サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
生命の誕生
男であれ女であれ人間の性的欲望の謎を解くには、人類の始祖に、性別の起源な、セックスの起源、生命の起源を遡らなくてはならない。マレーが前述の著作を発表してから6年後、一人の男がこれを試みた。そして彼の主張は、世界中で大論争を巻き起こすことになる。
その男、チァールズ・ダーウィンは医者として、そして聖職者として挫折したあと博物学者となり、ビーグル号で地球を周遊して、革命的な著書『種の起源』を書きはじめる。
旅の途中、多くの種の生物体(中には絶滅した物もあった)に共通点が多いことに気づいたダーウィンは、すべての種にはある共通の起源があり、それを時を経て環境の違いによって別々の発展を遂げてきたのではないかという仮説を立てる。
そのころはまだ、紀元前4004年に白い髭をたくわえた老人があらゆる種に命を与え
最後にそれをみな司るための人類を作ったという説が広く信じられていた。そのためダーウィンの説は、異端の烙印を押されることになった。
「ああ、そんなことどうぞ真実ではありませんように」ウースターの司祭の妻が呟いたという。「たとえ真実だとしても、広く知れ渡りませんように」。ところがダーウィンの説は事実であり、しかも広く知れ渡ることになった。
世界は6日間で生まれたとか
世界は6日間で生まれたとか、あばら骨とかリンゴうんぬんを信じる彼女のような人々にとっては実に残念なことだった。とはいえ、生命誕生のプロセスがわかってきたのは最近のことで、しかもその時の状況はまだ十分に解明されていない。
それでもダーウィンの説を受け入れるのなら、ピトケアン島で起きた出来事にも納得できるのである。
ここで、イギリスの著名な生物学者、ジョン・メイナード・スミスを紹介しよう。スミスはいつも古ぼけた肘掛け椅子に身を沈め、緑と灰色の混ざったような研究室の壁をダーディ・ジョークとクジャクの絵葉書(生物学者たちの間で引っ張りだこのお宝らしい)で飾っている。
部屋のドアには、彼の主要な研究が外国で報道された記事がセロテープで貼ってある。このメイナード・スミスとあと二人の生物学者が、ダーウィンの説を発展させ、洗練されたものにして、バクテリアから人間を含む多細胞生物の起源と発展、成り立ちの説明に貢献している。
あとの二人とはジョージ・ウイリアムズとロバート・トリバースのことである。姿勢が前かがみで眉間に深い皺のあるジョージ・ウイリアムズは、エイブラハム・リンカーンによく似ている。
ロバート・トリバースはニューヨークのラトガース大学の一風変わった天才である。もちろん、この三人の間に意見の相違はあるし、他にも貢献多大な科学者はいる。
けれども我々がなぜ存在するか、ここまで来るのに何があったか、そして人間の本性とは何か、この三人は説得性ある議論をしている。
35億年前、地球にはまだ生物が存在していなかった
35億年前、地球にはまだ生物が存在していなかった。地球には不安定な窯の中身のような物体で、稲妻と突風にさらされていた。木もなければ、草木一本も生えていなかった。今日から見れば、地球は生命と敵対する星といえた。
硫黄と酸の入り混じる鍋だった。だが地球の表面には、生命誕生に必要なすべてのものが揃っていた。炭素、リン、そして水素。何かきっかけさえあれば、生命が誕生してもおかしくはなかった。
やがて地上を襲った雷が炭素と水素、そして酸素を混ぜ合わせ、最初のアミノ酸が形成された。ここから生命誕生に続く一連の出来事のうちでも、アミノ酸の誕生は画期的な出来事だった。
なぜならその後安定性を増すためにリン酸塩を中心に集まったアミノ酸は、生命機能を得るからである。この種の最初のアミノ酸は、RNA(リボ核酸)であり、DNA(デオキシリボ核酸)がそれに続く。
その後10億年を経て、かなり多数のDNAとRNAの集合体が生まれる。その中には、他のものより?殖能力の高いものも出てくる。試行錯誤を繰り返し、?殖能力に優れたものはどんどん次の世代を生み、繁殖能力のないものは消えていった。
脂肪の膜で覆った生命体が生き残る
やがてDNAの長いつらなりを脂肪の膜で覆った生命体が生き残るようになる。こうして細胞が、バクテリアが、最初の単細胞生物が誕生した。
ここでもまたもや、同じプロセスが繰り返される。つまり、ある種のバクテリアは?殖能力に優れ、その結果次の世代へと続いていく。こうして20億年も経った頃、繁殖のプロセスにある画期的な方法が導入され、その結果これまでよりずっと洗練された生命体の誕生が可能になる。
その画期的な方法こそ、性(セックス)なのである。
ひとつの個体で?殖を行い、まったく同じような個体を次々にコピーしていくというやり方ではなく、ある種の生命体は“つがい”になって繁殖活動を行うようになる。
それぞれが遺伝子を出し合い、第三の生命体、すなわち子孫を生み出すのである。こうして有性生殖で生まれた子孫は、両親相方と類似性を持ちながらもどちらとも違う生命体となる。
最初に性(セックス)によって生み出された生命体
こうして最初に性(セックス)によって生み出された生命体は、まだ単純な一つの細胞と大した変わりはなかった。けれども、ここには画期的なことが起きていた。性(セックス)が、すなわちDNAのミキシングが、生まれたのである。そしてそれ以降、生命は後戻りをしなかった。
「有性の種と無性の種、両方を生む木を想像してみればいい」たとえ話の上手なジョージ・ウイリアムズはこう言って説明する。性(セックス)は生まれるやいなや、地球でいちばん強力な繁殖手段となったのである。ウイリアムズは続ける。何が起きるか予想可能な世界、すべてが時計のように正確に進んでいく世界なら、性(セックス)より他の方法、たとえばクローニングのほうが有利だっただろう、と。クローニングのほうがずっと能率がいい。親は一個体ですむし、子どもはみな同じ。繁殖の相手を探すエネルギーも必要なく、そのわり多くの個体を生み出す。
捕食動物が誕生
けれども、天候が変わり、捕食動物が常に新たな作戦を練り、何が起きるか予測のつかない世界では、性(セックス)は天恵だった。バラティに富んだ子孫の中には、捕食動物や寄生虫、嵐や飢饉など地球が投げかけてくる難問に打ち勝って生き残るものがあると思われるからである。
そして初期の地球は危険だった。豊かだとはいえ、やはり危険な場所だった。地球上に生きる生命の数が増えるにつれ、生存に必要な栄養を他の生物に求める生命体が現れた。
こうして他者を捕食しよう、あるいは他者に寄生しようとする生物と、される生物の際限ない戦いが始まる。大きな生物は小さな生物をえじきにし、小さな生物はミクロの生物をえじきにする。
そしてミクロの生物は大きな他の生物体に寄生することによって逆襲する。食物連鎖というより、無法状態と言えた。それに、脅威は他の生命体だけではなかった。生命を生み出した地球からして、生命を破壊する力を持っていた。
地震、隕石、洪水、嵐、冬の寒風、それに、何度か繰り返された氷河期――それはすべて、地球が育んできた生命を死に追いやる原因となった。
こうしてウィリアムズの言う「木」の上で、有性生殖をする生物と無性生殖をする生物が空間を、ぬくもりを、食べ物を求めて争うことになった。そして、勝利を収めたのは有性生殖をする生物のほうだった。
有性生殖をする生物は、無性生殖をする生物ほど数も多くなかったし、まとまりもなかった。それに、その多くは弱かったかもしれない。
それでも中には、冬の寒さに抵抗力があったり、鳥に見つからないように模様をもっていたり、地面から水を吸収したりというような生存に適した条件を偶然持って生まれたものも混ざっていた。
こうやって多くの種が、クローニングより性(セックス)を繁殖の方法に選ぶようになっていった。性(セックス)はユニークな遺伝子を組み合わせを次々に生み出し、新たな可能性をもった生命体が次々に生まれた。
やがて多様な生物の中から、洗練された防御手段とカモフラージュ、それに高度な最終能力をもつ多細胞生物が生まれてくる。その中にはより巧妙にサバイバルするために、「進歩」という渦巻きの中に飛び込んでいくものも出てくる。
こうして、性別が登場するのである。[性分化していない単細胞生物も有性生殖をする]
なぜ性別が生まれたか?
メイナード・スミスはそれを、特殊化という言葉で表現する。同じ種の二つの個体が別々の方に発展を遂げるのなら、別々の生殖機能を備えたほうがいい、こうして、オスメスの違いが生まれる。オスは小さな可動型生殖細胞(精子)を生む。この細胞は卵子にまで泳いでいく。
メスはその卵子を、すなわち栄養がいっぱいの大きな細胞を生み出す役割をもち、その体内で受精卵を育む。こう説明されると、なぜ性別がオスメスの二種類であり、一種類でも百種類でもないのかはわかるだろう。
だが、それではなぜ片方の性がもう一方の性より次世代の育成に大きな責任を負うようになったのだろうか?
生物学的に見るのなら、性別についてはこのような疑問がつきまとう。なぜオスが必要なのだろう? 一見、オスという性別はいらないものに思える。繁殖に際しても、オスが提供するのは自分のDNAだけだ。胎児に栄養を与えるわけでも、子宮の中で育むけでもない。
妊娠のわずらわしさは
妊娠のわずらわしさはすべてメスが請け負うのである。そう、たいていの種では、巣を作り子に餌付けするのはメスの役目なのである。なぜメスは、こんなことを許しているのだろう? なぜ公平に重荷を背負ってくれるパートナーを探さないのだろう?
その理由は精子の尻尾と、卵子の中にある細胞質にあった。精子の尻尾(鞭毛)はいわばエンジンで、精子を卵子へと向かわせる原動力であるが、繁殖自体には必ずしも必要ではない。
むしろ、卵子の中に入ると卵子の中にある細胞質と戦い、その結果子どもが弱くなった酷い場合は命を絶だけ。それ以外のものは中には持ち込まない。言うなれば、何も提供しないことがオスにとっては最大の貢献なのである。子どもを育てる気のあるメスとオスが巡り会いさえすれば、だれもが満足だった。
こうして私たちは、有性生殖をするたいていの生物たちと同じように、オスメスには役割分担があって当然という概念が祖先から引き継いでいるのである。
バラエティ豊かな生物体の中からその都度成功者を選んだ
こうして生き残ったオスとメスが遺伝子を混ぜ合わせてどんどん新たな世代を生んだ。そして自然は、バラエティ豊かな生物体の中からその都度成功者を選んで生存させた。
生き残れるかどうかは、ひとえに繁殖にかかっていた。繁殖にむかないものは滅びていき、向いているものは数を、種類を増やしていった。その中からさらに、より効率的な繁殖能力を備えたものが生まれてくるのだった。
こうして複雑さを増してきた生物の中から、魚が生まれ、やがて両生類が、爬虫類が、鳥類が、そしてついに哺乳類が生まれた。生物がこのように複雑に、能率的に、そして美しくさえなった理由は、ただ一つしかなかった。
遺伝子をできるだけ多くの個体に伝えていくためである。そのためにこそ骨格が、皮膚ができ、静脈が、動脈ができ、内臓ができ、筋肉やあばら骨や脳みそができた。
人間の場合を例にとるなら、思想や活動、計画や想像力、夢や欲望もすべて、次世代に伝えたいという本能から生まれた。好むと好まざるにかかわらず、私たち人間も他の生物たちと同じように、なんとか繁殖したいと望むマシンのようなものである。
35億年前、最初の生命が地球上に誕生
それは35億年前、最初の生命が地球上に誕生したときから定められていたのだ。
そのために私たち人間の身体と頭には、三つの欲望がインプットされている。その一、できるだけいい相手とつがいなりたいという欲望。その二、これを実現するために生き残ろうとする欲望。その三、子孫を守り、育てたいという欲望。
二つの性があれば、それぞれパートナーを選ぶ基準も違うのは当然のことだ。先に紹介した三に目の生物学者、ロバート・トリバースがここで登場する。生殖に関する事実を冷静に受け見つめ、トリバースは1972年、画期的な論文を発表した。
親になることにどれだけ犠牲を強いられているかに注目くし、男と女が伴侶を選ぶ基準になぜこれほどまで違いがあるのか、その謎を解こうという論文である。
トリバースは言う。あらゆる種によって、生殖機能を生み出し、性の相手をみつけて性行為を行い、胎内で子どもを育み、やがてその子が独り立ちするまで面倒をみるのに要する時間とエネルギーは一種の投資行為である。子どもを育てるのは、手のかかることだ。ならば子育てより多くの犠牲を強いられるほうの性が、伴侶選びに慎重になるのもうなずける。
一分間に300万の精子を生産
すでに見てきたように、男性の生殖細胞、すなわち精子は小さく、移動しやすく、簡単に生産される。栄養を蓄える必要もない小ささだから、たくさん生産することも可能だ。ごく普通の男性でも、一分間に300万の精子を生産できる。
つまり理論的には、一人の男が(相手に同意さえあれば)地球上の女すべてを妊娠させることもできるのである。だから―― とトリバースは続ける――精子はなるべく広くばらまかなければならない。
男性にとってもうひとり人間をこの世に送り出すのに必要なのは、射精に至るまでの数分間の性行為だけなのである。それ以上の行為は、やるもやらぬも選択可能だ。
だが、女性の負担を考えてみてほしい。卵子を生産し、9ヶ月の妊娠を消耗し、母乳を与え、その後何年も世話をする。これに比べれば男性の負担は無いに等しい。
父親になるのがこんなに簡単なら、男性ができるだけ多くの相手とつがおうとするのも不思議ではない。少し負担で、大きな収穫を手に入れられるのだから。
浮気願望に進化論
トリバースの説は、男性の浮気願望に進化論の衣を着せた作り話に思えるかもしれない。だがオスが子育てに多大な貢献をする種の生物を見てみれば、この説の価値が解る。
タツノオトシゴや30種以上の鳥類には、メスはただ卵を産むだけで、あとの子育てはほとんどがオスが受け持つものたちがいる。そういう種の場合、パートナー選びに慎重になるのはオスのほうであり、メスたちはオスの気を引こうと争うのである。
そして後で詳しく述べるが、子孫育成へのオスの投資が大きくなればなるほど、オスは性的パートナーの質にこだわる。
とはいってもトリバースの描いた人間の性とその戦略は、あまりにあからさまで容赦のない部分が多かった。高度なモバイル型の小さな細胞、DNAを備えた細胞でしか子づくりに貢献しない男は、自分の利を得るためにできるだけ多くの女をものにしようとする。
こういえ考えれば、ピトケアン島で起きた人妻の誘拐や虐待は不思議なことではなかったかもしれない。むしろ、こうした傾向がもっと広く見られないことが不思議なのかもしれない。
実のところ、こうした傾向は思ったより根強いものなのである。
つづく
3、古代人の性生活
シクストウス二世が、尼僧を誘惑したかどで裁判にかけられたのである。それからは、下り坂の一途をたどった。955年から964年まで教皇の地位にあったヨハネ十二世は、自分の母親や姪、自分の父の愛人たち、それに貴族の人妻たちと関係をもったともいわれている。