせん他の動物と同じ、生殖動物です。誰でも性欲があり、性的な興味を持つことは、とても自然なことだと思うのです。それは、生徒でも教師でも同じことですよね。
でもね、興味があって、ヌードに目が行ったり、Hなテレビを見ることと、実際、性風俗に行って、お金を出して性的行為を行うこととは、決定的に異なると思うのです。風俗では、愛情とか、信頼とか、優しさだとか、人間関係の基本はまったく存在しません。あるのは、お金の関係だけです。
性風俗に行く男性の多くが、内心では、そこで働く女性たちを軽蔑しながら性欲の「処理」をしています。また、そこで働く人たちは客を「お金をくれる人」として、対応します。「いかに早く、効率よくフィニッシュさせる」「たくさんお金を出して貰うように。次の指名を貰うようにするか」…・お互い、相手を“心を持った人間”として見ません(客との間に愛が芽生えるという例外もあるでしょうが)。
私は、そのような性はとても嫌です。風俗での性は、お金だけを媒介とした、貧しい性だと思いますよ。人間であるからには、心のふれ合いが欲しいし、相手を尊重しながらお互い満足できるセックスでありたいと思います。だから、風俗に行き、また、そのことを自慢たらしく話す人もいやですね。
もし、生徒が風俗で働いたり、売春をしていることがわかったなら、教師たちはどんなアクションをされるでしょうか。それを考えると、自分たちがそんな行為をすることに疑問を持たない方がおかしいと思うのです。
私は、常々、しっかり自立し、素敵なパートナーと、対等に素敵なセックスができるような、そんな大人になって欲しいと、生徒さんたちに講演をしています。先生たちもそんな大人であってほしいと思います。
「援助交際」について生徒にどう話したらいい?
Q 今、「援助交際」を多くの生徒がしていると言われています。その生徒たちがテレビ等で言うことは「誰にも迷惑をかけていないからいいじゃん」というものでした。それに対して、どういう論理で話をすると聞いてくれるのだろうと考えたことがあります。なかなか難しいように思えました。河野先生ならどのようなお話をされますか。
(兵庫/M・T)
なぜ、高価なものが必要? お金のための性は悲しい
A 「援助交際」という奇妙な名前で、多くの高校生が売春をしているのは、事実のようです。私の現場でも、テレクラによる売春をしている高校生に出会うことが増えてきました。このあたりで、私としても、この問題の考えを整理しておいた方がいいと思い、この質問にお答えすることにしました。と言っても、あなたの質問にある「誰にも迷惑かけていないからいいじゃん」という高校生の論は、問題外です。
世の中には、たとえ誰かに迷惑をかけたとしても、あえて行動しなければならないことはいっぱいあります。逆に、迷惑をかけなくとも、自らの尊厳のために、してはならない事もまた、たくさんあると思うのです。「迷惑をかける」か否かが、セックスの基本だとは思わないのです。
セックスというのは誰か他の人のためにするものではありません。あくまでも、自分とパートナーのためにするものではないでしょうか。
私が接した少女たちの中には、寂しくてテレクラに電話して、結果的にはセックスまで、というケースもあります。優しく話を聞いてくれる人を求めているのかもしれません。相手の男性は、これはもう、若い女性とセックスをするのが目的なのですが。そして、そのためのみの相手として自分が見られているということが、彼女の方からは見えなかったのでしようね。でも、援助交際というからには、やはりお金が絡んでいるのでしょう。
私は、お金のためにするセックスほど哀しいものはないと思っています。東南アジアやアフリカの国々の貧しい人たちの、生きていくためにしかたなくする売春も、やはり悲しい。どんなに嫌なタイプの人とでも、お金のために肌を接しなければならないというのは、やはり辛ことに違いありません。でも、生きていくためのぎりぎりの選択であると思うのです。今の高校生たちの「ブランド物が欲しくて」する売春とは、事が違います。
だいたい私は、分相応ということが解っていない人はとても嫌です。どう考えても、高校生にシャネルは不似合いです。そんな高価なものはもったいない。もっと安価で素敵なものはたくさんあると思うのです。高価なものを持っていることに最大の価値観を持つというのは、逆に、とても貧しいことなのではないでしょうか。
世の中、お金がすべてという社会を造り出した大人の責任を問わなければなりません。私は、高校生の彼女たちに、三万、五万という大金を渡す大人たちにも、金で何でもできるという思い上がりと、いやらしさを見ます。
でも、お金よりもっともっと大切なものがあると、いくら言っても、今の学校生活の中で、楽しく、充実した価値を見いだせない彼女たちには説得力を持たないでしょう。売春で病気をうつされてしまったとか、ホテルに行って途端、相手ががらりと変わって、酷く乱暴されてしまったとか、悲惨なケースも見ています。
でも、それらの危険性で脅かすことも、説得力をもちません。セックスっとは本来何なのか、ここを抜きにして、売春のみを論じることは、不可能だと思います。
セックスというのは、本来、とても素敵で楽しいもの。私は、若い人にたちに、素敵なセックスができる大人になって欲しいと思っています。まず、自らが自立していること。そして相手への愛と信頼に裏付けされていること。対等な関係で、コミュニケーションが十分に取り合えること。
相手への警戒心もすべて取り払って、全く無防備に、心まで裸にして向き合える、そんなセックスはとても楽しい充実したものなのです。私は、それを分かって欲しいのです。現在の風潮は、それらも含めた豊かな性教育に取り組んでいない、家庭と学校の怠慢によるものであると考えています。
売春する少女たちから見えるもうひとつの陰
この文章を書いた後にも、私は多くの「援助交際」をしている少女たちに出会ってきました。
そして、彼女たちから話を聞くうちに、決して彼女たちはお金のために売春をしているのでないと気づきました。もちろん、表面上はそう見えるし、彼女たち自身もお金を理由にしているところはあります。でも、それは、口実ではないと思うのです。
これまでと違って、援助交際をしている少女たちは、決してツッパリさんや、非行少女ではない。外見は普通の、何の問題もない家庭の、立派な学校にきちんと通っている普通の少女たちだと、言われています。
私の接した少女たちには、中学生はまだ、いわゆる非行少女だったり、家庭的にとても寂しいものを持っていたりということがあるのですが、高校生の場合は、冒頭に述べた通りだと思います。それも特に、自分の人格を家族に認められず、何から何まで厳しく管理されている少女たち。
人は、思春期から自分自身で自分を見つめ、自分の価値観を作り上げ、大人になっていくものです。その心の内はさまざまに揺れ、苦しみながら徐々に落ち着いて行くものなのです。
その時期に、自らの考えで物事を決め、行動を禁止され、大人の価値観にすべて縛られた生活を強制されて生きなければならないとすれば、どこかに、自分で生きる道を見つけなければ窒息してしまいます。
例えば、伸びようとしている花の芽に、何かが被(かぶ)さっていれば、それを避けて、花は横に伸びなければならない――彼女たちを見ていると、そんな気がしてくるのです。それも、自らの肉体をお金で売るという、最も大人たちが嫌っている、哀しい選択をしていることに、まるでしっぺ返しをしているかのようで、愕然としてしまうのです。
さらに、彼女たちの特徴と言ってもいいのは、自らの体にとても無知なのです。当然、防衛力も貧しい。体に対しての尊厳を持っていなのです。ある売春をしている少女が、お腹の痛みを訴えて来院しました。診察で、痛いのは卵管と、その周囲でした。
「あなた、卵管炎をおこしているよ」と言うと、「卵管って何?」との返事です。絵を描いて説明すると同時に、「もっと、体の勉強をしなくちゃね。本当に凄いものなんだよ」と、私の書いた本を渡しました。体を知らなければ、自分の身体を使って何が悪いのよ」と突っ張られても、「その体を、あなたはどれだけ知っているのよ」と私は反論します。
人から、特に親や教師など先輩たちから、ひたすら否定されて生きなければならない彼女たち。かけがえのない自分自身。自分だけ自分を好きになってもらわなければ! それを持てない彼女たちに、私は、痛ましさを感じてしまうのです。
小学校の低学年から、体をしっかり教える。その中で、子どもたちはプライベートゾーンもしっかり学びます。
最も人に嫌われたくない部分。それを子どもは感覚として学びます。自分自身をかけがえのない私自身として捉えていけるのです。そして、同時に、他人にも、それぞれ大切なプライベートゾーンがあることを学びます。
自分の一番大切な部分、プライベートゾーンは、自分自身で管理できるように。そして、心から望んだ人にだけ、それを明け渡す。さわったり、さわられたり。セックスというのは、自分が心から望み、相手に対してまったく無防備に、すべての警戒を解き放って向かい合うもの、どこかにびくびくしたり、恐れを持って向き合う性は、とても貧しい(援助交際というのは、その意味で、最も貧しい性だと言えるのではないでしょうか)。
心から解放される、豊かなセックスができるような大人になってほしい。「そんな性教育に取り組んでいる人たちもだいぶ出てきました」。すべての子供たちが、そんな教育を受けて大人になってくれた。私の願いなのです。
子どもは親のSEXをどう見ている?
Q 私は現在四〇歳ですが、毎日でもセックスをしたいくらい性欲がありますが、嫁さんはいたって淡白で、年を取ってからのセックスなど考えられない(病気がちということあるが)と言います。老人の性だって活発だと、嫁はん性教育をしますが、なかなかうまくいきません。
これは、二人の問題なのでいいのですが、生徒の性教育はできるのですが、いざ自分の子が高校生になって性教育を受けた時、親のセックスをどう考えるかと不安に思います。まあ何とかなるとは思うのですが、先生から見て、今の高校生は、親のセックスをどう考えていると思われますか?
(T・K)
子どもの目を気にするより二人で素敵な性を
A T・Kさん。数ある中からあなたへの回答を選んだのは、あなた自身のことが気になったからです。「あなたはあなたのパートナーといいセックスをしていますか?」「あなたのパートナーは、あなたとのセックスを楽しんでいるのでしょうか?」
私は開業医ですから、クリニックにはさまざまな年代の方がこられます。特に最近は、更年期の医療が盛んになっていて、それを求めてこられる方がとても多いのです。
更年期や熟年の方たちの訴えは、単に体の不調を何とかして欲しいことだけではありません。「夫とのセックスが苦痛」「したくない」「セックスさえなければいいんだけど」「逃げだしたい」等など、彼女たちの訴えは悲痛です。ホルモンによる体の変化のためだけではありません。
このような、夫との性が苦痛な人たちは、若い時からセックスそのものが楽しくないのです。夫の独(ひと)りよがりなセックスを続けてきた結果がこうなのです。「妻を喜ばせてやろう」という意識を持っていますか? 回数ではありません。妻にとって、心も体も解放される素敵なセックスが展開されれば好きになるでしょう。苦痛でしかないセックスであれば、したくないのは当たり前ですよね。
子どもが親のセックスをどう見ているのかが気になるのは、どうもあなたのセックス観が貧しいのではないかと考えてしまうのです。なんか後ろめたいものがあるのではありませんか? 夫婦がセックスを楽しむのは当たり前のことです。ともに生きていく二人が、二人とも十分に悦び合い、楽しみ合いながら生きていくことが出来たなら、それは素晴らしいことなのです。
子どもたちは自分の親の不仲にはとても傷つきます。特に、親の婚外の性交がわかった時は、深く傷つきます。両親の仲がいいことは子どもたちにとって、救いなのですね。高校生ともなれば「親同士、セックスも、まあ、仲良くおやりください」、そんなものではないでしょうか。
こどもたちを気にするより「二人で素敵なセックスをしているよ」と堂々と胸を張る姿勢でいられるように、そう努力された方がいいと思います。
「生む性」で気になる子宮内膜症
Q 女性に急増している子宮内膜症について詳しく教えてください。私自身は、生理痛と生理前後のむくみ、肌荒れ等に悩んでいます。た将来「生む性」としては、とても気になります。
(神奈川/T・K)
放置すると不妊症。早く治療を!
A 私のクリニックでは、開業以来五年間で一〇代の受信者二、四七七人中、月経痛を訴えて来院したのは二九六人(注・一九九〇年一一月〜九五年一一月まで、まる五年間の統計)。その内、約一割の二八人に、子宮内膜症や子宮筋腫の病気がありました。子宮内膜症は、子宮の内膜と同じものが子宮の筋層の中とか、卵巣とか、腹膜など、子宮の内腔以外に発生するものです。
それがその場所で、月経の時に出血を起こしますので、痛いというわけです。
なぜ内膜がそんなところに発生するのかは、まだ良く解っていません。内膜症が卵巣にできると月経のたびに血液が溜まりますので、血液の卵巣嚢腫(のうしゅ)、チョコレート嚢腫といわれるものになりますし、腹膜にできると、そこにしこりや癒着(ゆちゃく)を起こします。そのまま放置すると、不妊症になる可能性もあります。
このつらい内膜症も、最近は内服薬、点鼻薬、注射など様々な薬が出来て、治療が可能になりました。が、大きな嚢腫など、進行してしまったものは、腹腔鏡や開腹による手術も必要になることがあります。
また、いったん治療しても、再発しがちで、慢性疾患として、閉経するまで気長に付き合わなければならないこともあります。あまりにも強い月経痛がある場合には、早めに病院に行って、調べてもらった方がいいですね。もし、内膜症だったら早く治療した方がいいからです。
ところで、T・Kさん、月経前のむくみの症状は、排卵後に多く分泌される黄体ホルモンによるものです。黄体ホルモンは、体の中に水分を貯め込む働きがあるのです。ですから、あなたの症状はきちんと排卵している証拠。でも、症状がとてもきつい場合には、
漢方薬などで治療できますので、一度、病院に相談に行かれたらと思います。いずれにしても、月経に伴う症状は、一人で我慢しないで、早めに産婦人科で相談した方がいいと思います。
双子が出来るのはなぜ? 卵子と精子の仕組みも知りたい
Q 河野先生に質問したいと思います。避妊策を講じないまま性交すれば精子は膣から子宮に入っていきますよね。そして卵管に向かうはずですが、卵巣にまで到達すことはないでしょうか。まれに三つ子、四つ子ができるといいますが、一度の性交で精子が一度に三〜四個卵巣にまで生き延びてきたということはあるのでしょうか?
女性は約一ヶ月に一度排卵し、その卵子と精子が生命の誕生と言いますが、排卵される前の卵子と精子の受精は可能なのですか? だとすれば、双子〜四、五つ子はどういうことなのですか? また生理というのは、排卵された卵子が受精して着床するはずのものが受精しなくて、体外に出されることですよね。何で一回に七日程度もかかるのですか?
(福島/K教論)
正しい知識で生命発生の不思議がわかる
A 「うーん、まいったなあ」。この質問を読んで、正直、大いに戸惑いました。だって、質問を寄せられたあなたは、「生徒」ではなく「教師」なのですね。「お年はいくつなのかなあ、何かの先生なのかしら。既婚? 独身? 子どもはいるのかなあ。セックスの経験は?」
私は、常々「若者は無知だ」と言ってきました。私のクリニックに来る多くの若者たちは、すでに行動をとっています。彼らはきちんと知っているか? 知っていて行動を取っているのかと言えば、決してそうではありません。「性」というのは、無知であっても、間違った知識を持っていても、行動はとれるものなのですね。
知識がないまま行動をとれば、いったいどんなことになるのか、それをさんざん見てきているから、私は大人たちに「子どもたちに性を正しく伝える」ことの必要性を訴え続けてきました。だって、彼らの責任ではなく、伝えなかった大人の責任であると思うからです。
こんなことを言いたかったからといって、どうぞ気を悪くしないでください私は、「よくぞ質問してくださった」と感謝しているのです。多くの大人たちが知らなくとも、知ったかぶりをして、偉そうなことを若者たちに言っているのを見てきているから、だから、こうして、わからないことを素直に質問する教師の姿勢はとても素敵だと思います。
さて、質問にお答えします。まず、最後の質問から。
月経というのは、受精しなかった卵子が出てくるものではありませんよ。卵子は〇・二ミリほどしかありません。受精しなかった卵子は消えてなくなります。一方、子宮内の内膜は分厚くなって、受精した卵子をもぐり込ませるための(着床といいます)準備しています。着床しなかった場合、子宮の内膜は?(は)がれ落ち、血液とともに(内膜を支えている血管も壊れますので)子宮の外に出て行きます。これが月経なのです。
月経のメカニズム
月経のメカニズム
○1卵胞期
卵巣では、原始卵胞の中から数個の卵胞が成長し始め、やがて成熟卵胞へと変化する。この成熟卵胞から分泌する卵胞ホルモン(エストロジェン)の作用で、子宮では内膜の厚みがましていく。
○2排卵期
2週間ほどすると、左右どちらかの卵巣の最も成熟した卵胞から卵子が飛び出す。これが排卵。卵子は卵管に取り込まれる。ここで精子と出会い受精すれば、受精卵となって子宮へ向かい、着床すると、妊娠が成立。受精しなければ、約24時間で卵子は死んで、分解・吸収される。
○3黄体期
卵子が飛び出したあとの卵胞は、黄体と呼ばれる組織に変化し、黄体ホルモン(プロジェステロン)を分泌する。この作用により、子宮の内膜はますます厚くなって、受精卵が着床しやすい状態になる。受精卵が着床しないと、黄体はしぼんで白体となり、黄体ホルモンの分泌は急激に減る。
○4月経期
黄体ホルモンの分泌が衰えると、子宮内膜の血管に変化が起こり、血液の供給をストップする。こうして内膜の一部が壊死すると、はがれ落ちて血液とともに膣から排出される。これが月経である。
薄くなった内膜や血管が修復されて出血が止まるのに一週間近くかかるということなのです。
膣内に射精された精子は、子宮の中に大量に入っていきます、そして卵管にも、それを通り越して腹腔内にも。ということは、卵巣にも。三、四個ではありません。卵巣の中に入って行くことはできないと思いますが、とても小さなものなので、もしかすると可能かもしれませんね。子宮外妊娠というのは、多くは卵管にも着床したものですが、卵巣の表面や腹膜に着床してしまつた子宮外妊娠にもしばしば遭遇します。
排卵は必ずどちらかから一個だけということはありません。近頃は医療機器も発達して、私たちでも気楽に膣式の超音波の機械を使えるようになりました。それで卵巣を見ると、両方の卵巣に同時に、卵胞という排卵の準備がされている姿を見ることができます。
排卵誘発剤を使ってたくさんの卵子が一度に排卵され、四つ子、五つ子ができたというのは、聞いたことはありませんか? 双子のばあい、二卵性と一卵性があります。二卵性というのは、卵が二個出て、それぞれが受精、妊娠した場合。
一卵性は、受精した卵子が卵割の途中で二に分かれしまい、それぞれが成長したもの。だから、同じ遺伝子を持ち、姿もそっくりなのです。
ついでに、どうも、多くの人に何か勘違いされているのではないかと思うのですが、受精にはたくさんの精子が必要です。排卵された卵子に多くの精子が取りついて、みんなその表面の膜を溶かします。そして、いちばん最初に穴が開いた処から精子が入り込むのです。すると、その穴は塞がってそれ以上の精子が入れなくなります。ほとんどの場合は一個の精子だけが入りますが、時に、二個あるいは三個の精子が入り込むことがあります。
正常な受精卵は、46本の染色体を持っていますが、そのような場合、染色体が69本、または92本の受精卵ができてしまいます。これは人として育ちません。ですから、途中で発育をストップし、流産してしまいます。
流産というのは、昔は、女性が走ったから、無理をしからなど、ひたすら女性の体や行動のせいにされていましたが、今ではほとんどの場合、このように受精卵そのものの異常であるということが解っています。元気な子だけが生き残って、無事に生まれてくるという、まことに自然の理に叶っていることなのです。
おわかりいただけたでしょうか。きっと、正しく知ることで、生命の不思議さ、面白いさがさらに増すことでしょう。また、知りたいことがあったら、どうぞお手紙をくださいね。
性教育は本当に学校がすべきか?
Q 河野先生はいつも学校での「正しい性教育」の必要性を説かれますが、「なぜ、性の事を知るのに学校のような公認の場所で、管理された教え方をしなければならないでしょうか」(小浜逸郎『家族を考える30日』)というような考え方もあり、私は積極的に性教育の授業へと踏み切れません。
何回か性教育の集まりにも出ましたが、性の世界を語るとは人間の深さを語ることで、そんなに簡単じゃないと、どうしても思ってしまいます。本当に、特設の性教育の授業を、すべての学校でするべきなのでしようか?
(兵庫/T・M)
特設の性教育だけが性教育じゃない
A そもそも、学校とは何なのでしょうか? あなたの質問は「性教育とは何なの」の以前に、それが問われることだと思います。ひたすら偏差値を上げ、“いいと言われる大学”に進学させることのみが目的の学校であれば、全てにおいて「管理された教え方」しかできないでしょうね。
私は、自分なりに性教育に関わる中で、全国の多くの先生方の実戦に触れてきました。ある学校の社会科の先生には、男女雇用機会均等法の授業実践を発表していただきました。病院の看護婦さんやNTTの交換手さんなど、女性の職場に生徒たちが分担してインタビューに行き、女性が働くことについて、さまざまな発表をします。その中で男女の平等とは何なのか、生徒たちは考えます。
ある先生は、「従軍慰安婦」ついて、実際、韓国の元「慰安婦」だった方に会いに行き、そのビデオを生徒と共に見て、ディスカッションしていました。ある学校の英語の先生はビートルズの音楽の詩から、愛や平和について、語り合っています。ある先生は、ホームルームの時間に「援助交際」について先生と生徒が入れ替わってロールプレイをし、生徒たち自身が自らの尊厳について、考えています。
どれもこれも、素晴らしい性教育でした。
おわかりでしょうか? 性教育とは小浜さんが考えているように単純なものではありません。あなたが言っているように、奥の深いものです。命や人権や人生や社会について考える教育なのです。生物や保健や家庭科など直接関係深い教科だけでなく、さまざまな教科で取り組むことができます。先生方に意識と熱意さえあれば。
はっきり言って、特設の性教育の時間なんていりません。日頃の教科の中で先生たち自らの生き様をかけて、本音で生徒たちに伝えて行くことが出来れば、それで十分なのです。
とは言っても、私も、あなたの勤務されている兵庫県にはさんざん行って、生徒さんに話をしてきました。「特設の性教育」の時間です。たった二時間で、語り尽くせるものではないことは、私自身よく知っています。
でも私はその二時間、必死です、きれいごとや建前を話すことはしません。悲惨な話をいっぱいして生徒たちを驚かせようとも思いません。これから長い人生を生きるであろう生徒たちに「これだけは知っておいて欲しい。生きる基礎の力を身に着けて欲しい。そして豊かな人生を歩んで欲しい」という思いを凝縮して懸命に話します。生徒たちからは、さまざまな熱い感想文が届きます。
でも、正直言って、いつも虚しさはつきまとうのです。それは、先生方の反応です。「先生方、種は蒔きました。後はどうぞよろしく」という気持ちなのですが、それが全くない学校もあります。「うちは、そんな学校じゃないから、後の指導はいらない」と言われた校長先生もありました。
「そんな学校」って何なのでしょう。生徒が援助交際で補導されたからとか、生徒の妊娠が発覚したからとか、そういう学校だけが性教育をしなければならないとでも思われているのでしょうか? 私の話に反感を持たれたなら、それをそのまま出したらいい。そして、生徒たちにディスカッションをしたらいい。その中で、生徒たち一人ひとりが自ら考え、答えを出していくでしょう。
先生方の実践があって、それを補う形で私を呼ばれるのでしたら、とてもうれしい。でも、何もなくて、ただ何年かに一回、外部の講師を呼んで話を聞かせてそれで終わりというのでは、むなしいのです。それでもないよりはましかもしれませんが。
一九九七年夏、神戸で起こったあの悲惨な事件。犯人とされている少年が、幼児期から、家庭や学校で、命や生きることについて、どれだけ教えられていたのだろうか、と思います。受験一本やりの教育と性教育は、相反するものかもしれません。
でもそんな中でも懸命に生徒たちにそれらを伝えようとしている先生方の存在も知っています。今、私の学生時代を振り返って見て、そんな先生がやはり、いちばん尊敬できたし、いつまでも胸に残り続けています。
――あとがき
本文の中でも言っていますが、私は、すべての子どもたちに、きちんと「性教育」を受けて、豊かな大人になって欲しいと考えています。でも、現実はまだまだです。それどころか、「性教育」なんてしなくても、そのうちに自然に覚えるさ、自分たちの時代もそうだった、という声が相変わらずあります。
「性教育」なんかするから子どもたちが知らなくていいことに興味を持つんだと、性教育有害論を唱える人もいます。
また、望まない妊娠、人工中絶、性感染症などの性のトラブルばかりで脅(おど)して、生徒たちを何とか性の世界から遠ざけようと、「性教育」と称して、脅しの教育をしている人たちも多くいます。
その実、そう語る大人たちの性の世界は、子どもたちに誇れるほど立派なものじゃないのです。性風俗を作るのも、利用しているのも大人、レイプまがいのポルノを作るのも大人、海外で女性を買っているのも、みんな大人たちです。
一方、わが国の夫婦の性は、とても貧しいと数々のレポートが指摘しています。共に生きていく二人が、二人で十分に性を喜び合い、楽しみ合って生きていくことができたなら、二人で生きることがもっと充実し、楽しいものになって行くでしょうに。
私は、まず変わるべきは大人だと思っています。性は決していやらしいもの、恥ずかしいもの、隠すべきものではなく、とっても大切な素敵なもの。そういう意識を持つことが何より必要だと考えています。そのような姿勢でも、初めて自分の子どもたちや生徒たちに真っ直ぐに性を語って行くことが出来るのではないかと思うのです。素敵なセックスができる、素敵な大人になってね、と。
子どもたちは、有り余る情報の中で、迷い、かつ、知りたがっています。この本では、私の高校生たちへの答えに、大人の皆さんが違和感を持たれる箇所があったかもしれません。そこまで教えなくても」と。
でも、私は、大人が本音で子どもたちに向き合わなければと考え、全力で答えてきました。膨大な情報に触れながらも、彼らは正確な知識を持っていません。「性」というのは、知識はなくても、間違った知識を持っていても、行動はとれるものなのです。
ただただ、行動を押さえようとするだけではダメなのです。しっかりした知識を持つことで、自らの行動を選択して生きること、それを目指さなければ、と思います。
私のその思いは、日々の診療の場での態度と同じなのです。あまりに自分を大切にしていない子どもたちに、私は、必死で怒ります、彼女たちは涙をこぼしながらも、通院を止めず、懸命に向き合ってくれます。優しさと、同時に厳しさと、でも、それはあくまでも彼ら、彼女たち自身のために。そんな姿勢を持つことが大切なのではと、考えてきました。その思いが少しでも伝われば、幸いです。
この本をまとめるにあたって、金子さとみさんはじめ、高文研のみなさまには、本当にお世話になりました。『さらば、悲しみの性』から一〇年あまり、二冊目の本を高文研から出版できることをとても嬉しく思います。五年間にわたって連載を支えてくださった『月刊ジュ・パンス』の読者のみなさまも、本当にありがとうございました。すべてのみさまに、心から感謝申し上げます。
一九九八年五月 河野 美代子
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