他人の妻を誘惑するのは危険なことである。結婚というものがこの世に存在し始めたときから、人は寝取られる側の夫の嫉妬と向き合い、闘わなければならなかった。トップ画像赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

嫉妬に狂った怪物

本表紙
サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳

嫉妬に狂った怪物

世界の三大古典セックス・マニュアル、オウィディウスの『愛の技法』とヴァーツヤーヤナの『カーマ・スートラ』、そしてシーフ。ネフザヴィの『匂える園』はみな、人妻を誘惑する方法についてはっきりと書いてある。

 紀元前一世紀のローマの洗練された人々向けて詩を書いていたオウィディウスは、人妻と競技場で会い、テーブルの下彼女を愛撫し、彼女のメイドと知り合いになっておけばいいと勧めている。

 その二百年後に書かれた『カーマ・スートラ』の中でヴァーッヤーヤナは、ピクニックに行ったり、プレゼントを贈ったり、相手の子供を可愛がったりすることを勧めている。

 そして16世紀、チュニスの酋長のためにこれを書いたシーフ・ネフザヴィは、女性の家に穴をあけてそこから挿入すればいいとアドバイスしている。

 だがこの著者たちも知っていた通り、他人の妻を誘惑するのは危険なことである。結婚というものがこの世に存在し始めたときから、人は寝取られる側の夫の嫉妬と向き合い、闘わなければならなかった。

 長年にわたり、とくに進化論的見地から、嫉妬は“取るに足りない”感情だと考えられてきた。恐怖や怒り、憎悪といった“重要な”感情ほど根深いものでもなければ欠かせないものでもないと思われていたのである。

 精神が健康でないことを示す感情だと考える人々もいたし、南東オーストラリアのディエリ族や北アフリカのヒダッサ族、あるいは太平洋のマルケサス諸島の住民たちのような、嫉妬を持たないというわれる人々について得々と語る人々もいた。

 だが学界にマーティン・デイリー・マーゴ・ウィルソンが登場して以来、こうした思い込みとは違った実態が浮かび上がってきた。カナダのマックマスター大学で研究を続けているこの夫婦は、新しい世代の心理学者たちにインスピレーションを与えてきた。

養子の虐待や殺人の流行りなど

これまでも人間関係の醜い部分について探ってきた二人だが、名声を博したのは性の絡んだ嫉妬について進化論的に考察した研究のおかげだった。

 二人は言う、嫉妬とは人間にとって、食べることや寝ること、性欲と同じような根源的な感情である。病的なものでも、例外的なものでもない。たしかに不快な結果を呼びはするが、進化論から見れば、人間にとって大事な感情の一つなのである。

 なぜなら嫉妬は、人間がいちばん信頼を置く相手からだまされたり裏切られたりするのを防ぐための防御装置だからである。その相手とは、一緒に子どもを作り、育てるパートナー、長期にわたって付き合っていく性的パートナーのことである。

男も女も悪気がなくても、相手を騙すことがある。

つがいになっておきながら、外でさらに繁殖のチャンスを探す。そしてたいていの人は、自分の裏切りには納得していても愛の裏切りは許さない。
 たしかに理屈に合わない話だが、これが事実である。

 男から見ると、女が浮気をすると別の男の種を宿して夫婦のベッドに帰ってくることになる。女にとってはそれでも構わないだろが、男にとっては大損害である。エネルギーと資産をつぎ込んで、自分の子と勘違いした他の男の子どもを育てるほど無駄なことはない。

 女を得て保護してきたエネルギーや資産がすべて無駄になるのである。おまけに、子どもへの投資もすべて。その上女が妊娠している間ずっと、女を自分の遺伝子を後世に伝える道具として使えなくなる。

 そう考えると、進化の過程で、パートナーの性行動を厳しく見守り、相手に浮気心が見えたら速やかにきっぱりとした行動を取る男が生き残ったとしても不思議ではない。つまり、嫉妬深い男のことだ。

 そして日々の生活ではさほど目立たない嫉妬も、実際相手の浮気や相手に捨てられそうだという危機にさらされると、突然その姿を大きく現す。

 このような状況に置かれるとまず、男の敵意は相手の男に向かう。デイリーとウイルソンの調査によると、男性が男性を殺す殺人事件のうち少なくとも20%は嫉妬が根本的な原因になったものだという。

 たとえ、表面的には他の理由があるとしても。だが私たちが知っている通り、男の攻撃は妻にも向かい、死に至らしめることさえある。虐待された妻の避難施設で行った調査の結果、50%が夫の嫉妬をぶつけられていたことがわかった。

 だが女から見ても、夫の浮気は深刻な結果を呼ぶ。女の場合、産んだ子供が自分のものだということは常にはっきりしているが、そして、夫が浮気しても自分の繁殖の機会が減るわけでもないが、夫が浮気をすると、先々まで被害を受ける可能性がある。夫の気遣いが、彼女の産んだ子どもをから逸れてしまうかもしれないのである。

 もちろん今日では女性も経済力を持ち、シングル・マザーになったからといってただちに子どもの人生が駄目になるわけではない。だが今までの人類の歴史の中で99%の時代は、そうではなかったのである。

 寛大な親戚が大勢いない限り、夫に捨てられた女と子どもは身の安全どころか、生き長らえていくことさえ出来なかったのである。

嫉妬を感じる要因も違うだろう

 デイリーとウィルソンは考えた。男と女の優先事項が違う以上、嫉妬を感じる要因も違うだろう。男は相手の肉体的な浮気により嫉妬を感じるのではないか。そして女は、感情の上での浮気に危機を嗅ぎ取るのではないか。見捨てられたり、夫の資産が他に行ってしまったりする可能性が出てくるからである。

 実験の結果、これはどうやら当たっていると証明された。嫉妬を感じた男が怒りをぶっけるのに対し、女は、涙を流したり無関心を装うたり。あるいは自分を魅力的に見せようとする。

 なかなか興味深い結果だったが、ディヴィッド・バスがデイリーとウィルソンの研究を知ってそれを実験室で証明しようとしたとき、画期的発見が生まれた。

 嫉妬を実地で試そうと思えば、危険ことになることはわかっていた。バスによるとかつてイリノイで、嫉妬に関する実験を行った研究者がいるという。

 その研究者は人妻たちに、自分をいかにも親し気に話しかけてくれと頼んだ。夫たちは隣の部屋にいて、こちらの会話を全部聞こえていた。しかも、これが実験だとは知らせなかった。何度か実験を重ねるうちに、少なからぬ夫たちが実験室に駆け込んできて、研究者を殴りつけた。そこで実験はおしまいになった。

パートナーが行きずりのセックスを楽しんでいる

こうしたレベルを超え、もっと確実な証拠を集たいなら、注意深く正確に実験を行わなくてはならないとバスは思った。そこで取った方法は、決まった相手のいる60人の男女を集め、一人ずつ実験室に呼んで二通りのシナリオ聞かせ、眉間に皺のよる頻度や心拍数、発汗の様子などをモニターすることだった。

一つ目のシナリオは、パートナーが他の誰かと精神的な絆を築いているというシナリオであり、二つ目は、パートナーが行きずりのセックスを楽しんでいるというシナリオだった。二つのシナリオの間にはクリーニング・オフの時間を取り、生理学上の反応のデータを徹底的に集めた。

バスが予想した通り、女性たちは精神的なほうのシナリオに強く反応し、男性たちは行きずりのセックスのシナリオに強く反応した。

実際、自分のパートナーが他の男とベッドにいるところを想像すると男性の心拍数は、コーヒーをストレートで三杯飲んだ時と同じくらい上がった。たしかに、男も女も嫉妬を感じる。けれども種類は少し違うようだ。

だが嫉妬が普遍的な感情だと主張するために、デイリーとウィルソンはある種の文化、ある種の民族は嫉妬という感情と無縁だという説を論破しなくてはならなかった。そして、それはさほど時間はかからなかった。

いわゆる“嫉妬のない”文化について研究した社会学者たちの論文に当たった二人は、どの文化にも嫉妬に怒った夫がいるという証拠を簡単に集めたのである。

マルケサス諸島の住民に関しては、嫉妬がないという証拠に引用されていた論文そのものに、嫉妬の存在とその強さに関してはっきり書かれていた。

女が男と暮らすときには、女は男の支配下に置かれる」

そこには書いてある。「そして男の赦しなしに他の男と一緒に過ごすと、殴られる。男の怒りが強いときには、殺されることもある」

 他の文化に関する報告書を見ても同じだった。ディエリ族には複婚の習慣があり、一人の女性が何人の男性と関係を持つ。だが、嫉妬が昂じて暴力沙汰になった話がいくつも残っている。

 北アフリカのヒダッサ族は嫉妬を感じる忌み嫌らっているが、かといって嫉妬はつねに人の心の中にある。「他の男性と出かけだけで妻を殺す男もいた」部族のある女性は告白している。

 こうした報告の中で、また嫉妬に関する研究一般の中で、主に話題になっているのは男性の嫉妬である。これは、女性が嫉妬を感じないのではなく、男性の嫉妬が伝統的に見た目がわかりやすく、

 しかも悲劇的な結果繋がりやすいからである。裏切られた夫の怒りは、幾多の言い伝えや文学の題材となってきた。そして嫉妬とは、人類が誕生したころすでにあった感情なのである。

 このように考えと、欧米では妻を殺して投獄された何千人もの男たちは、人間離れした怪物ではなのである。彼らはむしろ、人間らしい衝動に突き動かされ、いささかコントロールを失っただけなのだ。

 だが今も昔も、妻たちを巡って男たちが争いを続け、殺人や悲劇が繰り返されることが、社会的に有益であるはずがない。復讐を遂げることが勝利のように思えるかもしれないし、復讐を果たした夫はほろ苦い感傷に浸るかも知れないが、文化にとってこれは悲劇である。

 人口は減っていき、暴力的な男たちが不幸で脅かされた女たちの社会になってしまう。そのような自暴自棄で過激な解決策を探るより、社会全体で争いを防いだ方がいい。

 社会の繁栄を願うなら、嫉妬による争いを最小限に留め、人と人が最大限協力しあえるための仕組みを作らなくてはならなかった。
 そのためには性に関して規則を作り、宗教によって性を神聖化し、法律の力を最大限使って、性に禁止事項を科したほうがよかった。

 そしてそのとき結婚は、たんに男と女が一緒になることではなく、社会の基礎となっていったのである。そしてそれが、今も続いているのである。
  つづく 23、 結婚の掟 
 その子どもが自分の子どもと確かめらなければ意味はない。それを確実にする唯一の方法は、妊娠していない、いや一度も男の手の触れたことのない妻を娶ることである。
 そこで、男が女をこの先ずっと保護し、生活の糧を与えると誓う代わり、女の子宮を一人の男に独占させることが契約にまとめられるようになった。この契約が、バビロンでは結婚の雛型になった。
 そしてその後世界中の結婚が、この形のっとって行われるようになったのである。