脳の教科書・加藤俊徳著
記憶系脳番地トレーニング
「記憶系脳番地を伸ばす秘訣は知識・感情との連動」
脳の中心部には、記憶の蓄積に深く関係する「海馬」という器官があり、この器官は左脳と右脳、それぞれに存在しています。この海馬の周囲に位置するのが記憶系脳番地。左脳側は言語の記憶、右脳側は映像など非言語の記憶をつかさどっています。
実は「記憶」には、「知識の記憶」と「感情の記憶」の2種類があります。前者は思考系脳番地と、後者は感情系脳番地と密接に関係しており、それぞれ記憶の経路が多少異なっています。
悲しい場面に直面したときに、過去に起きた、まったく無関係のない悲しい記憶を急に思い出したという人がいますが、これがまさに「感情の記憶」です。心が激しく揺さぶられたことで、それまでとは異なる経路の記憶が呼び戻されたというわけです。
記憶系脳番地が発達している職業としては、通訳や歴史家などが挙げられます。
いずれも豊富な知識が必要な職業であるだけに、「頭のいい人で記憶力が良くないと勤まらないのでは?」と考えている人がいるかもしれません。
しかし、それは誤りです。単に記憶力をつけようとしても記憶系脳番地は鍛えられません。なぜなら、知識や感情と連動させなければ、記憶系脳番地は刺激されないからです。つまり、記憶系脳番地を鍛えるには、思考系や感情系の脳番地とリンクさせることが不可欠だということがわかるでしょう。
ですから、物覚えが悪くなったからとて言って、低下した記憶力を無理に伸ばそうとしても、あまり意味がありません。記憶力をつけたいなら、リンクしている思考系や感情系の脳番地トレーニングにシフトするべきなのです。思考や感情と連動させながら記憶できる状況に持っていき、そのうえで知識を取り入れた方が、強く記憶されますし、衰えた記憶力を再び向上させることも可能になるのです。
●1日20分の「暗記タイム」をつくる
以前、ある大学の教授から、こんな話を聞きました。
その教授、自宅から大学までタクシーに乗る際、自分の研究分野に関する本を読んで、その内容を覚えることを習慣にしているというのです。
大学が近くになっても最後まで読み終わっていないときは、時間を稼ぐために、わざわざ迂回してもらうこともあると話していましたから、驚きです。
一見、変わった勉強のように思えますが、彼にとってはこの方法が最も集中しやすく、確実に本の内容を記憶できるとのことでした。
実はこの勉強法、脳の観点からすると非常に合理的なのです。
脳はデッドラインを明確にすると、それまでに何とか作業を終わらせようとする傾向があります。
ですから、この教授のケースであれば、勉強の空間を車内に限定することで、「タクシーが着くまでに覚えなければならない」という意識が強く働き、集中することができるのです。
とはいえ、誰でもがこんな方法を実践できるわけではありません。そこで、この例を少し応用して、毎日決まった時間を確保して、その間に集中して何かを覚えるようにしてみてはどうでしょう。 忙しい中で、まとまった時間を確保することは難しいかもしれません。
ですから、たとえば1日に20分だけ時間をつくり、その間に覚えることに専念してみるのです。
勉強時間を1時間捻出することは大変ですが、20分なら散歩の時間や通勤時間に確保することができるでしょう。それでも難しいという場合は、寝る前の10分間でも構いません。
「暗記タイム」の時間は、あなたの生活パターンに応じて設定してみてください。
要するに、記憶系脳番地を活性化させるためには、脳がデッドラインの存在を意識できればいいのです。
『論語』を覚える
この章の冒頭で「記憶力をつけることだけが記憶系脳番地のトレーニングではない」と書きましたが、それでもやはり、記憶系脳番地を鍛えるためには、記憶力をある程度高めることが必要です。 ただし、何でもいいから手当たり次第に暗記すればいいというわけではありません。
大事なのは、「計画的に」覚えることです。
暗記の対象は、長ければ長いほど覚えがいがあるというもの。たとえば礼子の『論語』や仏教の『般若心経』を、暗誦(あんしょう)できるまでひたすらに覚えるのもいいでしょう。
しかし、どちらもそう簡単に覚えられるものではありません。実際、勢い込んで全部暗記しようと試みても、途中で確実に挫折するはずです。
では、どうすればいいのか?
すべて覚えようと思わないことです。
「それでは記憶力のトレーニングにならないのでは?」と思う人がいるかもしれませんが、要は1度に全部覚えようとするからできないのであって、覚える範囲を限定して毎日少しずつ暗記すれば、意外と楽に頭に入ってくるものです。なかなか覚えられないという人は、同じところを何度も読みながら、覚える行数を毎日1行ずつ増やしていくといいでしょう。こうして暗記量を積み重ねていくことで、記憶の容量はおのずと増えていきます。
ちなみに私は、この方法で本居宣長の「うひ山ぶみ」(学問を志すうえでの心構えが書かれた書物)を暗誦できるまでなりました。
これは私の個人的な考えですが、人間は10回以上読むことで、初めて内容を理解することができるのだと思います。
ですから、焦る必要はありません。
極端な話、毎年10%ずつ覚えていいき、10年で100%覚えようと計画すればいいのです。
ただ、暗記するにあたって、あまり難解な本を選ぶとすぐに挫折してしまいます。
『論語』や『般若心経』が難しいと感じたら、好きな小説の一場面やお芝居のセリフ、詩など短いものを選んで暗記すればいいでしょう。 何事も苦にならない程度に続けることが大事です。
●前日に起きた出来事を3つ覚えておく
1日の出来事というのは、その日のうちなら事細かく覚えているものですが、時間が経つにつれて、どんどん思い出されなくなってしまうものです。
ましてや、取るに足らない些細な出来事ほど、すぐに忘れてしまうもの。
たとえば、「1週間前に食べた朝食を思い出せ」と言われても、そう簡単に思い出せるものではありません。
しかし、記憶力を強化させれば、5日前の朝食を尋ねられても、「あの日の朝食はトーストとベーコンエッグだった」と答えられるようになるのでする
もちろん、このレベルに到達するまでには、毎日の訓練が必要です。では、どのような訓練をすればいいのでしょうか。
具体的には、朝、目が覚めたら、前日の出来事を思い出し、覚えておきたい(覚えていたほうがいい)出来事を3つ挙げるのです。
その日の夜ではなく、翌朝にこの作業をするのはなぜかと言えば、一定の時間を置くことで、詳細が思い出しづらくなるからです。思い出せないことが多いほど、そこに記憶を手繰り寄せる必要が生まれ、その作業が記憶系脳番地を刺激することになります。
もちろん、単に思い出すだけでは意味がありませんから、いったんノートに記憶するなどして、数日後にきちんと記憶できているかどうか検証することも必要でしょう。
なお、思い出す事柄は、「ダイエットするため」食事内容を思い出す。あるいは「仕事を早く進めるために」途中だった仕事の進捗状況を思い出してみる、というふうに目的をはっきりさせておいたほうが効果的です。
この作業を繰り返していけば、毎日3つずつ情報が蓄積されていき、記憶の引き起こしが増えていくはずです。
トレーニングを継続するうちに、3つの出来事を覚えることが簡単になっていくかもしれません。そのときは、覚える数を増やしていけばいいのです。
いかがでしたか?
すでにいくつかのトレーニングを試したという人もいるでしょうし、これからチャレンジしようと考えている人もいるかもしれません。
いずれにせよ、本書の多くのトレーニングが、脳を積極的につくり変え、「前向き」な思考を育てるメニューになっていることを理解してもらえたのではないでしょうか。
しかし、本書のトレーニングを実践すれば、それだけで強い脳ができる・・・・・というわけではありません。
大切なのは、トレーニングの内容に自分流の工夫を加えること。また、あなた自身が新しいトレーニングを創ることです。
なぜなら、本文でもお伝えしたように、同じ経験をいくら繰り返しても、脳には限定的な刺激しか与えられないからです。
ちなみに私は、よく「夢」を利用して新しいトレーニングをつくります。
夢の中に出てきた珍しい動物や鳥が実在するのかを真剣に調べてみたり、夢で経験した出来事を細かく思い出し、「実際に起きたらどうなるのだろう?」と考えたりします。
先日は、こんな夢を見ました。
弊社(脳の学校)の社員と2人でお客様から依頼された仕事を進めていたところ、予算が3000円しかなくて大慌て・・・・という内容でした。
普通なら「変な夢だったな」で終わるところですが、もしこれが現実だったらどのように対処すればいいのだろう、と真剣にシュミレーションするわけです。
もうひとつ、脳を強くするうえで重要なのは、価値観が大きく変わるような体験をすることでしょう。
この本でお伝えしてきたように、日常の習慣を見直すだけでも脳を刺激することは十分可能です。しかし、価値観がまったく変わるような体験をすると、脳が心地良い“衝撃”を受け、その結果「潜在能力」が引き出されるのです。
何によって価値観が変わるほど、「衝撃体験」だったのは、本書で何度も登場している「MRI」との出会いでした。
磁石でできたドームの中に10〜20分間横たわっているだけで、1ミリほどの薄さごとに体の断面を画像化されてしまう―。
27歳のとき、MRIを初めて目にした私は、「この技術が医学そのものを変えることになるだろう」という衝撃を受けました。
このとき、私の脳は確実に生まれ変わったのです。
話が少しそれますが、皆さんは「九会曼荼羅(くえまんだら)“金剛界曼荼羅”」をご存じでしょうか。
曼荼羅とは、仏教(とくに密教)において、仏の「悟り」の境地を視覚的に表現したもの、九会曼荼羅は、縦3マス×横3マス、合計9マスのブロック(漢字の「囲」のような形)のそれぞれに仏の姿が描かれている曼荼羅のことです。
9つのブロックの中心には、「大日如来」という仏様が位置していますが、実は周りの8つはこの大日如来の化身だと言われています。
私は、本書で紹介した8系統の脳番地について考えるとき、いつもこの曼荼羅で表現すれば、中心「以外」に配置されているもの。では、中心に位置するトレーニングとはなんでしょう?
それは、自分自身の価値観を鍛えるトレーニングなのではないか…・。
私はそんなふうに考えています。
8つの脳(8系統の脳番地)をどう動かすかは、つまるところ、あなたの価値観によって決まります。トレーニングを進めるときには、この中心に位置する「自分」を意識してみると、今までとは違った視点が持てるようになるかもしれません。
皆さんが、8つの脳番地を縦横無尽に操り、夢に向かって踏み出す小さなきっかけとして本書を使っていただければ幸いです。
(株)あさひ出版 =医学博士 加藤=
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