サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
匂い
私たちの目は美に敏感になったが、鼻は鈍感になったが、鼻は鈍感になった――そう思う人も多いことだろう。アフリカの強い日差しを避けるために直立歩行を始めた人類の先祖は、遠くを見る視力を得たが嗅覚を失った。
自分たちが――あるいは他の動物が――なわばりを示したり道をたどったりするために残した匂いには気づかなくなり、潜在意識の領域に感覚を押しやっていった。
そう、こうなってもおかしくなかった。その証拠に現代で見てみると、匂いのない生活をしようとしている。人間特有の匂がなくなるまで身体をごしごしこすって洗い、代わりに商業的に作られた相容れない匂いにしばしば置き換える。バラや丁子、白檀やシトラス、などである。
女性用であれば男性用であれ最も高価な香水の成分は、果物や花、あるいはスパイスから得られるのではなく
だが、実はそうではない。香水師たちには、きちんとわかっている。女性用であれば男性用であれ最も高価な香水の成分は、果物や花、あるいはスパイスから得られるのではなく、動物の下半身から得られるのである。ジャコウジカの腹から獲れる麝香、マッコウクジラの腸から獲れる
竜涎、エチオピアの雄猫のアナルにある腺から獲れるシベット、ビーバーの下半身から獲れるカストリウム。いずれも多大な費用をかけて、時には非合法で、この絶滅しつつある動物たちから獲るのである。
そしてこれが、香水にセクシュアルなパワーを、生々しさを、官能に与えているのである。意識の上では人は、果物の匂いに惹かれる。だが反応しているのは、動物の匂いの方なのである。
人間がアフターシェーブローション香水を使わなくなり、普通に呼吸していれば、すぐに本来の匂いを放ち始める。祖先ほど強くないにせよ、やはり強い匂いである。視力と聴力を失ったヘレン・ケラーは、この人間の匂いについて詳しく語っている。
またフィクションの世界にも、パトリック・ジュースキントの『香水』の主人公グレヌユがいる。グレヌイユは18世紀の薬剤師だが、最も官能的な香りを求めて処女を次々に殺し、その匂いを蝋に固めるのである。
人間が性に取りつかれるとどうなるか『香水』は教えてくれる。その重厚な世界で厳密な文章に適うち読者は、ふだんの気づかない匂いの世界が鼻によみがえってくるような気がするのである。
“腐った脂のような、酸っぱいチーズのような”その時代の人々が一般的に放っていた匂いだけでなく、赤ん坊が、子どもたちが、男性が、女性が、、放つ匂いはそれぞれ違う。年齢が違っても、気分が違っても、月の内いつかによっても、匂いは違うのである。
『香水』
ジュースキントが『香水』を書いていたころ、カール・グラマーは(第二章でナイトクラブの実験を行った学者である)大学院生とともに、まったく同じテーマの研究をしていた。男と女の匂いの本質と、それが社会的、性的欲望にどの様な影響を与えているかである。
あるときには、男性の匂いの研究を試みた。女性が男性の匂いに快感、あるいは不快感を感じるのかどうか、それは月経サイクルとの関係があるのかどうかかを調べようとしたのである。
グラマー自身のナイトクラブの実験と、ベイカーとべリスの実験の結果を見れば、排卵期のあたりの女性は普段なら興味を持たないような冒険をしてみたい気になっているはずである。
グラマーはとりあえず“男は臭い”という前提を受け入れることにして、290人の女性を呼んだ。そして男性の汗の中にある成分の中でも主要成分の一つであるアンドロステロンを布に浸し、彼女たちに匂いを嗅いでもらうことにした。
アンドロステロン
女性たちにはこの匂いが何か思い出させるか、快く感じるか不快に感じるかの二点を尋ねた。そのあと年齢、ピルの服用の有無、月経サイクルなど、個人的な質問をした。
アンドロステロンを使った実験はこれまでも行われたことがあり、興味深い結果もいくつか出ていた。イギリスの研究者たちがこれを電話ボックスの椅子にスプレーしておいたところ、女性たちは――ときには男性も――通常より長い時間をそこで過ごす傾向があったという。官能的なムスクの香りも、グルメの定番トリュフの香りも、アンドロステロンの力を借りている。
だがアンドロステロンは、両刃の剣でもあるようだ。官能と同じくらい攻撃性や不快感を、とくに他の男性に伝えてしまうらしい。匂いに関する研究者は、アンドロステロンをスプレーした紙幣はさっさと使われてしまう傾向があることを発見した。
グラマーの集めた女性たちも、この匂いが何を連想させるかと尋ねられると、あまりいいものは例えにあげなかった。汗、尿、糊、化学薬品、それに、いきり立っている男性。全体的に、評価は低かった。この結果を見て、クラマーは不思議になった。男の匂いがこれほどまで嫌われるならば、なぜ男性はセックスをするためにこんな匂いを進化させたのだろう?
謎はグラマーが、アンケートの結果を女性の月経サイクルと関連させてみたときにとけた。排卵期の女性はそうでない女性と比べかなりいい連想をし、評価もずっと中立的だったのである。
真実はこうだった。男性の匂いは女性を惹きつけるためのものではない。排卵期の女性を探すレーダーのようなのだ。これがあるから男性は、受胎可能な女性に近づけるのである。
この実験と並行して、グラマーと大学院のアスリッド・ユッテは、女性の匂いについても研究を進めていた。このときも、同じようにマキャベリ流の手法をとった。ユッテは女性のヴァギナの分泌液の匂いを真似た化学物質を作り出した。しかも月経サイクルの三つの時期に合わせて、三種類の匂いを造り出した。月経期、排卵期、前月経期の匂いである。それをステンレスのポットに入れて、ランダムに選んだ男性たちにかいでもらったのである。
三種類の匂いに加え、
三種類の匂いに加え、真水も入れておいた。この合計四種類の匂いを嗅いでもらいながら、その男性たちに様々な女性の写真を見せ、どれくらい魅力的かと思うか尋ねた。
結果は複雑だが驚くべきものだった。いちばん評価の高かった匂いは水だった。これは他の匂いがすべて不快だと思われたためである。ところが、“不快だ”とされたはずの匂いを嗅いだとき見せた写真の評価は高かったのである。
その上、あまり魅力的でない女性のほうが、その効果は大きかった。水を嗅いだ男たちが平凡だ、あるいはやや魅力的だと評価した写真が、分泌液を嗅ぎながらだとかなり魅力的、とても魅力的だという評価になった。
そのうえ、排卵期の分泌液の匂いは男性のテストステロンのレベルをぐっと上げ、150パーセントも上がった例も見られたほどだった。男性たちは分泌液の匂いを快く感じなかったが、嗅覚は意識決定のプロセスをバイパスして潜在意識に直接働きかけ、いちばん深く直接的なレベルで遠慮をかなぐり捨てて自分の鼻に従うように指揮を出していたのである。
グラマーとユッチの実健の結果、一般に思われているように人間の匂いはあまり重要な役割をはたしていないというわけではなく、人間の性にとって最も微妙なシグナルになっていることが解った。
セックスの相手を見つけるだけではなく、その行為が実りをもたらしやすい時期まで教えてくれるのである。実に興味深い実験結果だが、それを凌ぐほどの実験が隣の国、スイスで行われた。
つづく
55、神童(ブンダーキット)ヴェーデキント
バラエティを求める本能。文化の影響も、育ててくれた親の価値観を超えて、ただ一つのタイプの相手を、いや、ただ一人のひとを求める機能が、人間の中に植え込まれていると言うのである。その相手こそ文字通り、“出会うために生まれてきた”その人なのだろう。