愛は人を次から次へと危険な目に立ち向かわせ、興奮をもたらし、人間は落ち着いて遺伝子を次世代に残すことさえできなくなるからである。もちろん愛する人を追いかけるだけのエネルギーは必要だし、初めて拒否されてもくじけないだけの意志の強さは必要である。トップ画像赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

長続きする愛

本表紙
サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳

長続きする愛

ストックホルムのカロリンスカ・インスティテュートの研究者、ケルスティン・ウブナス・モバーグは、伝統的な恋愛観を恋愛に関する真実を表しいているとは思わない。いや、真実を半分しか捉えていないという言い方の方がいいかもしれない。

ウルリッヒが、ロミオが、イゾルデが愛する人に向けたような胸を焦がすような激情、眠ることさえ忘れるような興奮を愛と呼ぶならば、いや、愛が只のそれだけのものならば、愛の存在が、健全な進化を妨げる可能性さえある。

 愛は人を次から次へと危険な目に立ち向かわせ、興奮をもたらし、人間は落ち着いて遺伝子を次世代に残すことさえできなくなるからである。もちろん愛する人を追いかけるだけのエネルギーは必要だし、初めて拒否されてもくじけないだけの意志の強さは必要である。でなければ、誰とも愛し合えるチャンスはない。だが、そのような“すべてを焼き尽くすような情熱”は、いつかは抑える必要がある。

 陽気で口数の多いウブナス・モバーグだが、真摯な研究で、とくにオキシントキンと呼ばれるホルモンに関しては世界有数の研究者だといっていい。視床下部(ア脳画像ドレス入れる)の奥で分泌される下垂体で制御されているオキシントキンは、燃えがあるような恋の情熱を静め、穏やかな静かな喜びに変えていく働きがあるのではないかと言われている。

 オキシントキンのようなホルモンの影響に関する研究は、生物学の中でも最も込み入っていて、だからこそ魅力的な分野である。これから解明されることはが、まだまだ多い分野でもある。時折ホルモンとホルモンのつながりに関する仮説が立てられ、その研究成果が発表された途端、そのホルモンが別々の物質が集まった構成物であることが解ったりする。

そしてそれは、濃度や構成のバランスを、たいがいの状況に合わせて変えていくのである。ホルモンの数があまりにも多く、またそれがしばしば逆に作用しあうので、内分泌学者は他人の研究に目を通すだけでもかなりの時間を取られる。

だが21世紀の薬品会社は、この分野の研究に推し進めることで多くの利益を得るだろう。プロザックのようなヒット商品も、薬物中毒患者に対する即効性のある解毒治療も、分裂病患者向け薬品の改良も、みな我々の頭の中のホルモンの謎を解く事によって生まれるからである。

男性の脳にも女性の脳にも、快感を与えたり、環境に適応させる機能をもつ神経伝達物質には

四種類ある。これはテストステロンやエストロゲンと同じようなホルモンだが

もっと微妙な性質を持っている。その本部機能は脳にあり、男性にも女性にも似たような効果を表す。

こうした神経伝達物質のうち最も知られているのがアドレナリンで、これが恋の始まりにも大きく影響している。だがアドレナリンにはまた、別の役目もある。脅威にさらされたときなどに、とっさに対応できるのもこのホルモンのおかげなのである。

アドレナリンが放出されると、血が筋肉に行き渡り、心臓の鼓動が早くなり、血糖値が上がる。それと同時に消化機能が落ち、口が渇き、胃が栄養を吸収しなくなる。気分は昂ぶり、心も身体も行動を起こす準備を整える。

ほかの神経伝達物質と同じように、アドレナリンも微妙な量の調節を受けて初めてきちんと作用する。神経伝達物質が複雑に混ざり合ってはじめて、人間の脳は外の環境に反応できる。その主なものにドーパミン、セロトニン、そしてエンドルフィンなどがある。こういう神経伝達物質も、人の感情に影響を与える。

そしてこのカクテルの中に、もう二つ、謎の成分が加わる。この二つが恋にまつわる行動と密接に関連しているのではないかと言われている。その一つはフェニレスラミンで、PEAと省略される。

PEAは、激しい恋に突然落ちた人ならみな覚えがあるあの、“宙を歩いているような”気分にさせる神経伝達物質である。PEAが“ロマンスのホルモン”ではないかという人もいるが、おそらくこれは間違いないだろう。恋の常習者の中には、もともとPEAレベルの低い人が多い。これを上げるために、次々と恋の冒険に乗り出すとのだとも言われている。

もう一つは、ウブナス・モバーグの得意のホルモン、

オキシトキンである。

以前からオキシトキンは、出産に関係のあるホルモンだといわれていた。分娩のときの強い収縮をもたらし、出血を抑える働きがあるからである。
だがウブナス・モバーグによると、オキシトキンの役目はもっと幅広い、そしてその影響力は、肉体だけでなく心にも及ぶ。

 ウブナス・モバーグは、前章でも取り上げた愛着行動を研究する研究者と同じように、母と子の相互作用に強い興味を抱いた。そして、子どもとの間にすぐ強い絆を築くことができる母親がいる一方で、なかなかそれができない母親がいるのは何故だか知ろうとした。

 だがウブナス・モバーグのとった手法は、行動を観察するに留まらなかった。母親たちの身体の中をじかに見てみたいと思ったのである。その芽に母親たちの血液を分析して、目には見えない絶大な力を持つオキシトキンの濃度を分析してみたのである。

 この実験はカロリンスカ・インスティテュートの居心地のいい部屋で行われた。ここで出産したばかりの母親と赤ん坊を集めたのである。仕事をするには最高の場所だった。時折赤ん坊がぐずったり泣いたりするが、穏やかな満ち足りた雰囲気が漂っていた。この部屋の人々はみな、かっとしたことのなどないように思えた。

 母親たちが、子どもに乳をやり始めると、部屋は温かな、どんよりとしていると言えるほどの空気で満たされた。ここでウブナス・モバーグは血液サンプルを取り、それを分析した。すると、興味深いパターンが浮かび上がってきたのである。
オキシトキンのレベルが高い母親ほど母乳の量も多い。そして、気分も穏やかである。落ち着いて、リラックスしていて、だから赤ん坊との絆も築きやすい。

もちろんこれは、ホルモン研究には付き物の鶏か卵かのパターンに陥りかねない。ホルモンがあるから行動をとるのか、行動をとるからなお一層ホルモンが分泌されるのか。原因と結果を切り離して考えることは難しいが、オキシトキンの研究ではこれはとりわけ重要である。もしこのホルモンが人間が最初に経験する深い愛とそれほど密接な関係があるならば、人生のもっとも後のほうで経験する愛と関係があるかも知れないからである。

そしてウブナス・モバーグによると、おそらくそこにある関係がある。オキシトキンのレベルは出産前後や授乳期だけでなく、次の三つの行動をとっている時にも上がるからである。

それは愛撫とキス、それにセックスである。その上、効果は女性に留まらない

数年前に行ったマスターベーションをしている男性を対象にした経験によると、射精の瞬間にオキシトキンのレベルは最高に達する。
おそらくこれが、オーガィズムとその後の心地よいけだるさをいっそう快いものにしているのだろう。

さらにウブナス・モバーグは最近の実験で、マッサージの最中もオキシトキンのレベルが上がることを確かめた。ある男性は長いマッサージのあと、授乳期の母親と同じレベルを示した。ウルリッヒにとっては最後の目的だったキスや触れ合いや愛撫が、多くの人々にとっては始まりなのである。

こう見てくると、愛には二種類あるのがわかる。それぞれの別々のホルモンと関係があり、別々の機能がある。まずはアドレナリンやそれと関係するホルモンが、激情を呼び起こす。これがあるからこそ、愛する人と自分の間を隔てる者があってもものとしないのである。やがてそれが、オキシントキンと関係する穏やかな喜びにとって変わる。こういう状態になってこそ、安定した長続きする関係を築き、次世代を育むことができるのである。

歳を経て賢くなった人なら知っているように、本物の愛とは盲目の愛よりずっと大きなものである。ウルリッヒやロミオとジュリエットやあの可哀想なヴェステロイ博士を捕らえた強迫観念よりずっと大きなものである。出会いのころ感じる激しいあこがれは、やがて安定した穏やかな愛にと変化を遂げていく。追いかけっこのスリルが、ずっと一緒にいて子育てをすることの喜びへと変わっていく。プロポーズの瞬間の歓喜が、結婚生活の穏やかな喜びへと変わっていたのである。

そして愛が変化していくにつれ、私たち自身も変化していく、胸を焦がしていた時には感じなかった食欲を取り戻し、ぐっすり眠れるようになるのである。感情の奴隷だったのに、感情の主人になれる。パートナーに恋をするのではなく、愛しつづけるようになる。

だがいつなぜ何のために恋に落ちるかが性科学的に説明できないのなら、愛に絶対不可能な要素、つまり、“この人なしでは生きられない”相手についてはどうなるのだろう? 
誰に恋をするかは、運命づけられているのだろうか? 運命の相手に出合ったとき、どうすればそうと分かるのだろう? 
 つづく  63、完璧な愛の結末 
ウルスラとジャスティンの物語は、西洋的な理想の愛である。最初から結ばれる定めにあった二つの魂が出会というプラトン式の思想と、宮廷式恋愛にあるのと同じ情熱や危険、そして結末がある。だが、誰もがそのような身を焼き尽くすような恋に出会えるわけではないことを嘆くより、私たちはそのような激しい恋がめったにないことを感謝しなければならない。