サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
似ているけど違う
次の二つのうち、どちらが本当だろう? 一つ目――自分と似ていない人に惹かれる。二つ目――自分と似て入る人に惹かれる。人間同士の関係についてのこの疑問に関しては、多くの議論が繰り広げられてきた。
60年代と70年代に行われた研究、特にエレイン・ウォルスター。ウィリアムズ・ウォルスターの研究によると、自分と似ていない人に惹かれるというほうが真実のようだった。何人かの人々を見せて、この人々が皆あなたに惹かれるとすれば、あなたは誰を選ぶか教えて欲しいと頼んでみると、たいていの人は自分と一番似ていない人を選んだのだ。欧米人には一般にこうした感覚があるため、ロミオとジュリエットのような物語に惹かれるのだろう。
ところが同じころ、ドン・バーンと同僚たちの行った同じような大規模な研究では、まったく逆の結果が出た。その実験の被験者たちは、ルックスでも性格でも似たような相手に惹かれると言ったのである。この現象は、水に映った自分の姿に恋をしたギリシア神話の投じよう人物にならって、ナルシスト効果と名付けられた。
最近、セント・アンドリュース大学で性的魅力について研究している心理学者デイビィッド・ペレットによって、ナルシスト効果を裏付ける研究成果が発表された。前章に登場したジュディス・ラングロイスやヴィクター・ジョンストンと同じように、ペレット・コンピュータを使って、色々な顔を――平均的な顔――作り出した、それを評価してくれと被験者に頼んだのである。
ラングロイスの研究と同じようにこの研究でも、別々の顔の要素を混ぜ合わせた平均的な顔の評価は別々の顔より高く、理想的な顔の評価はさらに高いことが裏付けられた。しかもペレットの研究はさらに一歩進んだものとなった。
高度なプログラムと勘を頼りにペレットは、被験者自身の写真の、性を変えたバージョンを作り、それに混ぜておいたのである。その結果解ったのは、男性は自分の女性のバージョンを求め、女性は自分の顔の男性バージョンを求めているということだった。
平均的な顔や理想的な顔を含むその他の写真に比べても、多くの人は自分の顔の異性バージョンをえらんだのである。自分の顔だとは気づかないまま、それがいちばん魅力的だと言ったのである。自分の顔の異性バージョンには、何か言い表せない魅力があって、引き寄せられるらしい。
表面的に見た限りでは、これは意外である。クァジモドは男性であろうと女性であろうとクァジモドであり、やはり自分よりエスメレルダに魅了されるのだろう。そのうえ匂いの研究に際に見てきたように、人間にとって自分と違う相手を選んだ方が得策である。違った相手すなわち違った遺伝子の持つ主であり、そのほうが健康な子どもが生まれるからである。
だが考えてみよう。多くの人々が、マリリン・モンローのように魅力的な女性やJFKのようなカリスマ性のある男性に惹かれる。それでも、多くの人がああいう傑出した人物と恋に落ちるわけではない。
それはひとえに、相手の愛情が得られる可能性が低いからである。だから愛には秘密の安全装置がある。愛は愛を返ししてくれる可能性のない相手に一方的にぶっける感情ではないのである。
今日では、そうした一方的な愛情がストーキングという現象まで生み出している。自分が崇拝する相手が、自分の事を愛し返してくれていると思い込んでしまう現象である。最初に記録に残っているのは、ジョージ五世と自分は情熱的な恋をしていると思い込み、来る日も来る日もバッキンガム宮殿の門の外にたちつづけた女性の話である。
ティーンエージャーが見る夢くらいなら害はないだろう、そうした思い込みは大人の愛情生活にとって危険である。究極の目的――生殖――を果たすためには、愛が一方通行のものではいけないからである。
決して愛し返ししてくれなそうな相手を選ぶことなく
二人とも幸せで長続きする関係を築くためにこそ、恋愛は発達してきた。遺伝子を後世に伝えるためには、そう言う愛情が欠かせないからである。ならば愛する相手を選ぶときには、理想と現実――実際自分に愛情を返してくれそうな可能性という現実――バランスを取らなくてはならない。
そしてその可能性がないかぎり、恋愛は花開かない。そしてドン・バーンやアーサー・アーロンは言う、愛して返してくれそうな相手かどうか見極める際に最も信頼できる目印の一つが、似ていることなのである、と。似たような外見や技術や性格の持ち主は、全然違う種類の人間よりも、愛してくれる可能性が高い。
心理学者のブルース・エリスは、面白いやり方でこれを学生たちに教えた。30人のグループを作り、数を書いた紙をそれぞれの額に貼ったのである。それから学生たちに、なるべく大きな数の人とペアを組むように言った。もちろんみな30の紙を貼った学生の周りに集まるが、その学生は29の紙を貼った相手にしか興味がない。
すると今度はみな、28の紙を貼った相手の周りを取り囲む。そして28の学生は、27を選び、26は25を選ぶ。これがずっと続いていく。
現実もこの実験と同じなのである。最高の相手の気を引くことができないならば、こちらにそれほど魅力がないとするならば、自分を受け入れてくれそうな相手の方に向かい、そこに居場所を見つけなければならない。それぞれの相手は、それぞれ提供してくれる長所を持っている。だが結局選ぶのは、自分と似たようなレベルの相手なのである。
だからこそ、テノブやスタンダールが見出したように、恋する人は相手の長所を誇張し、欠点を見なくなったり長所にすり替えたりするのだろう。スタンダールの言葉で言うなら、私たちはただの棒に恋をしながら、それがダイヤモンドを散りばめた杖だと思い込むのである。
エリスの言葉で言うなら、五点の人に恋をしながら、相手に十点をつけるのである。詩人や哲学者が指摘してきた愛の盲目性は、残酷な罠ではなく、人間が愛を返してくれそうな相手を選び、手に入れ、そしてずっと一緒に生活していくため役に立っているのである。
完璧な相手を望みながらも、自分と似たような相手を選ぶという現象も、これで説明がつくだろう。
それに、ウォルスター夫妻の研究が一見矛盾した結果を出したのは何故かもわかる。この実験の被験者は、自分に似ていない相手を選びがちだった。だがそれは、相手が自分に惹かれているという前提に立ってのことだったのである。
決して愛情を返してくれる望みない相手を追い求めて時間を無駄にしなくてもいいことになると、似た人ではなく、補い合えそうな人を選ぶのである。その結果、様々な長所を提供し合ってより一層質のいいものを生み出せる相手を選ぶのである。
つまり最高の相手とは、お互いに惹かれあいながら補い会うことのできる組み合わせである。彼が何かに優れている。彼女は他の何かに優れている。彼は創造的だ。彼女は現実的だ。彼は料理が上手い。彼女は外国語ができる。彼は天才肌である。彼女は話が上手い。こうなると、同じような能力をもって狭い範囲で競い合うのではなく、もっと広い範囲で成功できるし、多様な能力を持った遺伝子を次世代に伝えることもできるのである。
そこで最初の質問に戻る。人は自分と似ている人に惹かれるのか?両方とも真実である、と答えるしかない。広い意味で自分と似ているがお互いに補い合えて一プラス一が二以上の結果になる相手と巡り合えたら理想的である。
だが本書を通じて見てきたように、男と女がめぐり合い、一緒に仲良く暮らしつづけているということは――出会ったその日から死ぬ日まで、ずっとお互いに満足していられるということは――なかなかかなわない夢である。
つづく
65、愛と結婚
危機が訪れたときの問題なのは二人がどれくらい言い合いをするかとか、どれくらい我慢できないところを持っているかではないとゴッドマンは言う(誰にでも、どうすることもできない欠点はある)。