上野千鶴子著
和解のススメ
死はゆっくり来る。突然死など、のぞまないほうがよい。
死が時間をかけて訪れることの恵みは、「旅立ちの準備」を、本人も周囲もできることだ。
身の周りの整理や遺言の書き方については、ノウハウ本が山のように出ている。わたしはここでは、他に誰も言いそうでないことを、とくに男のおひとりさまに向けて、かいてきたいと思う。
それは死の前の「和解のススメ」である。
それというのも、2005年に監修した『今、親に聞いておくべきこと』(法研)で、辞書にもない項目を仕込んでおいたことがあるからだ。それは、「聞きにくくても聞いておくこと」「聞きたくなくても聞かない方が良いこと」、そして「今のうちに親と和解しておきたいこと」の3つである。
「親との和解」という項目をわざわざ入れたのは、娘時代に早めに家を出て、母親との対立を回避した。あとになって介護の場面で出会ったときには、母親はとっくに弱者なっていたから、きちんと向き合う機会は永遠に失われた。
《意地を通せば悔いが残る》
傷害のいだには、だれにでも葛藤があったり対立した相手がいる。敵ならほうっておけばよい。だか、自分にとって大切な人や身内と行き違いで対立して、それがほぐれないまま年月をすごしてきたひとは、とりわけ男性が多いだろう。
コケンや意地からだ。配偶者を亡くしたあとなどは、「まあまあ」ととりもってくれる妻がおらず、ますます家族から孤立することになる。
自分の意に背いた子どもを「勘当」するのはたいがい男親。母親が子どもを「勘当」する例は思い当たらない。いまだって、嫁が勝手にろくでもない男と出奔(しゅっぽん)してしまったという理由で「勘当」する親はいないわけでもないが、孫でも生まれたら、たいがいの女親は軟化する。
女親がとりもって娘夫婦は家族の一員に復帰するものだが、その仲介をしてくれる妻も、もういない。
離別などの場合には、ましてや成人した子どもの顔も思い浮かばないくらい、もとの家族とは縁遠くなっている。
『おくりびと』という映画をごらんなっただろうか。自分が6才のときに女をつくって出ていった父親に、主人公である息子は約30年ぶりに再会する。出会ったときは。父が死んだあとだ。
この映画には、「死体役」の役者さんが何人も登場する。セリフがないのはいいかもしれないが、死んだふりするのもラクではないことだろう。
この映画のクライマックスは、納棺師を職業とした主人公が、自分を捨てた父の遺体と対面したときに、握ったその手から、かたときも忘れたことのない、幼い頃の、父と交わした石文(石に自分の思いを託して贈ること、その石)がぽろりとこぼれているのを発見するシーンだ。
そうか、そうだったのか。自分勝手なヤツと呪いつづけた父親は、自分を捨てたあとも、死の瞬間まで息子の自分を忘れなかったのか…死者との和解が、この一瞬に成り立つ。
気難しいとことで知られている友人の男性が、「ぜったいに泣けますよ」と言って映画をリメイクしたマンガ版を私に貸してくれた。呼んだが、泣けなかった。
わたしがよほど血も涙もない人間だからか。そうは思わない。この映画には、男を泣かせるキモが仕込まれているからだ。それが、父と息子の和解、しかも、取り返しのつかない、遅すぎた和解だからである。『おくりびと』は女心よりは、男の魂をぐいっと掴む仕掛けに富んでいる。
《思い残しなく生きるために》
とはいっても、現実は映画のようにうまくはいかない。死ぬときに石文を握りしめていたなんて、話が上手くできすぎているし、たとえそうでも、息子がそれをうまく発見してくれる保証はない。
それに息子の側では和解は成り立つかもしれないが、死んだ父親の方は、死ぬ瞬間も息子の石文を握りしめて悔恨にくれただろう。
死ぬ前でなく、死の後に訪れる和解であることで、これは息子の物語であって、父の物語ではないことがわかる。もしかしたらこの遅すぎる和解が意味するものは、父と息子の和解は死ぬまで訪れないということかもしれない、とすら思える。
べつなわたしの友人の男性は、80代の父親を60代で見送ったときに、葬儀で「どうしても泣けなかった」と述懐した。それまでの人生の中での父との確執や身勝手な父の振る舞いを思うと、「この年齢なっても許す気持ちになれなかった」からだという。
そして許せなかった自分の気持は、今度は息子の側にほぐれないまま残る。
ほぐれなかった想いは、凝り固まって、後に残る。残された側にも、思いは重荷になる。思い残しのないように生きようと思えば、死の準備に、和解すべきひとたちとは和解しておくことだ。
許せないと思う相手を許し、許してもらえないと思う相手から許してもらうことだ。
死ぬことがわかっているひとを前にすれば、相手はきっと寛大になるだろう。もし許さなかったら、許さなかったことが今度は生き残った側の思い残しになる。
セッコさんは60代で当時70歳だった夫を見送ったとき、脳梗塞の後遺障害で病床にあって動けない夫に、こう聞いたそうだ。
「いまのうちに会っておきたいひとがいたら、遠慮せずに言ってちょうだい。わたしの知らない愛人でも恋人でも、あなたが会いたいと思うひとを呼んであげるから」
見上げたものだ。
もちろん人生に完成も大団円もない。終わるときにはいつでも中途半端なのが人生だろう。だが、ゆっくり死ぬ過程で、思い残しのないように謝罪や赦(ゆる)しを告げ、近しいひとたちに感謝して別れを告げておけば、「もういつ迎えが来てもいい」という気分になりないだろうか。
まだ経験していないのにえらそうなことをはいえない。そして実際に経験した時にはておくれなのが、死ぬことだろう。だが、「おひとりさま」のわたしは、できればそういう「おひとりさま」の死を迎えたいものだ、と念じている。
こういう死に方には、男も女もないことだろう。
あとがき
前著『おひとりさまの老後』の「あとがき」に、わたしはこう書いた。
「なに、男はどうすればいいか、ですって?
そんなこと、知ったことじゃない。
せいぜい女に愛されるよう、かわいげのある男になることね」
これを読んだある男性読者から、クレームをいただいた。
「この本は女性だけでなく男性にとっても役に立つ本だと思って共感しながら読んできました。最後にこの3行に出合い、突き放された思いがしました。てきればこの3行は削除してください」
お気持ちはわかるが、この3行はそれ以降も削除せず、あとがきに残っている。
そして読者からは、ことあるごとに、「男おひとりさまの老後を、続きで書いてください」といわれてきた。
それから2年。ようやく約束を果たした気分である。
男おひとりさまと女おひとりさまの暮らしの知恵は同じではない。男おひとりさまに向けて、男性の著者が書いた本もあるのだから、なにも女に生き方を教えてもらうに及ばない、と感じる読者もいることだろう。
だが、多くの男おひとりさまに取材して気がついたことがある。おだやかで幸せな老後を送っている男おひとりさまの共通点は、妻がいなくても女性の友人が多いことだ。
最後はカネ持ちより人持ち、それも男性は異性の友人を、女性は同性の友人を持つことが秘訣のようだ。「弱さの情報公開」のできない男同士の関係では、困った時の助けにならないからだ。
わたしより年長の男性たちに生き方を指南するなど、偕越だろう。なにをしたら女性がうれしいか、それともイヤがるかを教えてあげることはできる。
カネでも地位はフェロモンでも女性を釣れないとなれば、最後に残るのは、人間的な魅力だけ。それも女性を脅かさない「かわいげ」だ。
「せいぜい女に愛されるように、かわいげのある男になることだね」
というのが前著でのアドバイスを、わたしは自分でしかめることになった。
本書には前著から2年のあいだに、わたしが取材したり研究したりした新しい情報がたくさん盛り込んである。今回は男性向けに書いたが、女性の読者にとっても役に立つと思う。
なにより、男おひとりさまには、わたしが女性の幸せのためにも、ひとりで生き延びて貰わなくては困るのだ。はた迷惑な自爆テロをやられても困るし、孤立した暮らしに窮して「孤独死」(「ひとり死」とは断然違うことは本分を見てほしい)してもらうのもせつない。
女性はけっして冷淡でも邪険でもない。さきだつ妻には「これでお父さんを残して安心して死ねる」と思ってもらいたいし、離婚した妻にも「顔を見たくない」と憎むかわりに、子どもたちの父親と程よい関係を維持してもらいたい、「負け犬」の女性たちにも、魅力的な男友達がたくさんいてほしい。
困ったときに困ったと言える「かわいげのある」男おひとりさまが増えることは大歓迎。そして世の中のしくみをその助け合いができる方向に変えて行けたら、と願っている。
その樽のハードルはけっして高くないはずだ。
紅葉の季節に 上野千鶴子
1948年富山県生まれ。京都大学大学院社会部博士課程修了、平安大学助教授、シカゴ大学客員教授、京都精華大学助教授、‥‥等々歴任。
著書に「差異の政治学」(岩波書店)「家族を容れるハコ、家族を超えるハコ」(平凡社)「老いる準備」等がある。
『男おひとりさま道』平成21年11月1日 第1刷発行((株)法研)
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