サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
サドマゾ
中世キリスト教が生み出した数々の性的倒錯のなかで、快楽と苦痛の、陶酔と恥辱の奇妙な混ざり合い、つまりサドマゾヒズムがとくに私たちの興味を引く。これもまた性の一つの形態だと見なされるようになったのは、西側キリスト教社会と日本だけである(日本では、西洋と似ているが別の理由で発達した)。
ともかくアメリカを含む西洋では、サドマゾヒズムは性のサブカルチャーとして発展してきた。広い意味でのサドマゾを含む職業的売春行為は、数こそ多くないが重要な位置を占めているし、市場に結びついたサドマゾは、様々な形を見せてきた。
競技場の血に塗られた雰囲気の中で情事を楽しんだローマ人たちにも、サドマゾの傾向は見て取れるし、
パートナーを噛むことを勧めた『カーマ・スートラ』を読めば、インド人たちもこれになじんでいたことがわかる。だが形式化されたサドマゾは、西洋のキリスト教会独自のものである。そして西洋のセックスの伝統はつねに、中世の司教と女僧から始まっている。
最初に芽吹いたのは、11世紀だろう。フランシスコ派の修道士たちが贖罪のため、自らの肉体に鞭を当て始めたときのことである。この行為はやがて俗世間の人々にも向かい、司教たちが道を踏み外した信徒を裸にして、鞭打った。以前なら聖歌を詠唱させていたところを、鞭打ち百回に処したのである。酷い事と思えたが、どうやら辛いだけではなかったらしい。なぜならほどなく、信心深い(そして罪深い)人々が自分の家に鞭を置き、何かあると自らを鞭打ち始めたのである。
12世紀、この習慣はゆっくりと広がっていき、13世紀、大きく花開いた。何千人もの自称苦行者が列をなし、自分の連れを鞭で打ちながら、練り歩いたのである。
呆れるような光景だった。最初にブームがおきた北イタリアで、1259年、ある歴史学者が書いている。「夜も昼も長い行列が続く、先頭には、十字架と旗を掲げた司教たちが立つ。二列になり、自らを鞭で打ちながら、通りを練り歩いていた」中には五歳くらいの子どももいて、地方の役人たちも驚いた。
そして彼を街から追い出そうとしたが、うまくいかなかった。
この運動はやがてドイツに、オーストリアに、ボヘミアに、ライン地方に、オランダに、そしてイングランドにまで広がっていき、行く先々で人々を巻き込んでいった。村の人々も、町の人々も、道具を捨てて鞭を手にした。
そして、39年半この世に生きたキリストを習い、39日半自らの身体に鞭打ち、修行するのだった。
自ら熱心に鞭打ち、興奮しながら行列を作っている人々を見ると
この運動の目的は、現世の罪に贖(つぐな)い来世に恩籠を得ることだったが、自ら熱心に鞭打ち、興奮しながら行列を作っている人々を見ると、もっと現世的な悦びを味わっていたのではなかと思われたという。
今では、肉体的な苦痛がエンドルフィンを高め、スカイダイビングやバンジージャンプと同じ効果をもたらすことが解っている。また、強い不安が性的興奮に繋がることもわかっている。
たとえばディヴィッド・バーロウの行った実験では、電気ショックを送るぞと脅かされた被験者の男たちが普段より強い勃起を見せ、ドン・バーンの行った実験では、アメリカ国歌をカラオケで歌わされた女たちが強い興奮を見せた。
キリスト教とサドとマゾ――過激だが西洋のセクシャリティをよく表している
こういう実験は、恥辱的な経験をしていながら人々が快感を得ていたことを教えてくれる。だが、それだけでは語りつくせないものが、サディズム、マゾヒズムにはある。
今日の
SMクラブでは、劇的効果を大事にしている。そして、そのモチーフはしばしばキリスト教の特徴やフェティシズムが、そこには色濃く見られるのである。
ヨーロッパやアメリカには、キリスト教をテーマにしたSMクラブさえある。教会のような部屋の中で客たちは告解室での虐待や、十字架での辱しめをとことん味わうのである。
もちろん教会には、元からこういう雰囲気が備わっていた。それに、聖職者たちに科せられた贖罪の方法とみても、中世キリスト教には淫靡な雰囲気があったことが解る。21日断食し、自慰をする。あるいは30日の間、教会で自慰する。こういう罰が科せられていたのである。
キリスト教とサドとマゾ――過激だが西洋のセクシャリティをよく表しているサドマゾ――のつながりを探るには、聖職者とサディスト、マゾヒストを比べてみればいい。カトリックの司祭から性科学者に転じたハリー・ウォルシュは、20年ほど前の神学校での日々をよく覚えている。
そこで彼は、刺のついたブレスレットを着用するように命じられた。しかも、刺を内側に向けて。そして、セックス関する邪念が思い浮かぶたび、自らを鞭で打っていた。自らを強く鞭打ち、部屋の壁に血しぶきが飛んでいるような者ほど、神経性が高いとされていたという。
これは、SM愛好者の心理とよく似ている。性科学者のマーティン・ウェインバーグが、SM愛好者に対してインタビューを行っているが、なぜSMを好むのかと尋ねると、こう言う答えが返ってきたという。「癒されるからです。古い傷や耐えきれない飢えが満たされ、清められ、癒されるからです。昔の非合理な罪を、きちんと罰する方法を考え出すのです。目的はオーガズムではありません。カタルシスなのです」
ハリー・ウォルシュはこの男に、セックスについて語ってくれと頼んだのだ。キリスト教観を訊きたいわけではない。けれどもこの男は自分の欲望について語るとき、罪と痛み、そして救いについて語った。キリスト教会とその信徒が、二千年にわたって追い求めてきたものである。
つづく
35、堕落と非難
これまでは道徳的・宗教的見地から非難されていたマスターベーションを、医学的見地から禁じたからである。潰瘍からインフルエンザまで、不妊から結核まで、狂気から死まで、身体の不調の主な原因はマスターベーションにあると説いたのである。
マスターベーションにこれだけ罪を着せるために、ベッカースは昔ながらの手を講じた。精液の消費が生命力を枯渇させると論じたのである。精液は大変な犠牲のもとに、血液から作り出されている。それを無駄にすると体力が落ち、貧血を起こし、病気にかかりやすくなる。
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。