サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
精子戦争
1989年4月、キャリア・ウーマン向けのイギリスの女性誌『カンパニー』が「オーガズム:それを考え直すとき」と題した調査を行った。表紙を開けるとそこには、セックスの経験についてかなり事細かなアンケート項目が並んでいた。どのくらいの頻度で誰とセックスをするか、月のうちいつ頃するか、どんな時にするか、どんな避妊方法を使っているから、絶頂に達するかなどのアンケートだった
一見、ありがちな質問事項にみえないこともない。だが、普通の女性誌アンケートとは一線を画していた。アンケート項目を考案したのは時間に追われている編集者ではなく、全国でも指折りの進歩的な学者の二人だったのである。
その学者、ロビン・ベイカーとマーク・べリスは、女性の性衝動に関してかなり過激な仮説を立てていた。1980代初頭から、ベイカーは生物学者ジェフリー・パーカーと一緒に、動物に見られる“精子戦争”という現象に注目して研究を進めてきた。これは一つの雄の生殖器に入った別々の雄の精子が、受胎をめぐって争う現象である。
その後研究対象を少し変え、方向感覚とめまいの研究を進めたあと、ベイカーは大学院の学生べリスとチームを作り、学界だけでなく世間一般に大きなインパクトを与える研究を発表した。
精子同士が争うなどという生物に関する冷厳な事実を見せつけられた後、ベイカーとべリスは女性の性衝動に関してもこれまでとは違った見方をするようになった。人間以外の霊長類では、雄が雌の性を支配下に置いている種ほど、雄の精巣の大きさ(体全体との割合)が小さいことに二人は気づいた。
たとえばゴリラのように、一匹の雄がハーレムを形成する一夫多妻の種では、精巣は比較的小さかった。しかしもっとも性の平等が進んだ種、乱交が行われている種では、精巣は大きくなっていた。
とりわけ人類に近いといわれるボノボは、非常に大きな精巣を持っている。だが人間の精巣は、大きいとも小さいとも言えないサイズに落ち着いている。
女性のセクシュアリティという未知の領域に潜む謎を解く手がかりを得た
ベイカーとべリスはこれを見て、人間の男性は過激ではないがコンスタントに女性を漁るよう進化して来たのではないかと考えるようになった。
男性が女性に応えられるような生殖器を発達させ、女性の体内でも精子の競争が繰り広げられているとするならば、女性のほうにも受胎の結果を調節する武器はあるのだろうか?
この大胆な仮説のおかげでベイカーとべリスは、それまで誰にも不可能だったことを成し遂げた。女性のセクシュアリティという未知の領域に潜む謎を解く手がかりを得たのである。
なぜ女性の性はあれほどバリエーションに富んでいるのだろう? クリトリスの本当の役目は何なのだろう? それに、そもそもなぜ女性は絶頂に達するのだろう?
研究結果に幅と深みを持たせるため、ベイカーとべリスは二グループの女性たちを募集した。最初のグループ(決まった性のパートナーがいる女性)には、射精後の精液の動きをかなり詳細に記録してくれと頼んだ。
射精量はどれくらいあったか? どれくらい体内に留まっていたか? そしてどれくらい体外に流れ出たか? 当たり前の事かも知れないが、これまでこの種の調査が行われたことは一度もなかった。
こんなことが大切だと思った者も興味を感じた者もいなかっただろうし、少しは興味を感じたとしてもその考えを頭から追い出そうとしただろう。だが、ベイカーとべリスは、自らの性の実情が明らかになるかもしれない。二人は射精後体外に出る精子に“フローバック”とう名前さえ付けた。
セックスのあとヴァギナから流れ出た液体はいつも同質ではない。そしてそれは、射精の量とも関係がない。むしろ、“フローバック”の量は、女性のオーガズムのタイミングとの関係がある
11組のカップルが見つかった、みな学部生で、決まった相手とだけセックスしていた。カップルたちは普段通りの性生活を送るように言われたが、二つだけ特別任務を与えられた。
まず一つ目。それぞれパートナーのオーガズムのタイミングを記録しておくこと。
そして二つ目は、女性はセックスのあとヴァギナから流れ出た液体を、定着液の入ったビンに保存しておくこと。この“フローバック”は直ちに実験室に運ばれ、分析されることになっていた。
二番目のグループはもっと大勢集まった。彼らの任務はずつとやさしいもので、『カンパニー』のアンケートに答えればいいだけだったからである。
その二つの研究結果が合わせて分析にかけられると、非常に興味深い事実が浮かび上がってきた。
まず一つ目。セックスのあとヴァギナから流れ出た液体はいつも同質ではない。そしてそれは、射精の量とも関係がない。むしろ、“フローバック”の量は、女性のオーガズムのタイミングとの関係がある。
女性が男性が達する一分前から三分後にオーガズムに達すると、ヴァギナに溜まる精液の量は増え、男性よりずっと早く、あるいはずっと遅く女性が絶頂に達したり、女性が一切オーガズムを感じないと、女性の体内に溜まる精液の量は減る。
女性のオーガズムのうち、挿入そのもので引き起こされたものはわずか20%
そして二つ目。女性のオーガズムのうち、挿入そのもので引き起こされたものはわずか20%だが(残りはマスターベーションやファンタジー、あるいは前戯によるもの)月のうち受胎の可能性が高い時期ほど、挿入によるオーガズムが起こりやすい。
オーガズムと妊娠に関係あると思っていた古代ギリシア人の考え方は、完璧なものではないとはいえあながち間違っていなかったのではないかとベイカーとべリスは考えた。だがそれならば、オーガズムはどういう役割を果たすのだろうか?
1960年代にマスターズとジョンソンが研究成果を発表して以来、あるいは、1970年代にコペンハーゲン大学のゴーム・ワーグナーがオーガズムに達した女性のヴァギナを撮影して以来、研究者たちは“テント効果”と呼ばれるユニークな生理的現象を知った。
ヴァギナと子宮の筋肉が収縮すると、ヴァギナの奥が子宮に向かってリズミカルに震え、子宮頚も繰り返し震える。これには、“吸い上げ”の効果がある。
ヴァギナに溜まっていた液体は、精液であれば女性自身の分泌液であれ、子宮頸を通って吸い上げられていく。精子にとっては、これは卵管を通って卵子に出合う旅に出る後押しになる。また、ヴァギナから出られるという効果もある。
ヴァギナはペニスには居心地のいい場所だが、精子にとってはいい環境ではない。
健康なヴァギナの?バランスとってはやや酸性で、精子が損なわれる可能性がある。だがいったん子宮頸に入ってしまうと、そこは精子にとってずっと生きやすい場所なのである。
このデリケートなプロセスには、“アップサック”というあまり美しくない名前が付けられている。
さてベイカーとべリスは、どれくらいの状況でどれくらいの精液が女性の体内に溜まっているかを確かめた。そして今や、精子の出所を確かめる時が来た。そのためには計算式が必要だ。女性は受胎可能な時期に、どれくらいの頻度で誰とセックスしているのだろう。
47%の女性に複数の相手がいることが解った。つまり、5日間の間に少なくとも1回以上、別々の男性とセックスした
つまり、5日間の間に少なくとも1回以上、別々の男性とセックスした女性がそれだけいたのである。これは女性のパートナー選びに焦点を当てたほかの研究結果とも合致する。
すでに1947年、キンゼーの研究チームは若い人妻の8%が家庭の外に愛人を持っていて、35歳に達するまでにはその割合は20%に上ることを発見している。それから何十年がたち、女性が自由になればなるほど、その%テージは上がったわけである。
1980年、女性誌『コスモポリタン』が行った調査によると、34歳までの人妻のうち半分が、夫を裏切ったことがあると答えている。もちろん『カンパニー』や『コスモポリタン』の読者は、ことにセックスに関する調査に協力しようなどという女性は、いわゆる普通の女性よりも性の知識が豊富で積極的であり、素直に自分の体験を語るだろう。
だがこのような数字を突きつけられてみると、女性は男性より生まれつき性欲が弱く相手のバラエティを求めないという説は頷くことができなくなってくる。
女性が一夫一妻制を守るという思い込みに対する打撃は、ここで終わらなかった。ベイカーとべリスが研究を進めると、さらに衝撃的な事実が明るみに出た。女性はレギュラーのパートナーとは、月経サイクルの一周目と最終周、すなわち最も妊娠しそうにない時期に愛を交わしがちである。
そしてもっとも妊娠の可能性が高い時期に愛人に会うことが多いのである。カール・グラマーのクラブでの実験行った実験で証明されたのはこの事実だった。エストロゲンとテストステロンの高い時期、妊娠の高い時期には、女性は性欲を満たそうとする。しかも“レギュラー”出ない相手と。
テストステロンが誘導するのは、セックスだけでない、
それにテストステロンが誘導するのは、セックスだけでない、このホルモンは女性を、マスターベーションにも駆り立てる。だれにも相手にされない欲求不満の女性が自分を自分で慰めるのだという一般的な思い込みとは裏腹に、セックスの回数の多い女性ほどマスターベーションの回数も多いと女性ほどマスターベーションの頻度も高いという研究結果が出ている。
もちろん、セックスの相手を見つけて興奮しているせいかもしれない。だが、もっと隠れた理由はないだろうか? ベイカーとべリスはこんな説を立てている。マスターベーションは、次にやって来る精子軍団に向けて跳ね橋を上げるような行為なのかもしれない。ヴァギナだけではなく子宮頸の中も、酸性に傾いていく。
こう見ていくと、“レギュラー”の男の精子にとって、受胎への道は生易しいものではないことがわかる。ところがベイカーとべリスは、さらに気の滅入るような情報をもたらした。女性がいつセックスをするかを確かめた二人は今度、セックスの内容を調べてみた。
その結果、“レギュラー”の男は二重(三重に)不利な立場に置かれていることを発見したのである。女性が受胎可能な時期に、夫と愛人、二人とセックスしたとしても、愛人のセックスの方が相手のオーガズムの時期がずれない。つまり、愛人の精液の方が体内に残りやすいのである。
受胎可能な時期にした愛人のセックスの70%が“高体内保留率”セックスであるのに対し、夫のセックスではその割合が40%まで低くなる。どう考えても、間男のほうが分がよさそうである。
実際夫とのセックスのほうが愛人の二倍多かったとしても、父親になるチャンスは愛人の方が高いのである。
ロビン・ベイカーはもちろん、人間が純粋に論理だけ重んじて行動を、特に性行動を決めるとは考えていない。ただ私たち人間は、意識してもいなければ自分でコントロールすることもできない衝動に、進化の過程で否応なく身に付けた衝動に、思っている以上の影響を受けているというのが彼の主張である。
ベイカーによると、体は私たちの知らぬ所で多くの事をやってくれている。脳にすべての力があると思い込むのは思い上がりかもしれないのである。この点に関して『カンパニー』の調査は、さらに驚くべき発見を生んだ。
外に愛人を作った女性は、いつかはばれるかもしれないというリスクをつねに背負っている。ならば避妊には相当慎重になるだろうと、誰しも思うことだろう。だか、これはいささか事実と違っている。
家を出て外で密会するためには知恵を絞っている女性たちも、避妊になると全然気をつけていないらしいのである。リスクを思えば、もっと賢い振る舞いもできるだろうに、なぜこうなるのだろう?
ベイカーとべリスが発見したところによると。女性はむしろ複数いると避妊をしない傾向があるという。相手が複数いる女性は、ピルを服用している割合が低い。おまけにレギュラーのパートナーより、愛人が相手のときの方が、避妊をしないのだという。
これでもうお分かりだろう。女性もまた。男性と同じょうに、できるだけ有利なら遺伝子を残すようにできている。もし結婚相手ではそれが叶えられないのなら、よそで調達する。
ある社会生物学者が女性のセクシュアリティに関して語るとき指摘したとおり、婚姻関係の外にバラエティ豊かな相手を求めるという男性の衝動が進化の過程で、消えなかったのは、少なくともある種の女性たちがそれを受け入れたからである。
そしてそれは、たんに生活の糧を得るためではない。女性たちはもっと恒久的なもの――すなわち遺伝子――を残そうとしたのである。
自分で意識している、していないにかかわらず、女性の体は子どもの父親が誰かうまくごまかす機能が備わっている。排卵は目に見えず、受胎は体内で行われる。“フローバック”に“アップサック”、それにマスターベーションやオーガズムもある。すべて、あまりあからさまにではなく、数ある男性のなかでプライオリティをつけるための道具立てなのであ。
クリトリスもオーガズムも哺乳類の進化してきた過程での偶然の産物ではない
そう考えると、クリトリスもオーガズムも哺乳類の進化してきた過程での偶然の産物ではない。女性にパワーを与える武器なのである。おまけに、この知識があれば女性は、もっと意識的な選択ができる。
ブラッドフォード大学の考古学者ティム・ティラーは、その昔の“フローバック”はさらに重要な役割を果たしていたのかもしれないという。
椅子もない環境で、いまよりも肉体が鍛え上げられていただろう太古の昔女性たちの陰部の筋肉は、もっと発達していたかもしれない。だから精液を、意識的に追い出すことさえできたかもしれないというのだ。
つづく
16、いい父親、悪い男
サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
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