サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
高い橋、低い橋
ヴァンクーバーの西にあるキャビラノ峡谷には、吊り橋がかかってる。幅は五フィート、長さは五十フィートで、細い板をワイヤでつないだだけの橋である。
橋の中ほどはくぼみ、深い峡谷の中で、足を一歩踏み出すたびにゆらゆら揺れる。右にも左にも息をのむような山並みの景色が広がり、足元を見れば230フィートの絶壁がみえる。こんな場所で恋愛間研究をするのはおかしなことだと思われるかも知れないが、アーサー・アーロンとドナルド・ダットンは1974年ここで画期的な実験を行った。
東洋の神秘主義にやや傾倒した心理学者、アーロンと、それよりは現実的な感覚を持つ彼の同僚のダットンは、何が恋愛を引き起こすのかについて議論を重ねてきた。どうして人は、ときとして間違った相手と恋をしてしまうのだろう? ピッタリの相手に出会うまで恋ごろをしまっておけないものだろうか? 相手を探っている間は恋心は芽生えず、この人なら間違いないと確かめたあと火が付いたほうが、ずっと合理的なはずだはないか?
私たちは都合の悪い相手に、都合の悪いタイミングで恋をする。社会に禁じられても、進化の掟にのっとっていていなくても恋をする。ならば、恋が引き起越される原因が、他に何かあるに違いない。どんな相手に出合うかとはさほど関係なく、恋に落ちやすい時期とそうでない時期を分ける原因が、何かあるに違いない。そしてその原因は年齢や心の状態、気分に関わっているものに違いない。
歴史や哲学や行動心理学に当たってみたアーロンとダットンは、恋が起きるにはある共通のものが見られるのに気づいた。それは、不安である。ロミオとジュリエットの恋は、危険と隣り合わせでなければあれほど美しいものではなかったのではないだろうか?
貴婦人に最初から両手を広げて迎えられたら。ウルリッヒはあんなに夢中になっただろうか? それに、小碧はどうだろう。彼女自身気がついていたように、禁じられていることほど魅惑的なことはない。不安は――恋する相手によってもたらされるものであれ、あるいは二人には手に負えないところからもたらされるものであれ――恋愛を引き起こす大きな原因になっているのではないだろうか?
これが真実かどうかを確かめるため、アーロンは何週間も掛けて心理学の書物を読み込んだ。すると、人間には脅威や苦痛、危険にさらされたり、頑張らなければならい場面に出合うと恋に落ちやすいということを示唆する研究がたくさんあることに気づいた。ある実験では、教授に厳しく叱られた男子学生の方が、そうでない学生よりセックスや愛に絡んだ物語を書くという結果が出ていた。
またある研究では、ウォーキング・マシーンでエクササイズに励んでいる女性のほうが、ずっと座っている女性よりも異性との出会いに積極的だという結果が出ていた。
これが説得力のある証拠だとは断言できないが、恋をしたい人は元気なり、口数が多くなり、“ハイ”になるということはよく知られている。衝動、愛、盲目の愛――どういう名で呼ぼうと、とにかく愛全般――は、気分を昂らせるほど非日常的な経験をしたときに生まれやすいものらしい。ここで、橋が登場するのである。
ダットンと一緒にアーロンは、感情を昂らせるような場面でまったく見知らぬ人と出会うような実験の舞台が設定できないものかどうかを考えていた。するとダットンが、橋を思いついた。これを聞いたアーロンは、自ら吊り橋に赴くと、手すりを握り締め、一歩一歩ためらうように橋を渡った。そして、納得した。
この体験はぞくぞくするが、恐ろしくはない。みな、スリルを求めてこの橋なのだ。必要があるからではなく、なぜならこの橋を渡ることによって、ちょうどホラー映画を観たときのような興奮と気分の昂ぶりが味わえるからだ。ティーンエージャーに訊くまでもなく、夜遅くみるホラー映画ほど刺激的なものはない。
そのうえ川下には、ずっと安全そうな橋があるのも都合が良かった。もっと高度も低く、がっしりできている橋である。これを比較対象として使えばいい。
実験の計画はこうである。魅力的な女性に一人、橋の中ほどにいてもらって、橋を渡る男性に声をかけてもらう(そのうちの何人かは、大学で調達する)。そしてきれいな景色と創造性というテーマでアンケートに答えてもらう。そのあと年齢や学歴、この橋に来たのが何度目かなどを聞き、最後に自分(女性)を中に織り込んだショート・ストーリーを一つ書いてくれと頼んでみる。
協力してくれた人にはお礼を言い、そのまま別れる。だが彼らが先に進み出した途端、その女性は後ろから呼びかけ、電話番号を書きなぐった紙を渡すそして、実験について何かを知りたいことがあったら自宅に電話してくれと言う。これを、両方の橋で同じ女性がおこなう。
実験の日が来ると、女性は橋に行き、男たちは次々に足を止めた。その間アーロンとダットンは、留守番電話の前で待機した。グロリアあてに電話がかかって来たら、それは吊り橋を渡ったほうの男性だった。ドナあてに電話がかかって来たら、それは低いほうの橋を渡った男性だった。それぞれの橋で、実験者の女性は別の名前を名乗っていたのである。
やがて電話が鳴り始め、頻度もどんどん高くなっていった。「ハイ。グロリア? チャックです。今日、橋であったでしょう‥‥。もしよかったら、でんわください。僕も心理学を勉強しています。電話番号は‥‥」「グロリア? ピーターです。実験楽しかったです。電話ください、今日はずっと家にいます」「グロリア? アルです。元気? あれからあの実験のこと考えていて、あんな話を作ってしまって恥かしくなりました。もしよければ、電話貰えませんか?」
電話は次々に続いた。その日のうちに、吊り橋で出会った18人の男性の内9人がグロリアあてに電話をかけてきたが、ドナあてに電話をかけてきたのはわずか2人だった。その上、書いてもらったアンケートとショート・ストーリーを分析してみると、吊り橋で出会った人々の方がアンケートをびっしり書き込み、しかもセクシーなショート・ストーリーを作っていることが解ったのである。
それではこの実験は結局、何を告げているのだろう? 恋をしたければ、吊り橋を渡れということだろうか? 相手の気を惹きつけたければ、こうなる。平地でドラマも冒険もない暮らしを送っていると、恋とは縁遠くなる。
ここまで言うと言い過ぎだろうが、そこには一抹の真実がないことはない。そしてそれが、恋の本当の目的をいくばくか教えてくれているのである。
この実験結果に心を打たれたアーロンは、あれ以来愛に研究テーマを絞っている。橋の実験そのものについては今では懐疑的で、こう言っている。「あの頃は僕たちも若かったし。男女平等という考えも今ほど浸透していなかったしね」だがそれでも、その時に得た結論を彼は今でも信じている。恋愛は、自己を更に成長させるためにあるのだと。
誰かを愛する人は、その人の人生を自分の人生と結び付けたいと思う
二人が一つに溶け合うことで、違ったものの見方、智慧が得られるのである。たとえて言うと、それぞれの家ある道具を二人とも使えるようになる。これはプトン哲学と進化論を合わせたような理論だが、それを裏付けるため、アーロンは二つのシンプルな実験をしてみた。
最初の実験では、学部生325人に二週間に一回、十週間にわたってアンケートをした。あなたはどんな人間か、最近二週間で恋に落ちたか――この二つの質問をぶつけたのである。恋に落ちなかった人の場合、自分がどんな人間かに関する記述は短くそっけないものだった。ところがいったん恋に落ちると、記述は長く、しかも詳しくなった。
二つ目の実験では、もっと巧妙な手段を使った。つき合いの長い恋人がいる人々にいくつかの形容詞を見せて、この言葉のうち自分に、あるいは恋人に、あるいは両方に当てはまるものはどれか尋ねたのである。それからしばらくしてからもう一度、当てはまる形容詞が自分に当てはまるか、恋人に当てはまるか、両方に当てはまるのかを尋ねたのである。
どのケースをとってみても、二人ともに当てはまる言葉に対する反応がいちばん速く、自分一人に当てはまる言葉への反応は一番遅かった。恋人同士は二人で一つになっているため、自分のことだけ切り離して考えるためには時間が必要だったのだろう。
こうした実験をふまえ、愛にまつわる表現を妻と一緒に集めてみたアーロンは、こういう結論に達した。たしかに恋する人は、相手と一つなっているという感覚を持つ。その結果生まれた二人の人格は、一人一人の人格の総合よりも大きなものになっているのである。
橋の実験は教えてくれる。今の生活を続けていくだけで手いっぱいで、あるいは未知のものへの不安が多すぎて、コントロールを失うのが怖くて、自分の世界を広げる気がない人――は、他者の侵入を拒む甲羅を身に着けてしまうのかもしれない、と。
これが生まれつきの障害から引き起こされる場合もあれば、きつい仕事や突然の自信喪失など、一時的な理由で引き起こされる場合もある。こういう人々はそもそも、吊り橋を渡ろうなどしないだろう。
一方で、愛に――人生に――前向きな人には、橋の実験にはピンとくるだろう。エキゾティックないつもと違う場所で生まれるロマンスは、そこらじゆうにあふれている。きっとそういう場面で人は相手に、何か違ったもの、危険な匂いを嗅ぎ取るからだろう。
だがこうした関係の続かないことが多い。こうした関係には、そもそも長い付き合いに必要な、どこか似ているところやお互いを補い合うところがないからである。だが、アーロンが研究したのは何か恋をもたらすかであり、恋が長続きするかどうかではない。
また、どこか快い不安と同じように、どちらかといえば不快な不安も、恋愛を生む・戦時下のロマンスという現象がその一例である。
空襲警報や。シェルターで身を寄せ合うことや、弾丸や爆撃の音が愛を育んでいく。『風と共に去りぬ』にしたところで、南北戦争を舞台にしていなければ、あれほどロマンティックでありえただろうか?
それに兵士たちがあれほど愛の手紙を交わしたがる事実も考えてみてほしい。ストレスと葛藤にさらされている兵士たちは、たとえ見知らぬ女性からでも愛の手紙を貰うと嬉しいのである。
もっと日常的な場面でいうと、たとえばエレベーターに閉じ込められた人々の間には愛が芽生えやすい。同じ苦難に見舞われたり、辛い時期を一緒に過ごした人々の間にも愛が芽生えるのである。アーサー・アーロンは、実験室で恋を引き起こすことにさえ成功した。
まつたく見知らぬ人々を二人、一時間半実験室に閉じ込め、親密な内容の質問を交わし合ってもらったのである。実験の終わりには、たとえ恋人がいる被験者たちでも、実験の相手に惹かれだしたと報告している。アーロンも、何人かの被験者の恋人たちが心配そうに実験室の外を歩き回っていたのを覚えている。こととは思えなくなる。
栄養状態がよく賢い20世紀のカナダの学生たちでさえ橋を渡っただけで恋をしやすい状態になったとするならば、飢えて狂信的で抑圧された世界に生きていた中世の騎士が、愛する人からやさしい言葉をかけてもらうためにだけに命を賭けても不思議ではないだろう。
いかなる時代にも、世界中の人々が、リスクを冒してでも恋をしてきた、それは、ただただ恋の情熱を感じる瞬間が快いからなのである。愛がすべてを凌ぐ――こう信じているからこそ現代の私たちも、愛を(ウルリッヒの場合よりももっと現実的な)パートナーに向ける。
だがそう信じているからまた、愛に情熱が伴わないときや長続きしないときには自分に失望するのである。
つづく
62、長続きする愛
オキシトキンのレベルは出産前後や授乳期だけでなく、次の三つの行動をとっている時にも上がるからである。それは愛撫とキス、それにセックスである。その上、効果は女性に留まらない。