殖能力を示す指標によって大きく左右され、一般的には年をとるにつれて価値が下がっていく。二〇歳のときは理想的な夫を獲得できた女性でも、四〇歳になってしまえば、たとえ他の条件すべて同じでも、もっとランクの落ちる男しか惹きつけられなくなる。 トップ画像

煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

女の価値の変化

本表紙
デビィツド・M・バス 訳=狩野秀之

女の価値の変化

ある女性が配偶者としてどれだけ好ましいかは、その繁殖能力を示す指標によって大きく左右され、一般的には年をとるにつれて価値が下がっていく。二〇歳のときは理想的な夫を獲得できた女性でも、四〇歳になってしまえば、たとえ他の条件すべて同じでも、もっとランクの落ちる男しか惹きつけられなくなる。

 こうした価値の下落は、女性が婚資(ブランド・プライス)によって文字どおり「買われる」社会において明確にあらわれる。ケニアのキプシギス族では、婚資は何頭かの牛、山羊、羊およびケニア・シリングからなり、花婿もしくはその家族は、それを花嫁の代償として家族に支払うのである。まず、花婿候補の父親と花嫁候補の父親とのあいだで交渉が行なう。

 花嫁の父は求婚者全員からの申し出を検討し、今度は逆に、これまでのどの申し出よりも多額の婚資を要求する。このようにして、交渉はときには数カ月も続き、最後に、花嫁側の父親によって花婿が選ばれる。同時に、基本的には花嫁の「質」に応じて、最終的な婚資の額が決まる。
 
 花嫁の繁殖価値が高ければ高いほど、要求できる婚資は高くなる。一方、年を取った女性は――たとえ四つか五つしか年上でなくても――低額の婚資で我慢しなくてはならない。

 それ以外にも、健康状態が悪かったり、身体に障害があったり、妊娠していたり、すでに他の男の子供を産んでいたりすることも、花婿候補から見た花嫁の価値を下げ、したがって支払う婚資を下げる要因になる。

若さと健康状態を何よりも重要視する

 女性の若さと健康状態を何よりも重要視するキプシギス族の慣習は、けっして特異なものではない。たとえばタンザニアのトゥル族では、離婚するときに婚資の一部を払い戻す慣習があるが、妻が年をとっている場合には、「身体的価値の下落」のために払戻額が少ない。

 ウガンダのセベイ族でも、年をとった未亡人は子供を産める期間が残り少ないと見なされるため、若い未亡人よりも少ない婚資しか払われない。

 年をとることが、女性の配偶者としての価値におよぼす効果は、男性の目から見た魅力が一生を通じてどう変化するに明確にあらわれている。ドイツで行われたある研究では、一八歳から六四歳までの女性が映っている三二枚の写真を用意し、一六歳から六〇歳までの男女二五二人に見せて、それぞれの写真の女性がどれくらい魅力的かを九点満点で採点させた。

 その結果、採点する人間の性別や年齢に関係なく、女性の魅力に対する評価は年齢と密接に関係していることが明らかになった。若い女性が高い評価を受け、年取った女性は評価が低かったのである。こうした年齢の影響は、採点者が男性の場合はさらに顕著だった。

 女性が年を取っていくにつれ、その魅力の評価が変わっていくことは、女性にとっては間違いなくマイナスであるが、ある特定の性差別的な文化が生み出した恣意的なものではない。そうでなく、こうした評価の変化は、男性が普遍的に備えている、女性の若さと配偶者としての価値を同一視する心理メカニズムを反映しているのだ。

 もちろん、例外は数多く存在する。一部の女性は、地位や名声、財産、人脈などに恵まれているおかげで、年をとっても配偶者として価値ある存在であり続けることが出来る。物事を平均化することは、個人的な状況の幅広い差異を覆い隠してしまいがちだ。結局、ある人間の配偶者としての価値は、あくまでも個人的なものでしかなく、選ぶ人間が何を求めているかによって決まる。

 ひとつ実例を上げれば、ある社会的に成功したビジネスマンは、妻と六人の子供とともに暮らしていた。だが、妻は癌に侵され、若くして命を落としてしまう。しばらくして彼は再婚した。相手は彼より三つ年上で、彼の子供たちを熱心に世話してくれる女性だった。

 この男性にとっては、子育ての経験が少なく、また自分自身の子を産みたがる若い女性は、配偶者としては価値が低かった。そうした配偶者は、六人の子供を無事に育てあげるという彼の目標を妨害する恐れがあるからだ。

 まだ子供が六人いて、これから新しい家庭を築こうとしている男性にとっては、五三歳の女性は価値が低いだろうが、母親が必要な子供たちを抱えた男性にとっては価値ある存在となる。実際に配偶者を選択する側からすれば、平均的な基準よりも個別の事情の方がずっと重要なのだ。

事情が変われば、同じ女性が異なった価値を帯びて見える

男性の側の事情が変われば、同じ女性が異なった価値を帯びて見えるようにもなる。さきほどのビジネスマンの例でいえば、この男性は、子供たちが大学生になると、子供を育てあげてくれた二番目の妻と離婚した。そして二三歳の日本人女性を妻に迎え、新しい家庭をスタートさせたのである。

 彼の行動は情に欠けており、誉められたことではないかもしれない。しかし彼のおかれた状況が変化したのも事実だ。彼の個人的な視点からみれば、子供たちが成人した時点で二番目の妻は価値が大きく下がってしまった。この新しい状況下では、若い女性の魅力がずっと増して見えたのだろう。

 平均化は個人的な状況を見えなくする面もあるが、多くの人生の軌跡の大まかなアウトラインを提示してくれるのはたしかだ。さらに、人間の配偶行動の心理を形成してきた適応上の課題について示唆を与えてくれる。妻の視点からすれば、年をとるにつれて自分自身の繁殖的価値は下がっていくので、繁殖成功を収められるかどうかは、子育てが上手くいくかどうかにかかってくる。子供とは、彼女の遺伝子を未来へ運んでくれる乗り物にほかならないからだ。

 一方、夫の視点からすれば、子供を育てるという妻の能力は、事実上何ものにも代えがたい価値のある資源である。また女性は、しばしば経済的な援助や家庭内の労働といった資源をも提供し続けてくれるが、そうした能力の大半は、繁殖能力とは違って年を取っても余り衰えず、ときには年齢を重ねるにつれ増大する。

 たとえばティウィ族では、年長の女性は夫にとって強力な政治的支援者となる場合がある。そうした女性たちはより広い社会的支援のネットワークを夫に提供し、場合によっては夫が更に妻をめとるのを手助けすることさえある。

 しかし、関係のない男性の目から見れば、年取った女性がふたたび配偶市場に参入してきた場合、その価値は一般的に低く判定される。彼女自身の繁殖能力が低下しいるだけでなく、その労働力が、すでにいる子供たちや孫たちの世話に振り向けられてしまう恐れがあるからだ。こうした変化が、結婚生活の過程で絶えず生じていくのである。
つづく 欲望の減退