サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
近親相姦、不思議なフィーリング
興味深い実話をご紹介しよう。
テリとキムは、1985年の月6月に出合った。二人とも、20代後半だった。美しい夏の日で、太陽は明るく、空気にはイギリスらしいバラと苅たての芝生の匂いが漂っていた。
テリは家中を歩き回って、ランチにやって来る姉を迎える準備をしていた。一人は姉のボーイフレンドで、驚いた他にもう一人は、長年あっていなかった兄のキムだった。キムは生まれたばかりのとき養子に出され、そこで育ったのだ。
キムに目を留めたとたん、テリは夢中になった。「電流が走ったみたいでした」とテリは今も言う。「会ったとたん、この人を愛していると思いました。こんなに誰かを愛せるとは思ってもみなかったほど強く」
キムも同じ気持ちだった。「テリに会ったときの気持ちはとても強く心を揺さぶられるものでした」キムは言う。「何か見えないつながりが二人にはあるような気さえしました。まだ一言も口を利かないうちから」
ランチは何事もなく終わった。テリもキムも、いつもの自分に戻っていった。だが二週間後、二人は再び会う。6月の終わり、キムの住む町でのバーベキューに招待されたテリは、キムに電話をかけて二、三日泊まらせてくれるかと訊いてみたのだ。
キムは喜んだ。金曜日の夜、テリがやってきて、二人は一緒に夕食を取った。惹かれ合う気持ちは、ますます強くなっていた。「僕たちはただただ、相手を見つめていました」キムが思い返す。「僕は彼女を、生まれた時から知っているような気がしていました。不思議な気持ちでした」
夕食の後、キムはテリを客用寝室に案内した。二人はベッドに腰を掛けて、話を続けた。やがてゆっくりと二人は近づき、真夜中すぎ、初めてのキスをした。魔法にかかったような気持ちだった。そしてそれ以上こらえきれず、二人は服を脱いでベッドに入った。
ある意味でこれは、夢が叶ったような体験だった。ごく普通の二人が、生涯一度の愛を見つけたのである。だが見方を変えれば、これは悪夢の始まりだった。テリの姉はテリの家にやってきて、こう叫んだ。「あんたたちは病気よ! どうしてそんなことができるの?」二人が別れない限り、もう一切口を利かない姉は言った。だが、二人は別れなかった。
何ヶ月か経ち、テリは妊娠した。キムとテリは大喜びだったが、他にお祝いをしてくれる人はいなかった。赤ん坊は知恵おくれになるだろう。奇形が生まれてくるだろうと囁く人たちもいた。
やがて、可愛女の子が産まれ、リザと名付けた。だがその直後から二人は、監視されていることに気づいた。一週間後、警察がドアをノックした。二人は、警察に連れていかれ、尋問を受けた。7時間放置所に入れられ、やがて解放されたが、警告を受けた。二人がしたことは忌まわしいこと、危険なこと、法に反することであり、テリは不妊手術受け、二人は別々に住むべきと言われた。
従わなかったらどうなるんですか?と訊くと、赤ん坊を取り上げ7年間の懲役刑に科すといわれた。
テリは仕方ないと思った。もう放って欲しいと思いながら病院に行き、手術を受けた。だが警察はまたやってきた。テリとキムは、再度逮捕され、法廷に出され、執行猶予付きの判決を与えられて、二度と夫婦として暮らさないように言われた。
最近10年も、二人は先の見えない生活を送っている。同じ家でリザを育てながら暮らしているが常に監視されていて、寝室は別々にしている。
これはまるで、ジョージ・オーウェルが『1984』で描いた世界である。愛や個人的な好意は禁止され、生殖に関する個人の自由はなく、国歌が支配する世界。だが、これは現実の話なのだ。ごく普通の男女が、この種の出来事はいつどこで起こってもおかしくない。
この社会で出会って起きただけのはなしなのである。しかもここ、イギリスのエセックスだ。だが、この種の出来事はいつどこで起こってもおかしくない。そしてどの文明の中で起こっても、人々の反応はさほど違わないだろう。
テリとキムは、人間の心に抱いている最古の――そしてもっとも根深い――性の掟を破ってしまうのである。
歴史が文字で残るようになってからほとんど全ての文化の中で、近親相姦は法によって禁じられてきた。これほど早くから、しかもいたるところで禁じられているタブーは他に余りない。
古代バビロンのように死刑に処されたこともあれば
古代インドのように真っ赤に燃え滾る彫像を抱かされたことも、古代中国のように九つの地獄で身を焼くという刑もあった。
とはいえ、その罰の厳しさには文化による差がある。たとえば古代エジプトでは、王族の近親相姦は許されていた。ナイルに沿った肥沃な土地を、どんどん拡大していく家族に分け与えずにすむ方法は、他になかったからである。
逆にヘブライの人々は、狂信的とも言えるほど厳しくあらゆる形の近親相姦を禁じた。これは長い間彼らを支配したエジプト人と一線を画すためでもあった。シナイ山でモゼに渡された十戒に始まって(汝の娘の・・‥汝の息子の娘の、あるいは汝の娘の娘を目にしてはいけない)、初期のラビたちは関わりを持ってはいけない繋がりをずっと遠い親戚まで広げた。
やがてほとんどの文化が禁じている親や子ども、孫、おじ、おば、いとこという範囲を大きく超えて、最後には「母方の祖母の父方の兄や妻」との性的な繋がりさえ禁じたのである。
ならばなぜどの文化も、近親相姦にうろたえ、それを禁じるのだろう? セックスは危険を伴う行為である。何が起きるか解らないし、恥をかく可能性も、虚絶される可能性も、たまには攻撃を受ける可能性もはらんでいる行為である。ならば、信頼のおける相手、家族のうちで行ったほうがいのではないか?
たしかに、身内同士のある種の性的接触を許している文化もある。ヤノマモ族の父親が幼少期の娘の陰部をくすぐったり吸ったりしてもスキャンダルにはならないし、南アフリカのシリオネ族の場合、母親が幼児期の息子のペニスを吸ったりなでたりすることがある。
大局的に見れば、世界中の文化が、一時的な例外と戦略上必要な場合を除いて近親相姦を禁じてきたのは、もっともな理由が三つある。一つは、家族の力関係である。家族は家族であるだけで、複雑で微妙な関係なのであり、そこに別の感情を巻き込んだりすれば、さらに厄介になる。
親と子の間で力の均衡が保たれているのに、近親相姦などすると虐待や争いが起こりかねない。セックスにまつわる執着や嫉妬は、家族愛とは相容れないのである。
近親相姦を頻繁に、しかも長く続けていく民族は健康が損なわれる
二つ目の理由は、近親相姦を頻繁に、しかも長く続けていく民族は健康が損なわれていということである。捕食動物や寄生虫の餌食になりつづけないよう、遺伝子を混ぜて別の個体を生み出すためである。
だが何世代も同じ家族の中で繁殖を続ければ、遺伝子のバラエティは世代を追うごとに乏しくなり、現存の疫病にも狙われやすく、また、その種を狙った新しい疫病も生まれやすい。
実際近親相姦をならかの理由で(意志による場合もあるし、環境によって致し方ない場合もある)続けている少数の文化の中に生きる人々にとって、健康の劣化は深刻な問題になっている。
南大西洋のトリステンダクーニャという小さな島では、島の外から新しい血がもたらされることなく、最初に来た開拓民23人とその子孫が1827年から61年まで6世代にわたって身内での交配を繰り返した結果、健康が全般的に損なわれてきている。6人が同じ病気を持っていた、他にも発病の可能性を疑われている者が8人いた。
その上研究者たちの調査によると、近親相姦の密度が濃かった子どもは最も知的能力が低く、密度の薄い子どもは比較的知性に優れていたという。テリとキムの身内が、生まれてくる子が奇形なのではないかと恐れたのもこれが理由だろう。
だがテリとキムの話が証明しているのはむしろ、人がなぜ近親相姦を忌み嫌うのか、その三つ目の理由である。しかも、二人は逆説的にこれを証明した。
われわれの先祖には、近親相姦が次世代にとって不利だという意識はなかっただろう。その必要はなかったのだ。われわれと同じよう先祖にも、生まれつき近親相姦を避けるような適応がプログラムされてきたからである。
イスラエルにあるキブッでは、子どもの育て方もユニークである。
ここでは子どもは産んだ親に育てられるのではなく、共同の保育施設に送られる。ここの子どもたちは、望むのならセックスの相手を探し、試してみて、次世代のキブッの子どもたちを生み出してもいいと言われている。
大胆で新しいやり方だが、その結果は注目すべきものとなった。ここで子どもたち同士の絆は強く、子どもたちは一生の友人を見つけ、強い友情を育む。なのにこれまで一人も、同じキブッで育った相手と性的に関係していないのだという。
何故かと聞かれると彼らは、たんにその種の魅力を感じないからだと答える。小さい頃からずっと一緒に居ると、燃え上がるような情熱は感じなくなるものらしい。
ほとんどの社会で、一緒に育てられる子どもたちといえばきょうだいしかいない。だから一緒に育った相手の性の相手には選ばないということは、近親相姦を避けるように適応してきた結果である。
人類学者たちがいくつかの部族の人々に、兄弟に、あるいは姉妹に魅力を感じるかと訊いたところ、いちばんよくみられる反応は、禁じられた欲望を刺激された場合の反撥などなく、笑いと困惑だった。
「まあ、あいつも一応女だけど」というのが、典型的な答えだった。「でも、そういう対象では見ないよ。妹なんだから。自分の妹と寝たがる奴なんていないだろう?」。この答えから見ても、テリとキムの例が証明になっている。
二人は別々に育てられたからこそ、恋に落ちることが可能だったのかもしれない。
近親相姦は人間関係に混乱をもたらすし、人間には近親相姦に嫌悪感を抱くようにできている。しかしそれ以外にも、世界中の文化が、近親相姦を撲滅しようとしてきた理由がある。もしかすると中でもこれが、いちばん大事な理由かもしれない。
それは近親相姦が行われ場、それだけ外の人間と交わる機会が減ってしまうといことである。そしてどれだけ外の人間と交われるかどうかが、部族にとって、栄えるか滅びるかかの鍵を持っていたのである。
外の人間と交わるには、自分の属する集団でない集団に属する相手との出会いがなければならない。初期の人類にとって、そのための方法は主に二つあった。一つはこれまで見てきたように、近くの部族から相手を力ずくで奪ってくることである。ヤノマモ族は、未だにこの方法を取っている。
たしかにこれまでも近親相姦は避けられているが、平和や繁栄をもたらすとはいえない。ヤノマモ族の歴史はある意味で、集団の殺し合いの歴史である。その間女性は家畜のようにやり取りされ、男たちは怪我を負い、命を落としていく。
だがもう少し知恵のある部族なら、もっと平和で有益なやり方で、部族と部族の出会いを作ろうとするだろう。近隣の集団に性の使者をいわば長期的で送り込めば、その集団との絆は強まり、どの獣は避けた方がいいとか、どこに獲物がいるとかの情報を交換できる。
また、他の部族のどれが敵対的でどれが友好的かも事前に知ることが出来る。必要とあらば一緒に戦うことも、合併して一つの集団を形成することもできる。
人類史の初めての頃、食料や縄張りを巡った争いが熾烈な時代には、どこかと手を結べばどうかが存続にかかわったことも多かっただろう。
だがもし、部族同士の連合が性の使者の派遣を通じて可能になるなら、誰がその使者になるのだろう? そして、どういうシステムが出来上がっていくのだろう?
つづく
20、 結婚の起源
だが、結婚はたしかにライバル同士。敵対しかねない者同士の絆を築くが、近隣の部族から年頃の女性がやってくれば、問題も相当引き起こしただろう。部族と部族を結びはしても、一つの部族の中では問題を抱え込む事になったかもしれない。