サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
訳者あとがき
実に面白い本である。しかも役に立つ。
人間にとって性は、つねに大きな問題だった。どんな文化の中でも性は、その文化を決定する大きな要素となってきた――これが従来の考え方だとすると、本書の立場はさらに、一歩進んだものとなっている。性こそが歴史を作ってきた――著者は一環としてこの主張から実に面白い興味深い議論を繰り広げてきたのである。
と著者はまず、地球上に生命が誕生してその時から話を始める。なぜある種の生物は、有性生殖を始めたのか、直立歩行で道具を使うという特徴をもつホモ・サピエンス、集団で狩りや採集するホモ・サピエンスとって、有性生殖はどのような意味を持つようになったのか。
結婚の起源は? 人類最古の不倫は? 映像業界で働く著者は、前史時代の人類をまるで映画のように鮮やかに描いて見せる。
そして、専制君主の支配する時代がはじまる。この時代の性は、その政治権力と同じように、力のある物に集中していた。これはなぜだろう? どういう意味があったのか? 何がそうした歴史を動かしたのか? 本書を読んでいると。あたりまえのことだが人間の“気持ち”が歴史を作ってきたことがはっきりとわかって興味深い。
大きな歴史のうねりの中では、個々人の“気持ち”など無力に思えるのは今も昔も同じだろう。だが時代の流れを追っていくと、明らかに人の“気持ち”が歴史を作ってきたことがわかる。
そして、“気持ち”とはすなわち脳の働きである。著者は脳と性の関わりについても最新の知見を次々と紹介し、人類がいかに“性”を中心に生きてきたかを論証していくのである。
男はなぜ新しい女が好きなのか。女は何故生活力のある男に惹かれるのか。なぜ男と女の思惑はすれ違うのか。不倫や近親相姦はなぜ忌避とされているのか。いや、なぜヒトという生物はそもそも結婚することを選んだのか、なぜどの文化も、一夫一妻制に近づきつつあるのか、すべてを脳と社会のかかわりの中から論じていくのである。そして、本来生殖を目的としていたはずの性に、なぜ同性愛者やSM、死姦や獣姦といったバリエーションが生まれるのかも、豊富なケーススタンディとともに検証していく。
そしてこうした議論は、たんに教養を積み、知的好奇心を満足させるためだけのものではないということが、本書を読み進めていくうちに徐々にわかっていく。先進国の人々が自由を謳歌し、自己実現が人生最大の目的となった現代、梅毒や淋病といった性病は克服されたが、新たな脅威――エイズ―――に人々がおびえる現代、そして多くの人が結婚を選択しながら、その多くが失敗に終わる現代、もう一度性の在り方を見つめ直し、新たな論理を探る時がきたのではないだろうか?
世紀が変わり、かつてあれほど遠いと思えた2001年が現実のものになった今も、人類の進化は終わっていないようだ。人類はもっもっと協調して生きる道を探れるはずである。
より良い社会を作るために。そしてその際には、最小の人間関係――をよりよくする道を探らなければならないと著者は主張する。
新世紀の冒頭に出版されることとなった本書が、そのための、助けとなれば訳者としてもこれに勝るよろこびはない。
沢木あさみ
200年ほど遡る1790年、人の住まないこの島で新たな生活をつかもうと、15人の男と13人の女がやってきた。
最後に残った船乗りジョン・アダムズは、自分の仲間とポリネシア人たちが引き起こした悲劇にただ呆然とするばかりだった。彼のただ一つのなぐさめは、流血の日々を無傷で生き残った10人の女と、今や彼が1人で面度を見ることになった20人の子どもたちの存在だけだった。
男であれ女であれ人間の性的欲望の謎を解くには、人類の始祖に、性別の起源な、セックスの起源、生命の起源を遡らなくてはならない。マレーが前述の著作を発表してから6年後、一人の男がこれを試みた。そして彼の主張は、世界中で大論争を巻き起こすことになる。
シクストウス二世が、尼僧を誘惑したかどで裁判にかけられたのである。それからは、下り坂の一途をたどった。955年から964年まで教皇の地位にあったヨハネ十二世は、自分の母親や姪、自分の父の愛人たち、それに貴族の人妻たちと関係をもったともいわれている。
4、適応する心
どの研究を見ても、男性が性行為の機会を逃さず捕らえようとしていることがわかる。
一人の女性に賭ける時間は最小限にし、同時に何人もの女性と性行為を持ちたいと願う、それだけではない。
セックスの機会を逃しそうになったとき男性には、目の前の女性がとりわけ魅力的に映るらしい。
テストステロンが主として男性の性衝動を司るホルモンだという説に異を唱える者はいないようだ。精巣のライジヒ細胞で作られるクリスタル状のこの物質は、規則的なリズムで体の中を流れ、男性が生殖可能な年齢の間には、5分に一回ほどの割合でピークを迎える。
男性をセックス可能な状態にまで高からぶらせるのがテストステロンの仕事だと一般に信じられているため、欲望が極端に低い患者の治療に用いられたこともある。
三世紀に書かれたインドのセックス・マニュアル『カーマ・スートラ』は、パートナーを昂らせるテクニックとして噛むことを勧め、その五つの方法について詳しく書いている。
いい人と結婚したいなら純潔を守りなさいという母親らしい忠告はあまり愉快なものではないが、進化論的な裏づけはあるようだ。
夫との生活に戻るのに嫌気がさした女たちが、殺した男の中には愛人もいたが、それよりは夫を殺したケースのほうが多くみられた。なぜそんなことをしたかと訊かれたロザリー・セベスティエンとローザ・ホイダは、一言「夫がつまらなかったから」と答えた。
「男性を相手にして達せられないと女性はお互いの肉体を貪りさえする。女性は夫をへいきで裏切る」。
中世ヨーロッパで魔女狩りをしたヤコブ・シュブレンガーとハインリッヒ・クレマーは女性についてこういう記述を残している。
「女性は見た目には美しく、触れると汚れる。そして、手元に置くとこちらの命にかかわる」。
男性の性衝動について考察した際、男性にはできるだけバラエティ豊かな受胎可能な女性と性交したいという欲望がプログラムされていることを確認された。ラッセル・クラークとエレイン・ハットフィールドの実験では、魅力的な女子大生に声を掛けられた男たちが、すぐにセックスできそうな申し込みであればあるほど興味を示すことが解った。
主力装置が“ヴァギナ・ウォッチャー”で、ヴァギナの中にこれをつけておくと、生殖器周辺の小さな振動や収縮をたちどころに捕らえるのである。
この椅子には、意識上の興奮を測る装置を備えつけられている。たとえばレバーは、被験者が見せられている刺激的なシーンに対してどの程度興奮しているかを示すものである。だが、これよりは見過ごされがちな、小さな興奮が引き起こす身体的反応も、この椅子は逃さない。
人々が相手に求めている条件を集めたカテゴリー別に分けてみると、女性は男性の10倍も、地位の高さと豊かさを象徴する言葉(会社経営、高級な趣味の持ち主、成功した、豊か、暮らし向きがいい、経済的に余裕がある)に魅力を感じることが解った。
大きく息を吸って、彼女は丸みを帯びたお腹をなでた。「もしこれからあなたが逃げようとするのなら、あなたは私とこの子、二人を失うことになるのよ。これが最後のチャンスよ。一緒に愛情をもって育てる気がないのなら、今やめにした方がいいわ。今ならあなたなしでもなんとかやっていけるだろうから」
男性の性欲は主としてテストステロンのレベルが保たれていることによって引き起こされる。このホルモンがあるから男性は、出来るだけ多くの相手とできるだけたくさんセックスをしようとするのである。かたや女性の性欲には、非常に異なる三つのホルモンが複雑に混ざり合って影響を与えている。
セックスのあとヴァギナから流れ出た液体はいつも同質ではない。そしてそれは、射精の量とも関係がない。むしろ、“フローバック”の量は、女性のオーガズムのタイミングとの関係がある。
たとえばゴリラのように、一匹の雄がハーレムを形成する一夫多妻の種では、精巣は比較的小さかった。しかしもっとも性の平等が進んだ種、乱交が行われている種では、精巣は大きくなっていた。
とりわけ人類に近いといわれるボノボは、非常に大きな精巣を持っている。だが人間の精巣は、大きいとも小さいとも言えないサイズに落ち着いている。
男性がセックスに熱心で女性はえり好みするからだと。だがよく研究してみると、女性もまたつかの間の相手を選ぶとき、男性と同じ方法を選んでいる。男を“よい父親”と“悪い男”に分けているのだ。
だが戦いを繰り広げる双方には、共通点がある。双方とも、生物として避けられないハンディキャップを背負っている。男は子どもが自分のものだという確信を持てない。女にとって妊娠・出産は命を賭ける大仕事である
やがてヘレナは知る。妻同士の間にはつねに緊張が漂っていることを。一度などは新入りの妻が森で夫と過ごしあと帰って来ると、棒を持って待ち構えていた年上の妻に殴られた。
こういった争いはしばしば起こり、流血沙汰になることがよくあった。夫はそばで傍観していることがあれば、喧嘩に加わり片方の、あるいは両方の妻を殴ることもあった。
太平洋には、ロマンティックな恋愛の苦しみも喜びも知らない民族がいる。北アフリカの大草原には、嫉妬を禁じられている人々がいる。西アフリカのある部族では女性の方が豊かで数も少ないため、男性に性の奉仕を求め、男はそれに従う・・・・。
テリは家中を歩き回って、ランチにやって来る姉を迎える準備をしていた。一人は姉のボーイフレンドで、驚いたたにもう一人は、長年あっていなかった兄のキムだった。キムは生まれたばかりのとき養子に出され、そこで育ったのだ。
結婚はたしかにライバル同士。敵対しかねない者同士の絆を築くが、近隣の部族から年頃の女性がやってくれば、問題も相当引き起こしただろう。部族と部族を結びはしても、一つの部族の中では問題を抱え込む事になったかもしれない。
遺骨をもっと見てみると、手がかりが浮かんでくる。女性の生殖器付近と三人の頭のあたりに、粉を撒いたような跡がある。その粉は、赤土である。そのうえ、左側の男、女性に手を伸ばしているほうの男の尾骨は鋭いもので貫かれている。おそらく槍だろう。
嫉妬とは人間にとって、食べることや寝ること、性欲と同じような根源的な感情である。病的なものでも、例外的なものでもない。たしかに不快な結果を呼びはするが、進化論から見れば、人間にとって大事な感情の一つなのである。
デイリーとウィルソンは考えた。男と女の優先事項が違う以上、嫉妬を感じる要因も違うだろう。男は相手の肉体的な浮気により嫉妬を感じるのではないか。そして女は、感情の上での浮気に危機を嗅ぎ取るのではないか。見捨てられたり、夫の資産が他に行ってしまったりする可能性が出てくるからである。
その子どもが自分の子どもと確かめらなければ意味はない。それを確実にする唯一の方法は、妊娠していない、いや一度も男の手の触れたことのない妻を娶ることである。
そこで、男が女をこの先ずっと保護し、生活の糧を与えると誓う代わり、女の子宮を一人の男に独占させることが契約にまとめられるようになった。この契約が、バビロンでは結婚の雛型になった。
そしてその後世界中の結婚が、この形のっとって行われるようになったのである。
結婚したとき処女であることを確実にするためのいちばんむごい方法はこれではない。はるかに残酷で罪深い方法、そう女性の性器を切除する習慣である。
一般に性器切除と呼ばれているが、これから紹介する三通りの方法に関して言えば、実際は去勢に近い。
クリトリスを大部分切り取るという、この中では控えめな方法でさえ、女性の心と体に酷い傷を残す。この手術を行う理由ははっきりしていた。女性を純潔に保つためである。
西洋人がなかなかクリトリスの役目に気づかなかったのと違い、他の文化の中で生きてきた人々ははっきり知っていた。クリトリスは、抑制の利かない女性の性欲の温床である。
花嫁は処女でなければならないという思い込みは強く、異常なものだった。だが祭壇で儀式を行ったあとも、女性の苦難は続く、花嫁の純潔を確実にするための手段が色々あったように、人妻の貞操を守るためにも実に様々な手段が講じられてきたのである。
姦淫に与えられた罪はたんなる罰金刑から究極の刑――死刑――まで多岐にわたる。ハムラビ法典の与える罰は、厳しく単刀直入である。姦淫した妻と愛人は縛られ、川に投げ込まれ溺死させられる。また、夫に相手の男を処刑する権利を与えた社会もあった(妻の処刑はゆるさなかった)。今日でもアフガニスタン、バングラデシュ、イラン、パキスタン、ソマリア、スーダンの6つの国が姦通の罪を犯した者を処刑する。
民主主義が発達していくと、男たちは妻を自分たちで選ぶようになる。専制君主のようになりたいという野心は、政治の面でも性の面でも捨て去るのである。そして個人の自由という意識が根付いたところでは、一夫一妻制を後押しする要素が他にも表れる。
妾を持つのも普通のことだったし、厳格なラビ(ユダヤ教の牧師)たちはよきユダヤ人のためにセックスの回数まで決めていた。富裕層は一日一回。労働者は週二回・ロバ飼いは週一回。船乗りは年二回といった調子である。
ただしその一方で、小作に結びつかないセックスは厳しく弾劾した。男のろう出した体液は汚れていて、ホモセクシュアルはもってのほかであり、動物とのセックスは絶対に禁止だった。とにかく、性の対象は子どもを産む女でなければならなかった。
福音書に記されている聖マタイの言葉によれば、イエスの誕生はなんら特別なものではなかったようである。父ヨセフはダビデの時代まで血統を遡る敬虔なユダヤ教徒で、母も信心深いごく普通の女性だった。
パウロは一世紀の初め、キリキアのタノソスで生まれた。今でいうトルコの南岸の近くにある。ギリシア語を話すユダヤ人の社会で育った彼は当初、キリスト教に強い憎悪をいだいていたという。
使徒行伝によると、若い頃は神の使徒を弾劾する演説をしていたという。それだけでなく、キリスト教の最初の殉教者ステファノを石打の刑に処することを支持し、ユダヤ社会の当局に、異端者を見つけたら追い詰める権利を求めたという。
新たな敵はローマ人や競技場のライオンではなく、内面にある情熱、なかでも肉欲だった。外の敵と同じように手強く敵意を持ち、こちらを滅ぼしかねない敵である。こうやって「砂漠の教父たち」の時代が始まった。
男女の別もなく狂信的な隠遁(いんとん)者たちが、地上のすべての欲を断ち切って砂漠にこもり、肉体的・性的な自己否定を競い合った時代である。
パウロとヒエロニムスアウグスティヌスが処女性の大切さを強調すると、今度はイエスは罪に汚されずに生まれたてきたのだと協調する必要性が出てきた。いわゆる歴史の書き換えが行われた。イエス自身が純潔を守っただけではなく、その母親も生涯純潔だったのだと主張するようになった。
やがて、その主張は単なる伝承でなく、キリスト教の主柱となっていたのである。
そして、性交の目的はただ一つ、小作りに限られていた。この目的から離れれば離れるほど、罪が重い行為だとされた。そためホモセクシュアルリティ(二セットの精液が無駄になる)はマスターベーション(一セットの精液しか無駄にならない)より罪が重いとされ、レイプや近親相姦、姦通はそれに比べれば罪が軽かった。無理やりにせよ、精液が無駄にならずに子孫につながる可能性があるからである。
最初にブームがおきた北イタリアで、1259年、ある歴史学者が書いている。「夜も昼も長い行列が続く、先頭には、十字架と旗を掲げた司教たちが立つ。二列になり、自らを鞭で打ちながら、通りを練り歩いていた」中には五歳くらいの子どももいて、地方の役人たちも驚いた。
そして彼を街から追い出そうとしたが、うまくいかなかった。
これまでは道徳的・宗教的見地から非難されていたマスターベーションを、医学的見地から禁じたからである。潰瘍からインフルエンザまで、不妊から結核まで、狂気から死まで、身体の不調の主な原因はマスターベーションにあると説いたのである。
マスターベーションにこれだけ罪を着せるために、ベッカースは昔ながらの手を講じた。精液の消費が生命力を枯渇させると論じたのである。精液は大変な犠牲のもとに、血液から作り出されている。それを無駄にすると体力が落ち、貧血を起こし、病気にかかりやすくなる。
女の嫌いな男の子と、男の子好きな女の子は怪しい。また、肩が丸い、節々が硬い、下半身がだるい、やたらと明るい、寝方が変、乳房の発達が遅い(女の子場合)、大食漢、不自然で刺激的な有害物を好む(塩、胡椒、スパイス、酢、マスタード、土、石筆、糊やチョークなど)、シンプルな食べ物が嫌い、タバコを吸う、顔色が悪い、ニキビがある、爪を噛む、手が冷たくしっとりしている、動悸がする、ヒステリー(女の子の場合)、萎黄病、痙攣、夜尿、そして卑猥な言葉を使う子どもも怪しい。
誰もがこのリストから、逃げることはできそうもなかった。だがそれだけでは飽き足らずケロッグは、子どもがこういう兆候が見られなかったら何ごまかしているのではないかと疑えと書いた。
そして1960年代、ピルが登場する。コンドームやペッサリーはもうすっかり浸透していたが、女性がそれを手に入れるのは優しいことではなかった。セックスを忌まわしいものとみなす傾向は女性の中に特に根強く残っていて、いくら処方箋を持っていても、薬屋に入ってその名を口にしたり、ハンドバッグから出したり、あまり手慣れた手つきでそれを扱うのは気後れがした。
ペッサリーはそれよりは良かったが、装着が難しいと思った女性も多かったし、セックスでいちばん気分が高まっているときに装着するのは気まずいものだった。
ピルはこういう問題を、すべて解決してくれた。目立たないし、信頼性も高い。それに女性に月経のサイクルの知識を与えた。ピルの登場に女性は自ら情熱に身を任せ、性を楽しむようになった。行為の途中で中止したり、顔を赤らめながら野暮なことを頼まなくてもすむ。
女性信者たちに“釣り”を――セックスによる外部の男性の教団への勧誘を――強制していたのである。そして子どもたちでさえ、無差別のセックスを命じていた。何もかも――セックスも――不安なしに、えこひいきなしに分かち合うべきである。
ただしバーグ自身は、他のカルト集団の教祖と同じように、いちばんおいしいところをいただくのである。
主導者たちが作ったルールは迷信に、あるいは自分の持つ偏見に、あるいは(たいていは間違った)科学理論に基づいたものだった。たとえばノイズは、人間年を取れば取るほど人間性が高くなる傾向が多分にあり、若いメンバーは年上のメンバーとセックスすることによって、精神的な成長ができるのだと説いた。
人間には性によって?殖する生物で、人間を進化させてきた衝動も文化の影響を超えたところで、一人一人の性が違ってくるのである。それぞれが望み、そしてできれば実現してみたいという行為やシナリオに、個性が出てくるのである。セックスを語るとき、私たち“好み”という部分は、この第三の要因が創り出しているのである。
生殖のためだけの性を追及していたほうが、進化に有利なのではなかったのだろうか? 性のバラエティが自然なものとしても、そもそもなぜバラエティが生まれたのだろう? いったい何の目的があるのだろう?
この点をめぐってこれまで、性科学者たちの意見は二つに分かれてきた。
一卵性双生児の半数の人々に、やはり同性愛者の双子がいたのである。ただし二卵性双生児の場合は、一卵性双生児に比べて共有している遺伝子が少ないせいか、その率は20パーセントに留まった。そして養子のきょうだいになると、その率は急激に減り。十人に一人くらいになった。
受胎最初の四週目から五週目は、男でも女でもさほど変わらない成長をしていく。胎児には、小さな管が二本あって、これが精管もしくは卵管になる。また小さな細胞の塊があって。いれが陰のうとペニスもしくはヴァギナとクリトリスになる。このまま六週目、七週目に達してもホルモンが注ぎ込まなければ、胎児は女性として発達していき女の赤ちゃんとしてこの世に生まれてくる。
けれども、胎児にテストステロンが浴びせられると(胎児が男の赤ちゃんの場合、Y染色体からの合図で自然にそれがこの時期に起きる)、身体も脳も男性の形になっていく。陰唇でなく陰のうができ、クリトリスでなくペニスが出現する。
ゲイの男たちは、女のような視床下部を持っている。別の言葉で言えば、テストステロンの影響を受けなかった視床下部である。ルヴェイの実験だけでは、十分なテストステロンが脳へ到達していなかったせいなのか、そもそもテストステロンを受け入れるシステムを欠いていのか、それは解らない。ただ一つはっきりしているのは、ゲイの男がストレートの男とは違う頭脳の構造を持っていると証明されたのは。これが初めてだということである。
子どもが興奮するといけないので親の訪問はあまり歓迎されていなかった。スタッフが不親切なわけではなかった。子どもたちは食べ物を与えられ、守られ、温度の保たれた場所にいた。だが赤ん坊たちは、ただ一人も例外なく悲しんだ。
最初は大声を上げたり手を突き出したりして抵抗する。だがそのうち、受け身の失望に陥っていくのである。そしてここまで来てしまうと、いざ両親が帰って来ても喜ぶというより、怒りをぶつけたり、すがり着いたりする。あるいはまた、まったく関心を示さないこともある。
人間は幼いうちに性のパターンを身に着けるのだと信じるようになった。幼児は何をすれば快感を、不快感を感じるかを経験させ積み重ね、それを徐々に覚えていく、そしていったん覚えたことは、なかなか忘れ去ることはできない。
子どものとき感じた強い刺激は、感情の昂ぶりのパターンを作り出し、それは生涯残ると、子どものとき虐待を受けた人々が大人になって逆に虐待する側にまわることも、ここから説明することができる。
誰にも見られないと思うと、四歳から五歳の子供たちは誰かと抱き合い、リズミカルな、まるでセックスのような運動を始める。もちろんオーガズムは(普通は)感じていないが、大人がセックスをするような動作を通じて、快感を得ているらしい。
思春期に達した。子どもに一切の性的知識を与えないのも、子どもにとって害になる。レイプや獣姦、あるいは死姦など極端な行動に走る性倒錯者たちを調査してみると、その半数以上が性に関する話題を厳しく禁じられた家庭に育っている。
性的倒錯者の90%が男性だというのは、興味深い事実である
どんな人間でも――自分では完全に主流に属していると思っていても――少なくともファンタジーの世界では、特異な嗜好をみにつけいく、ナンシー・フライデーの集めた書簡の数々を見ても分るし、大衆向けポルノ雑誌を見てもわかる。人間は常に、基本となる性欲にちょっとしたひねりを、ちょっとした飾りを加えたくなるのである。
プラトンの、黄金分割の理論である。プラトンによると、すべて美しいものは黄金分割にしたがっている。数値化すると、一対一・五の比率である。これを人間の顔に当てはめてみると、髪の生え際から口までの長さが、鼻から顎までの長さの一・五倍であればいい。
また目から顎までの長さが髪の生え際から目までの長さの一・五倍であるべきである。時を経てこの理論は顔のパーツにも適用されるようになった。理想的な唇は鼻の一・五倍、理想的な形の歯は縦が横の一・五倍といった具合である。
香港からインドまで、アフリカからアゾレス諸島まで、どれくらいの細さの女性が好きかは地域によって異なっていたが、好みのWHRに関してはどこでも同じ答えが出てきたのである。つねに、いちばんWHRの低い女性を指差し、部族の一人が言ったのだ。「これがいちばんきれいだ、6人か8人くらいは子どもを産めるだろう」そして、比較的ずん胴な女性を指して言った、「この女はあまり子を産まない」
男性の場合いつも10点満点の顔は下あごが広く、顎先が鋭く、眉が立派になっている。女性の場合、これが逆になる。下あごの小ささが特にものを言うようだ。顔の上半分の長さに特徴がある。目が大きく、頬骨が発達している。
リバプール大学のジョン・マニングが行った画期的な研究では、女性の場合軟組織が排卵期にふくらみ、顔がシンメトリーになるという。いちばん受胎しやすい時期に、いちばん美しくなるのである。
同僚のギャングステッドと共にその結果分析してみると、明らかなパターンが浮かび上がってきた。もっともシンメトリーな男たちは、もっとも左右不均衡な男たちより、初体験の年齢が三・四年早かった。明らかにシンメトリーであることは、セックスの相手を見つける上で有利なようだった。男女問わず、シンメトリーな人々の方がそうでない人より、これまで多くの性の相手に恵まれてきたことが解ったのである
女性用であれば男性用であれ最も高価な香水の成分は、果物や花、あるいはスパイスから得られるのではなく、動物の下半身から得られるのである。ジャコウジカの腹から獲れる麝香、マッコウクジラの腸から獲れる
竜涎、エチオピアの雄猫のアナルにある腺から獲れるシベット、ビーバーの下半身から獲れるカストリウム。いずれも多大な費用をかけて、時には非合法で、この絶滅しつつある動物たちから獲るのである。
そしてこれが、香水にセクシュアルなパワーを、生々しさを、官能に与えているのである。意識の上では人は、果物の匂いに惹かれる。だが反応しているのは、動物の匂いの方なのである。
バラエティを求める本能。文化の影響も、育ててくれた親の価値観を超えて、ただ一つのタイプの相手を、いや、ただ一人のひとを求める機能が、人間の中に植え込まれていると言うのである。その相手こそ文字通り、“出会うために生まれてきた”その人なのだろう。
愛は、多くの解けない疑問を投げかけてくる。親が子どもを世話するとき必要なのだが、生殖のときは必ずしも必要なわけではない。欲望と憧れとも愛着とも違う。セックスや結婚を続けていくのにも――いや、楽しむためにさえ――必ずしも必要ではない。それに恋愛の扱われ方は、文化によって全然違う。
盲目の愛に陥った人でも初めは、同時に何人もの相手に惹かれたていることがある。だが奇跡が起こり、思う相手と気持ちを確認し合うと、他の候補者は目に入らなくなり、情熱が燃え上がって、だんだん愛が成熟して行くのである。
もちろんセックスも大事な要素だが、精神的な絆も強く感じている。身体の中心だけでなく心の中心で、相手とつながっているのがはっきりと意識できるのである。
南太平洋の民族を専門とする人類学者のドナルド・マーシャルがマンガィア島を訪ね、ある男たちに出合った時から始まった。マーシャルは、彼らにビールをご馳走し、ここではみんなどんな性生活を送っているのかと尋ねた。すると彼らが答えた。18歳の男なら、毎晩三回はオーガズムに達する。28になるとそれが。一晩に二回、周に五回まで落ち、40になると、一晩一回、周二、三回になる。
人間が本当に自分に相応しい相手を探し、認め、応えるための非常に精密なメカニズムだと見なしていたのである。そういう相手が探せないから、あるいは間違った相手と一緒になってしまったのなら、それは私たちが何か義務を怠っているからだとプラトンはほのめかした。
精力的に(そして幸運に恵まれ)そういう相手と巡り会えたなら、言うに言われぬ喜びが得られる。
宮廷にいた高貴な婦人たちが、ひまにまかせて完成させた原則である。まずは、騎士たるもの、自分の結婚相手でない高貴な女性に愛を表明していい。いや、しなければならない。そして、女性の気持ちを勝ち得るためならどのような試練をも潜り抜け、女性の名を汚さぬようにする。
そうすれば、一緒にベッドに入る以外の交流をすべてが許される。このような契約が、女性の不貞を防ぐためにあったのか、それともごく一般的な感覚、世俗のものより精神性を重んじるキリスト教の影響から生まれたのははっきりしない。たしかに全面的ではなくあくまで部分的に思いを寄せ合うことが、熱意をますます募らせたのである。
私たちは都合の悪い相手に、都合の悪いタイミングで恋をする。社会に禁じられても、進化の掟にのっとっていていなくても恋をする。ならば、恋が引き起越される原因が、他に何かあるに違いない。どんな相手に出合うかとはさほど関係なく、恋に落ちやすい時期とそうでない時期を分ける原因が、何かあるに違いない。そしてその原因は年齢や心の状態、気分に関わっているものに違いない。
オキシトキンのレベルは出産前後や授乳期だけでなく、次の三つの行動をとっている時にも上がるからである。それは愛撫とキス、それにセックスである。その上、効果は女性に留まらない。数年前に行ったマスターベーションをしている男性を対象にした経験によると、射精の瞬間にオキシトキンのレベルは最高に達する。
おそらくこれが、オーガィズムとその後の心地よいけだるさをいっそう快いものにしているのだろう。
ウルスラとジャスティンの物語は、西洋的な理想の愛である。最初から結ばれる定めにあった二つの魂が出会というプラトン式の思想と、宮廷式恋愛にあるのと同じ情熱や危険、そして結末がある。だが、誰もがそのような身を焼き尽くすような恋に出会えるわけではないことを嘆くより、私たちはそのような激しい恋がめったにないことを感謝しなければならない。
決して愛し返ししてくれなそうな相手を選ぶことなく、二人とも幸せで長続きする関係を築くためにこそ、恋愛は発達してきた。遺伝子を後世に伝えるためには、そう言う愛情が欠かせないからである。ならば愛する相手を選ぶときには、理想と現実――実際自分に愛情を返してくれそうな可能性と言う現実――バランスを取らなくてはならない。
危機が訪れたときの問題なのは二人がどれくらい言い合いをするかとか、どれくらい我慢できないところを持っているかではないとゴッドマンは言う(誰にでも、どうすることもできない欠点はある)。あるいは、浮気心があるかどうかはさほど問題ではない。それより重要なのは、問題が持ち上がった時どの様に対応するかどうかなのだと彼は言う。