サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
性の個性は、生まれつき?
進化の衝動に突き動かされたセックス以外のセックスも、盛んに行われてきたのは確かである。歴史を紐解いてみれば、人間が生殖のためだけにセックスをしてきたわけじゃないことはすぐにわかる。アナルセックスの愛好者は、古代にもたくさんいた。ギリシアとローマでは、ホモセクシュアルの小児性愛が盛んだった。
フォラオが支配するエジプトでは、肢体愛好さえ見られたという。ミイラ作りが死姦を行わないとも限らないから、ちなみに最近でも、マリリン・モンローやエヴァ・ペロンのような美しく欲望の的となった女性たちが、この被害にあったのではないかと言われている。
だが、性の面でこれだけ柔軟性に富んでいるのは人間だけではない、生殖を目的としない性行為は、動物の間にもみられる。ゲイのカモメもいれば。マスターベーションをするヤマアラシもいる(棒を使うのである)。そしてトカゲの中には、SM的なセックスを好む種もいる。
生殖可能ではない性、バイセクシュアリティを含む、生殖以外の目的を追求する性もまた、自然のもの、神が与えてくれたものである
つまり、異性の大人を相手した生殖可能ではない性、バイセクシュアリティを含む、生殖以外の目的を追求する性もまた、自然のもの、神が与えてくれたものである。だが、なぜだろう?
生殖のためだけの性を追及していたほうが、進化に有利なのではなかったのだろうか? 性のバラエティが自然なものとしても、そもそもなぜバラエティが生まれたのだろう? いったい何の目的があるのだろう?
この点をめぐってこれまで、性科学者たちの意見は二つに分かれてきた。
片方には、性は生まれた時から人間の身体と心に刻み付けられているのだと主張する人々もいる。生まれついての性的嗜好が、未来永劫変わることは無いのだというである。古代ギリシア人たちは、ある種のホモセクシャルを生まれつきだと考えていた。
受身の役得を演じるホモセクシャルの人々は欲望を感じる器官が異常な場所についていて、アナルからしか達することのできないのだと主張したのである。
この説の解剖学的に裏づけることは難しいが、性的嗜好は生まれつきだという考えは今日も研究者たちの間に根強い。ギリシア人のつくっていた性の階層は何世紀もかけてすたれていったが、ゲイがストレートかといった嗜好は身体の中に刻み込まれているという考え方は。ますます強くなってきている。そして今日の研究者たちはダーウィンに敬意を表し、自然というとまず遺伝子あるいはホルモン、あるいは脳の構造を問題にするのである。
だが、どの研究者もメッセージは一つである。どういう性行動を取るかは生まれつきで、変えようがない。
だが一方で、まったくの逆の主張をする一派もいる。すべては、環境によって決まるという考え方である。この人々の主張によると、人間は真っ新な石板のような状態で生まれて来て、その上で文化や家族や仲間、あるいは若いときの体験などが力を合わせて、粘土から像を作るようにそれぞれのセクシュアリティを作っていのだという。
つまりホモセクシュアルティは(そして他の性的嗜好パターンも)生まれつきのものではない。
後天的に学習していくものであり、感受性の強い時期に誰の影響を受けたかによって決まるのだという。
生得派と環境派は昔から、激しく議論を交わしてきた、だがその議論は、あまり実のある物ではなかった。矛盾に引き裂かれ、皮肉に満ちたものだった。
西洋社会でここ数十年の間に、環境がすべてだと主張する人々の大半は、ツイードの服を着た左翼の人々だった。私たち人間が何も書かれていない石板ならば、性的常識を問いただしてみることもできる。いや、問いたださなくてはならない。そうすれば、人々の性行動は変わっていくはずである。彼はこう主張したのである。
だが1990年代になると、この説をもっとも熱心に擁護するのはキリスト教の新右翼の人々になった。セクシュアリティが後天的なものとするなら、それを変えようとすることにも正統性があるはずである。
それゆえ、ホモセクシュアルを“治療”するために電気ショックや嫌忌療法など奇妙な治療方法が次々と編み出され、失敗に終わっていた。
だが幸いセクシュアリティについて知れば知るほど、どちらの考え方も百パーセント正しいわけではないことが解ってきた。“生まれつき”と“環境”は対立する二極ではなく、どちらの影響を受けたからと言ってもう一方の影響が排除されるわけではない。
実際この二つは、コインの裏と表なのである。生まれつき決まっているパターンの上に、環境が磨きをかけ装飾を施していくのである。
それには重要な理由がある。もし私たちの住む世界が完全に予想可能なもので、地球もそこに住む動物たちも変化し行かないのなら、環境の影響を受けなければならない理由はない。あらかじめインプットされたプログラムだけで、人間という種は繁栄していくだろう。
たとえば、男は全てトニー・ブレア首相と同じ顔で女はすべてシェリー夫人と同じ顔をしている世界を想像しよう。ならば人間には、ブレア夫妻の片割れのような姿、匂い、性格、ふるまいの相手を探し、その相手に対して欲望を抱くようなプログラムがインプットされていればいい。
だが私たちが知っている通り、人生はそのようなものではない。私たち人間という種は性(セックス)による生殖をしていく動物であり、そのためにはそれぞれの個体に個性がなくてはならない。目立たない個性もあれば、際立った個性もある。その上、大事な問題は他にもある。セックスに使う時間と、食べ物や住居を探したり、殺されないですむよう逃げ回る時間のバランスを取らなければならないのである。
このような予測不可能な世界、絶えず変化を見せる環境の中では、性的嗜好を最初から決めてしまうのは得策ではない。もし私たちが欲望するように定められた対象が近くに、あるいは同種の中に、あるいはこの世界の中にさえ見つからなかったら?
子孫を残す望みはなく、血統は途絶えてしまう。ならば、他に道はない。人間は――少なくともある程度は――柔軟性をもたなくてはならないのである。
人間が生まれたときに、相手を選ぶ際の基準が最小限しかインプットされていないのはこのためである。それ以上の基準は生まれた後、パートナー候補と出会うチャンスが出てきたときに、自ら作っていけばいい。
どういう相手を選ぶか、それは人間にとって基本的な問題である。そして基本的な問題の例に漏れず、受胎の瞬間にそれは始まるのである。
つづく
41、ママ、遺伝子をありがとう
一卵性双生児の半数の人々に、やはり同性愛者の双子がいたのである。ただし二卵性双生児の場合は、一卵性双生児に比べて共有している遺伝子が少ないせいか、その率は20パーセントに留まった。そして養子のきょうだいになると、その率は急激に減り。十人に一人くらいになった。