福音書に記されている聖マタイの言葉によれば、イエスの誕生はなんら特別なものではなかったようである。父ヨセフはダビデの時代まで血統を遡る敬虔なユダヤ教徒で、母も信心深いごく普通の女性だった

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イエス

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サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳

イエス

 福音書に記されている聖マタイの言葉によれば、イエスの誕生はなんら特別なものではなかったようである。父ヨセフはダビデの時代まで血統を遡る敬虔なユダヤ教徒で、母も信心深いごく普通の女性だった。

 イエスには兄弟姉妹もいたようようである(数ははっきりしないが)。ガリラヤの丘にあるナザレという小さな村で育ったイエスは、父の跡を継いで大工になるはずであった。

 特別な何かがあると思わせるようになったのは、11歳になった頃だった。聖書を読むところまでは同じ年頃の少年たちと変わりはなかったが、その知識の吸収は目覚ましく、エルサレムに行ったとき、神殿で学者たちに囲まれ、宗教行事の形式や意味について議論を戦わせている姿を、母が見ている。

 そして30歳の頃、イエスは家を出て旅をし、いとこのヨハネの手によって、ヨルダン川にて洗礼を受けた、ヨハネは後に。イエスの熱烈な支持者になる。

 それからいったん荒野を退き、ここで悪魔に誘惑されたという伝説を残す。その後、説教を行うためガリラヤに帰るのである。だが残念ながら彼の説いた教えは、ローマ人にもユダヤ人に気にいられなかった。

 イエスの一番重要なメッセージは、実にシンプルである。それをわかりやすく伝える言葉を、聖マルコは残してくれた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」

神を愛し、他人の幸福に注意を払うことは、

ユダヤ人にとって伝統的な教えだった。だが一見正統的に見えた言葉にイエスが込めていた意味は、当時の人にとって驚くべきものだったのである。

 神の国はもうすぐ地上に現れると説いたとき、イエスはローマ人に挑戦しているように見えた。神殿で金を取る人々の机をひっくり返し神を崇拝するのに金はいらないと言ったとき、彼はユダヤ人たちを怒らせた。

 だがユダヤ人もローマ人もいちばん驚き腹を立てたのは、彼が「隣人を自分のように愛せ」と言ったときの隣人に、何と女性も含まれていたことである。

 ユダヤ教の律法学者や教徒の一団が、姦通の罪を犯した女を捕らイエスのもとに連れてきて、これからこの女を石打の刑にするのだがどう思うかと尋ねた。

 イエスはしばし沈黙し、そして言った。罪を一度も犯したことのない者が、最初の石を投げるがいい、と。また、神の国の到来を説いているときイエスはわざわざ、その国にはユダヤの社会でももっとさげすまれている人々、すなわち石女も入っていけるのだと説いた。

 だが当時、そしてその後何世紀にもわたって、いちばん過熱した議論が繰り広げられたのは、彼の離婚に対する考え方である。

 これまで見てきたように、ラビたちもローマ人たちも、女性は良き主婦となるべきとだと教えてきた。そうなればよいが、ならなければ夫は妻を捨てればよい。そのことに、何の抵抗もなかった。議論の的になったのはむしろ、どれくらいの過ちなら見逃していいかのほうだった。

 ラビたちのなかには、姦通の罪を犯さない限りは見逃すべきと主張する者たちもいた。あるいは、どんな小さな過ちでも見逃さず離婚するべきだとする者たちもいた。ヒレルというラビによると、男にはスープを焦がしただけで妻でも離婚する権利があるというのである。

夫が妻を離婚するのは正当なことでしょうか?

かたや、ヨルダン川のほとりでイエスが説教していたとき、教養あるユダヤ人たちがやって来てこういう質問をした。「夫が妻を離婚するのは正当なことでしょうか?」よくやったようにイエスはこのときも、質問を質問ではぐらかした。「モーセはなんと説いただろうか?」

「モーセは離縁状を書いて離婚することを許しました」
 次の言葉が彼らに、衝撃を与えた。
「あなたがたの心が頑固なので、モーセはそのような掟を書いたのだ。だが神は天地創造の初めから、男と女を造られた。そして男は父母のもとを離れ、その妻と結ばれるようにされた。神が結びつけた者たちを、人が引き離してはいけない」

 革命的な宣言を朗々と行うイエスに気おされて、人々は静まり返った。みな自分の耳が信じられなかった。忌避使徒たちでさえそのすぐ後に、あれは本気かと尋ねた。イエスの態度はきっぱりとしていた。

「妻を離縁し、他の女と結婚する男は、姦通の罪を犯す。夫は離縁し、他の男と結婚する女も、姦通の罪を犯す」

姦通しようと子どもができなかろうと、夫にとっても妻にとっても結婚が永遠の絆であるという考え方は、子をなすことに取りつかれ社会にとって忌むべきものだった。また、このような考え方は、未だかってなかった。

 うがった見方かも知れないが、ある意味でイエスの革命的な言葉は世界最古のフェミニズム宣言と言えるかも知れない。彼の言葉を聞いて、勇気づけられた女性たちもいたはずである。

 結婚は、快適なものでも公平なものでもないかもしれない。だが社会の安定に必要なものならば、せめて何があっても解消できないものになってくれたれら…‥。そうすれば法が、女たちを保護してくれるかもしれない(夫が保護してくれないとしても)。

 結婚にとって愛情はもっとも大事な要素となり、子づくりのためだけの制度でなくなるかもしれない。イエス自身が、友情に恵まれ、性の匂いのしない暮らしをしていたこの時代、これは実に革命的なことだった。

 残念ながら、ユダヤ人たちはますますイエスを憎むようになり、イエスも自分が不死鳥の存在であることをほのめかしていた。そのためにロバの背に乗ってエルサレムに凱旋したイエスは逮捕され、ゴルゴタの丘で十字架にかけられたのである。

 あやしげな預言者がまた一人処刑されただけだ――そう思われても不思議ではなかった。だがイエスの処刑は、新たな時代の幕開けとなった。死んだときにはすでに、熱烈なイエスを支持する人々が群れを成し、イエスの名もその教えも忘れられることはなかった。イエスの教えが女性の地位を上げてくれると、性にまつわる思い込みを打ち砕いてくれると思った者も中にはいただろう。

貧しく弱き者たちにも慈悲が与えられる。そうすれば人々の生活はもっと平和で公平、実りあるものとなる。もう何人も、虐げられたり恥辱を与えられたりしない。
そうなれば、どんなによかっただろう。だが、そうはならなかった。

 イエスの死後数世紀の間、幾人もの預言者が、ヨルダンの砂漠や近東の辺境地に現れた。イエスの教えの中に、かなり異なった可能性を見出した人々だった。イエスほど純粋な魂の持ち主でなければ高度な動機があったわけでもないこの人々は、イエスの教えを乗っ取り、それを十把一絡げの指南書にまとめると、ローマ帝国の黄昏の中で不安に苛まれていた人々を操る道具としたのである。

 彼らは寛大な心ではなく、裁きの心を説いた。慈悲の心ではなく、地獄の業火について論じた。神の国ではなく、黙示録と現世の幸福の可否について語った。

 それはすなわち、聖パウロ、聖ヒエロニムス、聖アウグスティヌスの三人のことである。この初期キリスト教の忌まわしいき三位一体が、イエスの偽の教えを振りまくことになった。
 つづく 30、 三人の生涯 

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