サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
女性の変貌
中でも皮肉なのは、人間が神と分離したのはその克服し難い罪のせいであると論じた三人が、それを女性の罪のせいにしたことだろう。イエスがあれほどかばおうとした女性が、今度は社会の敵と見なされるようになったのである。人間の欲望が引き起こした悲劇である。
「隋落」が、今や片方の性を攻撃する口実となった。悪の力が女性と結びつけられたのである。
アダムを誘惑して堕落を招いたイヴと、イエスを産んだ女性であることを超えた存在となったマリアについて、アウグスティヌスはこう書いている。「我々を破滅に招くのも女なら、我々に命を与えてくれているのも女である」この一文でアウグスティヌスは、女性への嫌悪と女性のセクシュアリティに対する矛盾する気持を表している。
現代に生きている私たちの心の中にも、まだその名残りがある。
パウロとヒエロニムスアウグスティヌスが処女性の大切さを強調すると、今度はイエスは罪に汚されずに生まれたてきたのだと協調する必要性が出てきた。いわゆる歴史の書き換えが行われた。イエス自身が純潔を守っただけではなく、その母親も生涯純潔だったのだと主張するようになった。
やがて、その主張は単なる伝承でなく、キリスト教の主柱となっていたのである。
何世紀か経ち、キリスト教の解釈にも様々な者が登場すると、マリアは処女だったととう神話もますます凝ったものとなっていった。中世の頃には、マリアはキリストを処女のまま産んだだけではなく。出産中も出産後も純潔を守り通したということになっていた。
キリストにきょうだいがいたらしいという事実は、あっさりと退けられていた
マリアはヴァギナではなく耳から身ごもったとされていたことまであった。また、マリアの純粋さは何ものにも侵されることはなく、死後も彼女の身体は腐敗ひとつせずそのまま天に召されていったのだと言う者もいた。
マリアには月経もなければ、出産の苦しみもなかった。ひと言でいえば、マリアは血の通った女ではなかったのである。
マリア信仰は、キリスト教全般と同じように、女性にとって両刃の剣となった。最初この信仰は女性に希望を与えるかと思われた。女性にも精神性があることを認め、それなりの立場を与えてくれるかと思えたのである。だが実際は、女性を抑えつけ、責めるだけだった。
初期キリスト教が女性に浴びせた視線はそれまでなかったほどの偏見に満ちていた。男は腰から下が悪魔だが、女は全身汚れていると主張するカルト集団がいくつも現れた。
教会そのものも、マリアの場合だけ、一般に女性特有とされている汚れ物、不快な物を取り除くことが出来たに過ぎなかった。マリアへの崇拝は女性にああなりたいという目標を与えたりはしなかった。
一般の女性にとってのマリアは、永遠に手の届かない存在だった。ローマの殉教者からヒエロニムスの信奉者にいたるまで、信心深い女性たちすら、自分たちが劣った存在だということを脳裏に刻みつけられていた。
考えてみるとおかしなことである。私たち人間を徹底的に責めた男たちを聖人の列に序した。そして彼らの教えは、精神というものに対して真摯に考え抜いた結果でなくは
自分たちの欲望に関する最悪感、から生まれたものだった。
だがアウグスティヌスの死によって、「キリスト教世界におけるセクシュアリティ攻撃」の第一幕が終わった。アウグスティヌスの教えはそのご何世紀にもわたって害を及ぼすが、それは悲劇というより、茶番劇の様相を帯びている。
つづく
33、寝室の中の司教
そして、性交の目的はただ一つ、小作りに限られていた。この目的から離れれば離れるほど、罪が重い行為だとされた。そためホモセクシュアルリティ(二セットの精液が無駄になる)はマスターベーション(一セットの精液しか無駄にならない)より罪が重いとされ、レイプや近親相姦、姦通はそれに比べれば罪が軽かった。無理やりにせよ、精液が無駄にならずに子孫につながる可能性があるからである。