デビィツド・M・バス 訳=狩野秀之
4 その場限りの情事
大学のキャンパスで、ひとりの魅力的な異性があなたに歩み寄って来て、こんなことを言ったと想像してほしい。
「やあ、さっききみを街でみかけて、すごく魅力的だと思ったの。ねえ、僕としとセックスしない?」(あるいは「さっきあなたを街でみかけて、魅力的だと思ったの。わたしとセックスしない?」)もしあなたがふつうの女性なら、われわれの調査によれば、一〇〇パーセント例外なく、きっぱりと拒絶するだろう。
突然こんなふうに誘われたら脅えるか、気分を害するか、あるいはただ単に当惑するのが自然だからだ。だが、もしあなたが男性なら、七五パーセントの割合でイエスと答えるだろう。
大部分の男性は、女性からこんなふうに誘われれば、それこそ舞い上がってしまうに違いない。このように、その場限りのセックスの機会に遭遇したとき、男性と女性とでは異なった反応を示す。
カジュアル・セックスは普通、ふたりの人間の同意を必要とする。われわれの祖先の男性も、相手が見つからなければ一時的な情事を行うことはできなかった。少なくとも一部の女性は、折に触れてそうしたセックスを行っていたはずだ。かりに、人類の歴史を通じて、すべての女性がひとりの男性と生涯添い遂げ、しかも結婚前にはセックスを経験しなかったとしたら、女性の同意のもとでカジュアル・セックスを行う機会はなくなっていたはずだからだ。
われわれの祖先が暮らしていた環境では、女性が婚外セックスを行なう際には、配偶者の目が届かないことが重要な条件のひとつとなる。夫のガードがゆるむ一瞬の隙に、婚外セックスは行われたのである。
男性が肉を求めて狩に出かけると、数時間から数日、ときには数週間も家を留守にせざるを得ないため、そのあいだは妻に目が届かなくなる。狩のあいだは、妻を無防備のまま放っておくか、さもなければ誰か親族を残して、形ばかりの監視をさせるしかなかった。
カジュアル・セックスは普遍的に見られる行為であり、進化的にも重要な意味をもっている。にもかかわらず、これまで行われてきた人間の配偶行動に関する研究は、その殆んど結婚だけに焦点を絞ったものだった。
一過性の男女関係は、本質的に不安定なものであり、また秘密裏に進行することが多いが、このことは研究をたいへん困難にする。一例を上げれば、アルフレッド・キンゼイが人間の性行動について調査した際にも、婚外セックスに関する質問には言葉を濁すのが常だった。
われわれが一過性の情事を軽視しがちなのは、心の奥深く根ざした価値観の表れでもある。多くの人々が、多情な人間を白眼視し、浮気者とののしるのは、そうした人々が自分自身の性戦略の邪魔になりかねないからだ。
既婚の男女から見れば、多情な人々の存在は、夫婦間の信頼を脅かすものに映る。また、これから結婚しようとする独身男女からすれば、そうした人々が存在するために、自分の伴侶となってくれる人間を見つけにくくなる。
われわれが短期的な性戦略をとる人々に、放縦、淫乱、女たらしといったレッテルを貼って貶めようとするのは、われわれ、あるいは少なくともわれわれの一部が、カジュアル・セックスを抑圧しようと望んでいるからなのだ。カジュアル・セックスは、ひとつの忌避(タブー)なのである。
しかし、それは同時にわれわれを誘惑してやまない。だからこそ、カジュアル・セックスについてもっと詳しく知り、それが人間の配偶戦略において、なぜこれほど大きな部分を占めているかを解き明かさねばならない。
つづく
生理学的証拠