サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
愛から盲目の愛へ
ワシントンDCからレホポテ・ビーチへ車を走らせていくと、チェサビーク湾やデラウェアの沼地をとおる。左側に灰色に渦巻く大西洋があり、右側には光り輝く畑が広がっている。美しいが寂しい景色である。ときどき地平線に、木造の家が現れてはきえるだけだ。
そういう居心地のよさそうな、ジャンクションの側にある家の一軒に、もの静かな中年の女性が住んでいる。ショートカットで、少し足が不自由そうだ。彼女の名を、ドロシー・テノブという。
テノブはここ15年ほど、あまり外に出ない生活をしてきたが、最近ちょうどまた、出かけようになったばかりだった。近くの教会でピアノを弾き、生涯学習センターでときどき講義する。このごろは久しぶりにペンを執り、また本を書きはじめた。
教授を務めていたブリッジポート大学と喧嘩したためこうした隠遁生活を送っているこのテノブは、愛の研究において、20世紀最大の貢献をした人物なのである。ローレンスとオーデンが歌い、ラッセルとバルトが哲学として取り上げるあの愛を、テノブは定義しようとした。
彼女の目的は、心理学の教科書に名前を載せることではなかった(結果的には載った)。また、名声を博すことでもなかった(結果的に載った)。
テノブの望みは、学生たちを助けることだった。たしかに学生たちは優秀だった。彼らの私生活、愛情生活だったのである。
テノブが愛について研究しようと思い立ったのは、マリリンという学生が期日までに宿題を出せなかったときのことである。いったいどうしたのとテノブが尋ねると、プリリンはわっと泣き出した。
そして、ハンカチで涙を拭きながら、ボーイフレンドのマークに振られたばかりなのだと言った。いつかはマークと結婚したい――そうマリリンは思っていた。それに、今でも大好きなのだと。
二日前、マークは別れの手紙を送ってきた。それ以来マリリンは、他の事など考えられなくなってしまった。世界が崩壊した。足元の絨毯を引き抜かれたような気がした。未来の希望を持っていたのに、絶望に立ちつくした。
かわいそうに、とテノブは思った。そしてテノブは許したが、そのままそのことを忘れ去ったりはせず、考えてみた。他にこういう問題で苦悩している学生はどれくらいいるのだろう?
このクラスに、この学科に、この大学に、恋の問題で悩んでいる学生はどれくらいいるのだろう? 幸せな恋でも不幸な恋でも、恋を頭いっぱいにし、生活をも巻き込んで、気分や性格さえ変えてしまうことがある。
この大学でも日々、そういう思いをしている学生が多いとしたら、いったい現実の世界でどれくらいの被害があるのだろう? この研究をしても本当に、役には立たないのだろうか?
テノブはまず、アンケートをしてみることにした。最初は学生を対象にし、やがて協力してくれる人すべてにアンケートした。まずは学生たちに、マリリンのような体験をしたことがあるかどうか尋ね、次に学生以外の人々に、学生たちのような経験をしたことがあるかどうか尋ねた。
もしそうなら、恋に落ちるということが、どういう構成要素から成り立っているかを突き止めることが出来る。そうすれば恋に落ちる条件も分るし、恋の原因、成り立ち、がどのようなものかもわかってくる。
“愛”よりも意味は狭く、“夢中”
その結果画期的な著書『愛とは盲目の愛――恋をするという経験』が生まれた。これは現代で唯一、愛を構成成分まで分解してみて、その構造と機能を確かめようと試みである。
こうやって愛を実際に則して結果定義して見せると同時に、はっきりといわゆる愛とは違う状態を見つけ出した彼女はその結晶のような状態を表すため新しい言葉を作った。盲目の愛である。テノブによるとアンケートに答えた人々の98パーセントがこの状態を経験したことがあり、誰にでも起き得ることだということが解る。
“愛”よりも意味は狭く、“夢中”に近い。この状態にあると心が昂ぶり、焦燥感が募り、何かに押しつぶされるような気がして、そんな気持ちをどうしても無視できなくなる。テノブはこの盲目の愛を構成成分に分け、それを並べてみせた。そうすれば、この状態の特徴だけではなく、どういう進路を辿るかもわかるからである。
アンケートに答えた500人のほとんどが、そういう状態が始まった瞬間をはっきりと覚えていた。会話を交わしたときのこともあれば、ちらりと視線を投げかけた瞬間のこともあった。古くからの友人に突然愛を感じた人もいれば、出会ったばかりの相手に惹かれた人もいた。どのような出会いであれ、相手が誰であれ、大事なのは一つだった。その瞬間その相手が、世界でいちばん大切な人になったのである。少なくとも、しばらくの間は。
アンケートの回答者の一人、ヴェステロイ博士という大学教授は、その瞬間のことをよく覚えている。自分が司会した学部会議が終わり立ち去ろうとしたとき、若いスタッフの一人アシュトン博士が残ってるのに気づいたのだという。彼はこう書いている。
突然アシュントン博士が――つまりエレナが――顔を上げ、もう私一人しか残っていないのに気づいたのです。彼女は少し頬を赤らめながら荷物をまとめ、お待たせしてすみませんと言いました。そして部屋を出る前にちらりとこちらを見て微笑んでくれたのです! あの微笑みが、すべての始まりでした。
その瞬間私はぞくぞくしました。非常に楽しかった気分ははっきりと覚えています。
恋する者は気分を昂らせ、エネルギーを爆発させ、幸福感を感じる
テノブは言う。火が付くと、恋する者は気分を昂らせ、エネルギーを爆発させ、幸福感を感じる。幸せになれそうな気がして仕方がない。自由を、無限の可能性を感じる。しかしながら、そういった感情は長続きしない。テノブによるとそれは“余計な考え”が忍び込んでくるからだという。
最初は少しずつ、だが徐々に強く頻繁に、恋する者は愛しい人のことで頭がいっぱいになる。今、何をしているのだろう? どんな本を読んで、何を考えているのだろう? どんな服を着ているのだろう? 暇な時は何をしているのだろう? 両親は、友人はどんな人たちなのだろう? テノブがアンケート解答者に、どれくらい愛しい人の事を考えて過ごすかと訊いたところ、30パーセントから100パーセントと答えは様々だった。だが誰もが、ふと気づくと心ならずも、相手の事を考え入る自分に気付くと認めていた。考えまいとしても、ついつい愛しい人のことを考えてしまうのだ。
こうした相手の事を思い浮かべながら当然、恋する者は愛する人が自分の気持ちに応えてくれることを願っている。だがテノブによると恋の初期の段階では、つれなくされるほうがますます燃え上がるものである。こうして恋する者は、心を痛め、憧れを募らせ、気分が良くなるも悪くなるも相手次第ということになる。そして最後に会った時のことをあれこれと思い出してみるのである。
愛する人は、どんな服装だろう? その時どんな顔をしていただろう? そうやって相手も自分と同じ気持ちだという証拠を必死に探し、そうなったらどんなにいいだろうと思うのである。
ヴェステロイ博士も、この段階には大いに悩んだようだ。アシュトン博士と会ったばかりの頃は、一緒にいた場面を繰り返し思い出してはとりつかれように分析したらしい。彼はこう書いている。
どう考えてもおかしなことですが、どうしてもエレナが慎重な態度を取るのは、彼女が私と同じ気持ちを抱えているからだと考えずに――いや望まずに――いられませんでした。私と妻がうまくいっていないことが、どうやってわかるのでしようか? それでも彼女の用心深さはが、内面の葛藤の表れだと思えてしかたなかったのです。
最初私は、ちょっとしたテストをしてみました。もし次の会議の時彼女が私の隣か向かい側に座ったら、彼女も同じ気持ちの証拠だと思うことにしたのです。けれども彼女からずっと離れた席に、視線を交わすことのできない席につきました。
そのとき私は気づいたのです。これではテストにならない、彼女がどんな態度を取ろうと、私は自分に都合のいいような解釈しかないのですから。彼女が離れた席についたのは、私と同じくらい強い思いを隠すためだと思ってしまったのです。
彼女を見ると膝が震えました
こうやって相手に会うことは、嬉しいと同時に恐ろしいことである。一回一回が、あまりに大きな意味を持ってしまうからである。ヴェステロイ博士はその後、日に、一日とエレナへの思いに取りつかれていった。その日々について、こう書いている。「私の顔は彼女で一杯でした。彼女を見ると膝が震えました。そして何とか一歩踏み出す前にせめて可能性を探りたいと思いました。
何かしなくてはならないのは解っていましたが、恐ろしくて立ちすくんでしまいました。すべてが、自分の想像に過ぎないとしたら…・そして私は大恥をかき、少しあったはずのチャンスをふいにしてしまったらどうしよう‥‥そう思ったのです」
盲目の愛に陥った人でも初めは、同時に何人もの相手に惹かれたていることがある。だが奇跡が起こり、思う相手と気持ちを確認し合うと、他の候補者は目に入らなくなり、情熱が燃え上がって、だんだん愛が成熟して行くのである。
もちろんセックスも大事な要素だが、精神的な絆も強く感じている。身体の中心だけでなく心の中心で、相手とつながっているのがはっきりと意識できるのである。
気の毒なことはヴェステロイ博士は、それからも愛に悩み、策謀をめぐらせたらしい。だがテノブの解答者のある学生は、これよりは幸せな例と言える。恋人と最初の一夜を過ごした後、彼女はこう書いている。
「生きているだけでうれしい気持ちでした。地に足が突かない感じでした。それでいてある意味では、感覚が鋭くなったような気がしました。色はより鮮やかにくっきりと見え、仕事場に向かう車を運転する私の腕に注ぐ太陽がとても温かく感じられ、何でこれまで気づかなかったのだろうと自分でも不思議に思ったほどでした」テノブによれば、盲目の愛がさらに進んでいくと、こういう段階のあとスタンダールの言う
“結晶作用”が起きる。
フランスの小説家で傑作『赤と黒』
19世紀のフランスの小説家で傑作『赤と黒』で知られるスタンダールは、愛について小冊子も書いている。この中で彼は、愛する人が恋する者の目にいかに輝いて見えるかに読者の注意を促している。欠点などないように見え、ただ魅力を、貴重な人格を、完璧さだけを備えているように見えるのである。
スタンダールはこのプロセスを結晶作用と呼んでいる。ザルッブルクの近くにある岩塩の産地で見た塩づくりにインスピレーションを得たのである。水に棒を――ごく普通の棒を――入れ、何週間か待つ。すると、棒の周りにびっしりと結晶がつくのである。光を受けて輝きを放つ結晶は、もはやただの棒には見えない。
まるで宝石を散りばめられた杖のようである。魔法でもかかったのかと思えてしまう。そうなるともう、それがただの棒だと信じられなくなる。貴重なもの、何かとても価値のあるものに思えてくるのである。美しさの点で比類ないものだ。
テノブ持っこの作用が、盲目の愛の重要なプロセスだと認めている。けれども、その結果については、スタンダールと意見を異にしている。結晶は相手の欠点を覆い隠すのではなく、欠点そのものが、ダイヤモンドになるというのである。恋する者は愛する人の欠点に普通の人と同じように気がつく。
ただ、解釈が違うのである。誰がしてもおならはおならだが、愛するひとのおならは可愛い。それだけでない、恋する者は愛する人の長所を過大評価する。やさしさのある人は類まれなる寛大な魂の持ち主となり、美しい青い瞳はこの世で他にないほど美しい青の瞳になるのである。
こうやって愛する人が素晴らしく思えてくれば来るほど、その人の愛を得ることなどありえないような気がしてくる。だからこそひとたびそれが得られると、喜びもひとしおなのである。不安や憧れが募っていくと、それを打ち破られるのは相手の愛情か、逆に軽蔑、あるいは完全な悪意しかない。
好意が得られると、そこからもっと現実的な愛情を築いていく。軽蔑、あるいは悪意を示されると、一時的にせよ永続的にせよ絶望に陥っていく事になるのである。
これが盲目の愛のすべてである。ここに挙げた行動や感情、現実認識はすべて、テノブの行った調査の協力者の報告から得られたものである。盲目の愛には破壊力がある。喜びと同じくらい苦しみを連れてくる。多くの人が、これほど胃の痛むような経験は滅多にないと言っている。これほどみなが経験している深い感情が、西洋文化の創りあげたものだということがありえるだろうか?
テノブの類まれなる筆力が、驚くべき事実を語ってくれた。だが、こうしたロマンティックな愛が存在しない文化もたしかにある。男と女がただお金のために、義務して、あるいは子づくりのために結婚する社会も、たしかにあるのである。男と女がそれぞれの別の精神世界に暮らし、ロマンスの欠片もない社会が。愛と盲目の愛の定義が終わったところで、他の時代、他の場所を見てみよう。
つづく
58、マンガィアで大人になるということ
南太平洋の民族を専門とする人類学者のドナルド・マーシャルがマンガィア島を訪ね、ある男たちに出合った時から始まった。マーシャルは、彼らにビールをご馳走し、ここではみんなどんな性生活を送っているのかと尋ねた。すると彼らが答えた。18歳の男なら、毎晩三回はオーガズムに達する。28になるとそれが。一晩に二回、周に五回まで落ち、40になると、一晩一回、周二、三回になる。