サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
堕落と非難
コーンフレークを朝食に食べるものはいいものである。箱から出して、たっぷりとミルクをかける。ほんの少しグラニュー糖をまぶしてあって、大平原に実っている豊潤なトウモロコシそのものを思わせる。広告の製作者たちも、このメッセージの大切さを知っている。
1950年代から今日に至るまで、コーンフレークのコマーシャルは爽やかで、健全なで、エネルギーいっぱいの雰囲気を大事にてきた。家族みんなが愛するコーンフレーク。命の源である。
まさかこのコーンフレークが(そして同類といえグラノーラやグラハム・クラッカーが)、ようよく弱まりかけたキリスト教の反セックス主義を蘇らせようとした運動の中心にあったのだと想像する人はいないだろう。
大西洋の両岸で、19世紀と20世紀に人々がどういう意識を性に対して抱いていたか――それを考えるとき、コーンフレークに象徴されてる運動の影響の大きさを考えずにいられない。
イギリスで1534年、国教会が成立し、やがてピルグリム・ファーザーズがアメリカに向かって出航したころから、それは始まった。今や、大きく分けて二種類のキリスト教があった。一つはカトリック。原罪を考え出した聖アウグスティヌスと、それに伴う“罪と救済セット”の正統な後継者である。もう一つはそれより実際的なプロテスタント。ここからピューリタンが生まれ、この人々が17世紀以降、アメリカに移り住んでいく。
プロテスタントとピューリタンの生き方は、カトリックの人々とは違っていた
彼らは比較的気ままな性生活を楽しんでいた。もちろん背後にはキリスト教の教えがあったが、それは現実生活や、現状を何とか変えたいという強い思いの中で、ずっと柔軟性のあるものになっていた。
それに彼らには、新大陸の人口を増やすという務めがあった。そのため、彼らの性に関する考え方は中世のキリスト教徒よりむしろ古代のユダヤ人に近かった。自分たちと同じものを信ずる者を増やすため子どもを作りに励み、問題を避けるために姦通を禁じ、子づくりを伴わないセックスを激し排斥した。
このままだと、できるだけ早く人口を増やすことを目標としている新しい社会にありがちな、厳格だが実際的なヘテロセクシュアルの文化が生まれそうだった。だがそこに、新しい流れが生まれた。
それは「セックスは汚らわしいものである」という伝統的な考え方と、その頃でっちあげられた科学のふりをした迷信、病気とその原因についての迷信を、結びつけたものである。
これは不健全な組み合わせだった。二百年後にエイズが現れたとき出てきた気分と同じように、
危険な偏見に満ちたものの見方だった。
『オナニア』の主題は、マスターベーションだっ
最初に登場したのは『オナニア』という小冊子である。18世紀の初頭にイギリスで出版されたこの冊子の著者は、聖職者でもあるベッカース医師なる人物である。『オナニア』の主題は、マスターベーションだった。その題名は聖書に出てくるオナンに由来している。オナンはユダヤ人の伝統にのっとって、死んだ兄の妻を娶るよりも自分の種を地にまくことを選んだ人物である。
ある意味で『オナニア』は、当時の気分をよく表していた。あらゆる言葉を尽くしてマスターベーションを弾劾し、それに耽る人々の罪を断じていた。だがまたある意味で、これは革命的だった。
これまでは道徳的・宗教的見地から非難されていたマスターベーションを、医学的見地から禁じたからである。潰瘍からインフルエンザまで、不妊から結核まで、狂気から死まで、身体の不調の主な原因はマスターベーションにあると説いたのである。
マスターベーションにこれだけ罪を着せるために、ベッカースは昔ながらの手を講じた。精液の消費が生命力を枯渇させると論じたのである。精液は大変な犠牲のもとに、血液から作り出されている。それを無駄にすると体力が落ち、貧血を起こし、病気にかかりやすくなる。
中国では大衆の性を規制するため、二千年にわたってこの説を利用してきた
だが西洋では、その必要はなかった。指導者たちはつかの間の住処にすぎない肉体に不調が出ると脅かす代わりに、永遠の存在である魂を脅かす方法を選んだからである。
だがこの時代は、新しい発見が数々続いた時代だった。そして人々はそうした発見を通じて、科学には昔ながらの信仰の土台を揺さぶり、人間の内と外の世界を理解する新しい力があるのではないかと感じた。それには、かつてなかったほど説得力があった。
1632年、ガリレオ・ガリレイが天空をくわしく観測できるだけの精度を備えた望遠鏡を発明した。その結果、この世界の中心は地球ではなく、太陽だと考えるようになっていった。それからしばらく経つと、ガリレオがマクロレベルで成し遂げた偉業をミクロレベル成し遂げた人物が現れた。ヒトの精液を観察できるほどほどの精度のレンズを発明したアントン・ファン。リーウエンホークである。
彼がレンズの向うに見出したのは、焼けば赤ん坊になるパン種のような物質でなく、何百万という小さな精子であった。彼がアニマクラエと名付けたこの精子が、子どもを作るのだった。
人間の頭上に広がる世界と、人間の内にある世界を詳細に見つめる手段を手にした人々は、科学にはこれまで長い間宗教が押し付けてきた世界観を打ち破る力がある事に気づいた。そしてこれまでキリスト教徒が、あるいは他の信仰を持つ人々が、何千年も抱えてきた疑問に答えてくれるのではないかと思えるようになった。
私たちはどこから来たのだろう? どこへいくのだろう? そして、私たちは世界のどの様な位置を占めているのだろう。
こんなわけで、ベッカース意志を初めとする人々、セックスやマスターベーションはやりすぎると害になるという人々にも説いて歩く人々も、時代遅れの宗教用語ではなく、科学の匂いのする言葉を使わなければならなくなってきた。
ベッカースの説を裏付ける証拠はあまりにも乏しく、仕方なく彼は古代中国の言い伝えに立ち戻り、それにうまく科学の衣を着せた。その説は、こうである。「精液は血から作られる。そして純化される。精巣を空にする頻度が高ければ高いほど、精巣の負担は重くなる。そして、貴重な血の最も大事なエッセンスが無駄になることになることになる」
現代人にはこれが、まったくのいかさま医学だということがわかる
だが18世紀の人々にとっては、新たな福音書だった。そして、本家本元の福音書と同じように、学校や大学で広く教えられるようになり、世界中から使徒が集まることになったのである。
ヨーロッパで、精液の消費の害を一番熱心に説いたのは、シモン・アンドレ・ティソだった。彼は1776年に出版した『オーガズムを引き起こす病理』という本の中で、ベッカースの考えを改造し、“堕落”という言葉使った。適度のセックスによって引き起こされる病気のリストをさらに広げ、男性だけでなく女性にも言及した。
女性には精液はないが、女性は男性より弱い生き物である。だから女性が体液を排泄すれば、やはり害が持たされる。ティソはこう書いた。
「女性の場合の症状も、男性と同じように説明できる。女性の失う分泌液は、男性の精液ほど貴重なものでもなければ成熟度も低い、だからすぐには、体力の低下にはならない。
だが適度に性に耽溺すれば、症状は男性より重くなる。女性の神経系統は本来男性より弱く痙攣を起こしやすいからである」
この議論を裏付けるため彼は、ある若い娼婦にまつわる恐ろしい話を引き合いにだした。その娼婦は一晩に、六人のスペイン人兵士を相手にしたらしい。次の朝、南フランスの街モンペリエに運ばれたが、ほどなく死んだという。「子宮から川のように血液が流れ出ていた」のだという。
ティソの論文にある他のケース・スタディと同じように、この話の出所は明らかにされていない。だがこれが本当の話だとしても、欲望のために命を落としたというより死ぬほどレイプされたとしか思えないエピソードである。
憂鬱でエセ科学の匂い漂うこの本は、ベストセラーとなった
ティソも、これを利用してもうけた医者たちも、大金持ちになったのである。だが、得られる情報の少ない大衆のパニックに乗じて金を稼ぐことに嫌気を感じる者はいなかった。大衆の心配には、もっともな根拠がたしかにあつたのである。
1500年の初めから、梅毒がヨーロッパに広がっていった。一時は、10人に1人が感染し、20人に1人の割合で命を落としていた。その頃はまだ、性病がどうやって広がっていくのかはっきり解っていなかった。ただ、派手な性生活をしている人々がかかりやすいと言ことだけは解っていた。
その上、梅毒や軟化下疳、そして淋病はしばしば同じ病気と思われていた。おまけに、精神病院の患者たちが自分の生殖器を弄ぶことを考え合わせて、ティソやその仲間は2プラス2は5という式をはじき出してしまったのである。
そして、性的に興奮することが多ければ多いほど(相手がいるセックスであれば、いわゆる“一人遊び”であれ)精神的に弱くなっていくと結論を下してしまったのだろう。
堕落の理論はその後、雪だるまのように膨らんでいき、大西洋を越えてアメリカに至る。ここでその理論は、19世紀最も名声を博した三人の手によって歪められ、広く伝えられることになる。その三人とは、シルベスター・グラハム、ジェイムズ・ケーレブ・ジャクソン、ジョン・ハーベイ・ケロッグのことである。
つづく
36、マスターベーション罪悪感うえ付の愚かさ 三十九の兆候
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。