サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
完璧な愛の結末
ジャスティンとウルスラが出会ったのは、1954年の夏のことだった。
ジャスティンは十六歳のイギリス人で、パブック・スクールに通っていた。両親は裕福で人脈も広かった。一方ウルスラはハンガリーからの移民で、シープスキンのコートとスノーブーツとわずかな食料だけ持って、オーストリアの国境を越えてやってきた女性だった。その上、ウルスラは、ジャスティンより十歳年上だった。
二人が出会ったのはウルスラが夫と一緒に、ジャスティンの両親を訪ねてきたときのことだった。ジャスティンにとって、それはまさに一目ぼれだった。その夜、彼は彼女のベッドルームまで行って、ドアの下に愛していますと走り書きを置いた。その翌日、彼女はいなくなっていた。
次の夏、十七歳になったジャスティンは、両親が借りていた南フランスの別荘を訪ねた。そしてそこで、彼女に再会したのだった。彼女は庭で、ブランコに乗っていた。ジャスティンは、一年前と同じようにその姿に心を奪われ、今度はまっすぐ彼女の元へ向かい、愛していると告げた。すると彼女は、わっと泣きだした。そして数週間後、彼女は、夫を捨ててジャスティンと一緒に残りの生涯を過ごすことを決心したのだった。
その後17年間、二人だけで世界中を旅した。二人とも、相手の事しか考えられなかった。二人とも、もう相手の側から離れられなかった。お互いに対する二人の情熱は他の者すべて退けるほど強く、ジャスティンの家族でさえ二人に近づけなかった。ジャスティンの兄、ティムが『記念碑』という本を書いたように、親友も兄弟たちさえも二人の間に入れ込む隙間はなかった。
そして、二人が“ぴったり合わさった果物のように”お互いを補い合って20年間過ごした1981年のある日、ウルスラが死体となり、ホテルで発見された。そばにはリボルバーと睡眠薬の山があった。彼女の日記などまわりにあった書類から、彼女は年老いていくことに絶えられずに死を選んだことが浮かび上がってきた。
四十四歳になったウルスラは死を意識はじめた。これまであれほど強くすべてを犠牲にする愛に身を捧げてきたウルスラにとつて、その愛の力が弱くなっていくかもしれないという事実は、死以上に恐ろしいことに思われたのだ。
知らせを聞いたジャスティンは、嘆き悲しんだ。何も彼を慰めることはできなかった。彼は二人で訪れた場所に通い、両親の元に戻った。それから彼女の面影を求めて、ロンドン中をさまよった。数ヶ月後、彼はアフリカに出かけた。ウルスラと二人で多くの時間を過ごした土地だった、そしてそこで、自分の頭を打ち抜いて自殺した。ティムが遺体を引き取りにハルトゥームのホテルに向かうと、ジャスティンはウルスラの写真に囲まれて死んでいた。
ティムは遺体を近くのニアラまで運んで行った。ジャスティンがそこに埋葬されることを望んでいたからである。ここにはウルスラの墓があり、横にギリシア語でこう刻み込まれていた。「ウルスラとジャスティン、一つに」ジャスティンのための場所が、すでに用意されていのだ。
ある意味でウルスラとジャスティンの物語は、西洋的な理想の愛である。最初から結ばれる定めにあった二つの魂が出会というプラトン式の思想と、宮廷式恋愛にあるのと同じ情熱や危険、そして結末がある。だが、誰もがそのような身を焼き尽くすような恋に出会えるわけではないことを嘆くより、私たちはそのような激しい恋がめったにないことを感謝しなければならない。
もし誰もがたった一人の相手に出合い、その瞬間雷に打たれたようになるとしたら――そして、そういう出会いに恵まれないと絶望に陥らなければならいとしたら、人類はとっくに滅びていただろう。地球上に現在も60億もの人間がいる以上、自分にぴったりのソウルメイトに出会える可能性は非常に少ない。もし出会えたとしても、それに続く情熱のきらめきに比べると、長続きする愛の持つ穏やかさはむしろつまらなく思えてしまうかもしれない。
ウルスラが直面したのはまさにこの問題だった。自分をジャスティンのもとへと向かわせた激しい情熱が収まっていくことに、どうしたらいいのか解らなくなってしまったのである。
だが辛い、愛とは――その目的からいっても――もっと寛容で柔軟性があるものである。愛はぴったりの相手を探すためにあるではなく、自分によさそうな相手をちょうどいいタイミングで探し出すためにあるからである。ぴったり。ではなく、よさそうな、というのが鍵である。
なぜ人がある人々には惹かれ、別の人には惹かれないかと考えてほしい。前章で私は、人が出会ういの相手を判断するには二種類の力が働いていると示唆した。一つ目は、若さや健康、受胎能力などをあらわす一般的な美の基準である。そしてもう一つは育っていく過程で身に付けた個人的な価値基準である。つまり、一般性と特殊性が混じり合うのである。
それでは。なぜ人がある人には恋をしてある人には性的欲望を感じるだけで終わるのか、それを決める三つの基準を紹介しよう。この三つの目の基準は、相互補完性、すなわちお互いに補い合えるかである。
つづく
64、似ているけど違う
決して愛し返ししてくれなそうな相手を選ぶことなく、二人とも幸せで長続きする関係を築くためにこそ、恋愛は発達してきた。遺伝子を後世に伝えるためには、そういう愛情が欠かせないからである。ならば愛する相手を選ぶときには、理想と現実――実際自分に愛情を返してくれそうな可能性という現実――バランスを取らなくてはならない。