プラトンは本の舞台を、悲劇詩人アガトンの家にした。そして当の貴族たちが、夕食後の会話をしているという設定にした。登場人物には喜劇作者のアリストファネスや若く美男のアルキビアデストップ画像

プラトンによるプラトニック・ラブ

本表紙
サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳

プラトンによるプラトニック・ラブ

その話は紀元前四世紀、アテネに始まる。当時新進気鋭の哲学者だったプラトンが『饗宴』という題名の小冊子を書こうと決心したときのこである。これはすでに故人となった彼の恩師、ソクラテスを讃えるためのものだった。

プラトンはこの本の舞台を、悲劇詩人アガトンの家にした。そして当の貴族たちが、夕食後の会話をしているという設定にした。登場人物には喜劇作者のアリストファネスや若く美男のアルキビアデス、それにもちろん、ソクラテスその人がいた。

ここで議論のテーマとなっていたのは愛だった。愛の本質、愛の起源、愛の目的だった。基調となる演説をしたのはソクラテスで、完璧な愛とは無形で永遠のイデアを持つ愛であるというのがその主張だった。ところが後世の人々に広く語り継がれたのは、アリストファネスが気まぐれに口にした愛と人間の起源についても寓話のほうだった。

アリストファネスは言った。神々がまだ若く世界も生まれたての頃、人間は今とは違った姿をしていた。どの人間にも腕が四本、顔が二つ、胴体が一つあり、車輪のような速さで走ることが出来た。神々はこれを見て、この生き物たちが地上の支配権を自分たちから奪うのを恐れ、彼らをみな二つに切断することによって、その危険を減らそうとした。
人間たちは抵抗したが神々に軍配が挙がり、やがて人間はみな二つに切断され、それぞれ別の人間になることとなった。

こうして生まれた新しい人間には、機能的に見て何の不自由もなかった。歩くことも話すこともできる。笑うこともスキップすることも跳ぶこともできる。だが心の奥底に、騒ぐものがあった。みな自分が半人前なのだという思いから逃れられず、もう一度一人前になりたいと強く願っていたのである。

何年も何年も分れた半身を求め、無駄に終わった者もいれば、幸運に恵まれた者もいた。そしてアリストファネスによると、これこそが愛の起源だった。愛は心の底にある強い憧れであり、完全になりたいという願いであり、自分にぴったりの相手に巡り合えるときには、故郷に帰ってきたような気がする。それは、こういう理由があるからなのである。アリストファネスはそれを次のように説明している。

他の誰かと一緒に居るだけで味わえるこれほどの喜びのが、たんに肉体的なものであるはずがない。明らかにそれぞれの魂は、また別な欲望を感じている。だがそれははっきりと表現できず、いったいどういうものなのか、推測することしかできない。

一緒に横たわっている二人の元へ鍛冶の神へファイストスが訪れ、立ちはだかって訊いたとしよう。「死すべき人間たちよ、汝ら、お互いから何を望む?」

二人が答えられないとしたら、へファイストスは次のように質問を繰り返すだろう。「おまえたちの望みは、一つになって夜も昼も離れずにいることか? それならば私はお前たちを、一緒に溶かして鍛接してやろう。そうすればおまえたちは、二人の人間でなく一人になる。二人とも生き、二人とも死に、次の世でもまた二人に一つになる。これが望みなのか? そうなれば満足するのか? 」

そして私たちは、彼らが何と答えるか知っている。何者もその申し出を断らないであろう。これがすべての人の望みであり、みな自分がはっきりと言うことのできなかった望みの正体はそれなのだと知るだろう。自分の愛する人と溶けあい、一つになることが。

この解け合いたい。一つになりたいという気持ちこそ、世界中の恋人たちが昔から経験してきた感情なのである。プラトンはこれを病気だとは見なかった。正しい結婚の障害になるとも考えなかった。

人間が本当に自分に相応しい相手を探し

人間が本当に自分に相応しい相手を探し、認め、応えるための非常に精密なメカニズムだと見なしていたのである。そういう相手が探せないから、あるいは間違った相手と一緒になってしまったのなら、それは私たちが何か義務を怠っているからだとプラトンはほのめかした。
精力的に(そして幸運に恵まれ)そういう相手と巡り会えたなら、言うに言われぬ喜びが得られる。

約千年後に収穫を迎える種が蒔かれたのは、そのときだった、千年後、ギリシア風の探求にキリスト教の精神性を加え、アラブの叙情を盛り込んだ、まつたく独自の恋愛形式が生まれた。それを、宮廷恋愛という。
つづく 60、宮廷恋愛