サイモン・アンドレアエ/沢木あさみ=訳
クラブでの実験
フォルクスガルテンには、濃密な空気が漂っていた。スポットライトの中を、タバコの煙が漂う。幾筋もの光が真っ暗なサーカステントの道化師のように踊り狂う客たちを映し出す。
このフロアの中ほどに、ゾフィがいた。最新のビートにあわせて、激しいダンスをしていた。ここはウィーンでいちばん人気のあるクラブ。20世紀の男女は、こうしたデクノ・グラウンドで出会う。その夜もいつもと同じだった。ある実験が行なわれていたことを除いて。
メイン・ダンス・フロアーの下にある小さな地下室で、ウィーン大学の研究者たちが女性客の行動を調査していた。女性客に一人ずつ声を掛け、地下に来てもらって小さなガラスの瓶に唾を吐いてもらう。それを密封し、研究室に持ち帰って検査するのだ。
それから研究者たちは客に尋ねる。今どんな気分? 今日は何人で来たの? 今、付き合っている人はいる? 客が答える間にビデオが回り、客の服装を上から下まで余すことなく捕らえる。5分のアンケートが終わると、客は解放される。
この実験を考案したのは、カール・グラマー教授。都会の人間を研究対象とする行動学者で、進化の過程が現代の人間に影響しているのか、しているとすればどの程度しているかについて画期的な研究をしていた。
そしてこの日教授は、女性のセクシュアリティとホルモンの働きの関連を調べようとしていた。
科学者たちはホルモンと性衝動には深い繋がりあるのではないかと考えてきた。
1920年にホルモンの存在が確認されて以来、科学者たちはホルモンと性衝動には深い繋がりあるのではないかと考えてきた。人がどれくらいの頻度で、どのように性的興奮を覚えるか、どんな相手に惹かれるかまで、ホルモンの力に左右されているのではないかと言うのである。
これまで見てきたように、男性の性欲は主としてテストトロンのレベルが保たれていることによって引き起こされる。このホルモンがあるから男性は、出来るだけ多くの相手とできるだけたくさんセックスをしようとするのである。かたや女性の性欲には、非常に異なる三つのホルモンが複雑に混ざり合って影響を与えている。
この三つのホルモン
三つのホルモンが正確に言えばいつどのように影響しているかをめぐって、ここ50年ほど議論が繰り広げられてきた。伝統的に女性に課せられてきた社会的プレッシャーに比べると、ホルモンの影響などないに等しいと主張する一派もいる。また、ホルモンの影響を受けているかどうかは一人一人異なり、一般論には意味がないという一派もいる。
また、ホルモンと性欲関係を探る研究は始まったばかりなので、はっきりした結論を出す段階ではないと主張すること人もいる。
実態はまだはっきりとしているとは言えないが、そろそろ仮説を立てるくらいなら許される段階に来た。そこでとりあえず、今の段階で解っていることだけまとめてみよう。
女性の月経サイクルとホルモンの満ち干はどういう関係があり、それはどのような心の動きを生み出すのだろうか。
エストロゲン
まず、エストロゲンについてみてみよう。このホルモンはいつでも生産されているが、排卵の直前に特に多くなる。セックス・セラピストのテレサ・クレンショウはこのホルモンを“マリリン・モンロー・ホルモン”と名付けている。“そばにきて私に触って! 私をあなたのものにして!”と訴えるホルモンだからである。女性を駆り立てるのも、このホルモンの仕業である。
テストトロン
二番目のホルモンはテストトロンである。女性の場合、このホルモンの量は男性よりずっと少ない。だが排卵期前後はぐっと量が増え、男性と同じ効果をもたらす。夜、相手を求めてさまよったり、タッチダウンを求めて走ったり、ビジネスで契約をまとめたり、何かを積極的に追い求めたり、戦いをものにしたりする背後には、テストトロンの働きがある。
このホルモンは、セックスにも関係がある。ふと立ち止まり考えずに前に進むのは、テストトロンのせいなのである。
プロゲステロン
三つ目のホルモンはプロゲステロンである。このホルモンはいわば“意欲に水をかける”ホルモンで、女性が家に溜まって家族の中に閉じこもりたくなるのはこのホルモンの働きなのである。
このホルモンの働きが強い人は、積極的・攻撃的な行動を取るよりもむしろ何かを育み、守る傾向が強い。また女性の月経サイクルの最後の方や妊娠期には、このホルモンは大量に生産される。
このように多様なホルモンが補い合って作用しあい、満ち干きを月ごとに繰り返す。これを理解すると、女性の性衝動に関してこれまでよりはずっと真実に近づける。
もう一度ウィーンのクラブに遊びに来ていたゾフィの例に戻ろう。
報告書によるとゾフィは26歳、長く付き合っているボーイフレンドがいる。彼女がクラブにやってきたあの夜、ボーイフレンドは家にいた。ボーイフレンドは疲れているので家で休みたいと言ったが、その夜のゾフィはなぜか落ち着かなかった。
セクシーなドレスに身を包み
そこでセクシーなドレスに身を包み、一人でクラブにやってきたわけである。
男漁りする気などなかったが、とりあえずそのための服装は整えてきた。来るとすぐに何人もの男が近づいてきたし、彼らと遊んでもいいかな、という思いがあるちらりと頭をよぎった。
研究者たちが彼女を見つけたとき、彼女はフル・スイング状態だった。頭をのけぞらせ、ドレスはめくりあがり、目には危険な光が宿っていた。
ゾフィに質問する研究者たちにとっては、これはなじみのパターンだった。決まった相手がいながら一人でクラブに来る女性たちは多かったし、彼女たちの服装や振る舞いにも共通するものがあった。
ゾフィの唾液を分析してみると、エストロゲンとテストステロンが両方とも濃い。排卵期だったのだ。
ゾフィのドレス、ホルモンの状態、そしてクラブに来るまでの経過から研究者たちになじみのパターンをまとめてみよう。ゾフィはその夜、妊娠可能な状態にあった。そしてボーイフレンドから離れ、一人でここにやってきた。
そして、クラブにいる他の女性、排卵期でない女性よりはずっとセクシーなドレスを選んで着てきた。報告書には、ゾフィがその夜ボーイフレンドではない男性とセックスをしたかどうかは記録されていない。
だが、それはどうでもいい。ホルモンの影響で、ゾフィはあの夜、もっとも妊娠する可能性が高い夜、そういう行動をとった。ここで疑問が出てくる。いったいそれはなぜだろう?
つづく
15、精子戦争
セックスのあとヴァギナから流れ出た液体はいつも同質ではない。そしてそれは、射精の量とも関係がない。むしろ、“フローバック”の量は、女性のオーガズムのタイミングとの関係がある。
たとえばゴリラのように、一匹の雄がハーレムを形成する一夫多妻の種では、精巣は比較的小さかった。しかしもっとも性の平等が進んだ種、乱交が行われている種では、精巣は大きくなっていた。
とりわけ人類に近いといわれるボノボは、非常に大きな精巣を持っている。だが人間の精巣は、大きいとも小さいとも言えないサイズに落ち着いている。