サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
自由な愛の挫折
1879年、「フリーラブ」という言葉を発明した牧師ジョン・ハンフリー・ノイズは、自らが主宰していたニューヨーク州のオニーダのコミューンからカナダに逃亡した。二人のティーンエイジの少女に性的悪戯をしたと告発されたためである。1994年、ディヴィッド・バーグは死んだ。カルト『愛の家族』で聖なる売春と過激な幼児虐待を行ったと責められ、逃れ隠れ家で迎えた死であった。
そして1990年代オレゴンで、ラジニーシブラムというコミューンの残党たちが数々のトラブルの末に解放した。これはいかさまインド人グル、バグワン・シュリ・ラジニーシが始めたコミューンだった。
一見、この三つの事件はあくまでも例外的なものであって、お互い関係のないように思える。崩壊の原因は集団の内部の緊張と言うより、まずは主導者たちである。それにもかかわらず、深く探れば探るほど、似たような話が浮かび上がってくるのである。
こうしたコミューンは、完全な自由を合言葉にする。自然回帰、制限の撤廃、しかしながら
完全な自由は完全な幸福には結びつかなかった。必ず嫉妬が芽生え
所有欲が根付いていき、メンバーの間に緊張が高まっていくのだった。
緊張が高まると、ルールを導入しなければならなくなる。誰が誰と、とれくらい頻繁に寝るか。そしてその目的は何か。だいたいルールを作るのは主導者であり、どんな主導者でも方向付けの基準は同じである。
性のパートナーを配分するのは主導者の役目で、結果的に主導者に割り当てられるパートナーがいちばん多い。たとえばノイズはオニーダにいた間つねに、いちばん若くて美しく魅力的な女と寝ていた。地位の低い者ほど彼ほど性の相手をあてがわれず、割り振られた相手も比較的年を取っていた。
ディヴィッド・バーグはさらに上を行っていた、女性信者たちに“釣り”を――セックスによる外部の男性の教団への勧誘を――強制していたのである。そして子どもたちでさえ、無差別のセックスを命じていた。何もかも――セックスも――不安なしに、えこひいきなしに分かち合うべきである。
ただしバーグ自身は、他のカルト集団の教祖と同じように、いちばんおいしいところをいただくのである。
主導者たちが作ったルールは迷信に
あるいは自分の持つ偏見に、あるいは(たいていは間違った)科学理論に基づいたものだった。たとえばノイズは、人間年を取れば取るほど人間性が高くなる傾向が多分にあり、若いメンバーは年上のメンバーとセックスすることによって、精神的な成長ができるのだと説いた。
彼自身は教団の中で最高齢に近かったため、若者にそういう機会を与えるのはいささか荷が重いが自分の務めなのだと説いていた。そして若い人々にとっては、彼と寝ることは特権なのだと。
ディヴィッド・バーグやラジニーシ、ディヴィッド・コレシュ[カルト『ブランチ・ディヴィディアン』を主宰]など、同じような理論を展開し、神の権威をその支えにするものは他にもたくさんいた。「デイヴィッドの妻になるべく神に選ばれたら、たれでも嬉しかったでしょう」テキサス州ウェーコの集団自殺事件の生き残りの一人はそう言う。
「ディヴィッドは、神が孫を欲しがっていると言っていました」そして、孫には事欠かなかった。コレシュは自分の妻が産んだ子どもたちに加え、6人の女性に12人の子どもを産ませた。その女性たちの多くは、他の男性の妻だった。
遅かれ早かれ、終わりは見えていた。主導者たちが公正といえる以上の女たちをものにすると、信徒たちは嫉妬を抱くようになった。そしてこれまでも見たように、性の面で嫉妬深くなった男たちは不穏になり、不穏になった男たちは暴力的になる。暴力を持って、公平な権利を要求したり、主導者たちの行き過ぎを責めたりするのである。
ときには、主導者たちのカリスマ性が信徒たちの心を完全に支配し、少なくとも一時的には思うがままに振舞うことを赦される。最後まで、信徒の忠誠心を勝ち取ったままで終わる者もいる。ジョーンズタウン[カルト『人民寺院』の集団自殺したガイアナの街]やウェーコではそうだった。
だがそのように人の心を完全に支配するには、思想やファシスト的にも洗脳することが必要になる。そしてそれはしばしば、普通の社会的生活とは相容れない。その結果、ウェーコでは集団自殺全員が焼死した。ジョーンズタウンでは、集団自殺が起きた。そしてラジニーシの集団は、内部の雰囲気がとげとげしくなり、毒を盛る者さえ現れて、瓦解していった。
オニーダでのノイズは、メンバーたちの嫉妬の爆発に立ち向かう力もなければその気もなかった。だから1879年、二人の少女とのスキャンダルが発覚したとき、カナダに逃亡したのだった。彼がいなくなると間もなく、集団は内部から崩壊していった。
まとめ
どれだけ避けようとしても、どれだけいけないと思っても、人間社会はつねに、なんらかの性の文化がある。その文化はそれを作っている性そのものと同じように、強く深く影響を社会になげかけている。破壊力を秘めている性をコントロール――そういう純粋な動機から生まれた文化がある。ときには、それも成功する。
だが、これが失敗することが多い。規則を正当化するために神話や宗教が作り出す性のヒエラルキーは、権力を持ったものに都合よく、信じやすい大衆の性を奇妙な形に歪めていくのである。無理が重なると、歪みが大きくなり、崩壊していく。
キリスト教は平和と無私、そして思いやりの文化を創ってきた――少なくとも、信仰し美徳を重んじる者に対しては、だがその間つねに、もっとも利己的な活動と言ってもいいもの――セックス――を相手に戦いを繰り広げてきた。そこにあまり情熱を注ぎ込んだため、異常な罪悪感を生み出し、子づくりを目的としない一切の性のバリエーションが禁じられたことになった。
またこれが男や女に与えた影響は、他の文化と比較にならないほど大きなものだった。こうした制度は1960年代に崩れたと思われたが、フリーセックスの失敗が方々で見られたエイズの出現を見た今日、昔の神話が甦り、また力を持ち始めた。
保守派の政治家パトリック・J・ブキャナンは1983年『ニューヨーク・ポスト』に、エイズはホモセクシュアルを罰する自然が与えた罰であると書いた。グレーター・マンチェスター警察の警察署長だったジェイムズ・アンダーソンは、エイズの広がりを“堕落につながる忌まわしい性行為”のせいにし、ゲイの男たちを“自分の汚物だめでくるくる回っている”と断じた。
上院議員のレディ・サルトンは最近、ホモセクシュアルの人々は“神の怒りから逃れないだろう”と言った。これを書いている今でさえ、アメリカ議会は、若者たちに“倫理的にいけないことだから”結婚前にセックスするのを止めるように呼びかけるキャンペーンに三千万ドルを費やすかどうか、投票で決めようとした。
確かにセックスを弾劾してはきたが
同時に赦しと救済を説き、他の宗教よりもむしろ、人と人が調和する道を開いてきた。だがどんなに男尊女卑で不寛容な暴力的であっても、他の主要な宗教の中に、キリスト教ほど、中でもカトリックほど、セックスに対してきっぱりと否定的な態度を取りつづけてきた宗教はない。
60年代のフリーセックスが失敗に終わり、エイズの恐怖に脅かされている今だからこそ、私たちは人間のセクシュアリティをコントロールすることの必要性をはっきりと認識しなければならない。
そしてセクシュアリティに形を与え、方向付けをし、強制するのは文化なのだということを、わかっておかなくてはならない。そして、それだけではない。あらゆる形の性は――ヘテロセクシュアルだろうとホモセクシュアルだろうと、子づくりを目的にしたものだろうと娯楽の意味合いが強かろうと――嫉妬や破壊や病気につながることもあれば、喜びや幸せ人と人の絆を生み出すこともあるのだということを知っておかなければならない。
最近ウィンチェスター大聖堂のキース。ウォーカー師は、キリスト教はセックスを原罪とするこれまでのみかたをやめ、セックスは喜びの源であるという見方をするようになるだろうと言った。
これが本当になるかどうかはまだわからないが、もしそうなるとするなら、希望は持てるだろう。今よりきっと、幸せな社会がやってくる。
つづく
39、第3部 タデ食う虫も好きずき セックスと個人
人間には性によって繁殖する生物で、人間を進化させてきた衝動も文化の影響を超えたところで、一人一人の性が違ってくるのである。それぞれが望み、そしてできれば実現してみたいという行為やシナリオに、個性が出てくるのである。セックスを語るとき、私たち“好み”という部分は、この第三の要因が創り出しているのである。