家族介護者の男性比率。2009年版の高齢社会白書をみると、同居の家族介護者の28%が男性と知って、おどろいた。在宅で家族を介護している人の4人に1人以上が男性ということになる。 トップ画像赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

《増えている男性の家族介護者》

本表紙 上野千鶴子著

《増えている男性の家族介護者》

このところ増えているのが、家族介護者の男性比率。2009年版の高齢社会白書をみると、同居の家族介護者の28%が男性と知って、おどろいた。在宅で家族を介護している人の4人に1人以上が男性ということになる。

 続柄でみると、いちばん多いのが夫、次に息子、婿は皆無に近い。
 高齢者の子どもとの同居率が低下し夫婦世帯が増えているから、どちらが倒れても、夫婦の間で何とかしようという習慣が短期間のうちに定着した。

 子世代は手を出さないし、仮に出したくても遠くにいて手が出せないケースが多い。夫婦世帯の妻の側からも、希望する介護者の続柄として、娘や嫁よりも「配偶者」の優先順位がたかくなった。

 ただしこの選択は、夫婦関係が良い場合に限る。
 10年ほど前に、現役の高槻市長だった江村利雄さんが、妻の介護のために市長職を辞したという報道があった。「市長には代わりはいるが、妻には自分の代わりはいないから」というのが辞職の理由だ。

 美談として報道されたようだが、自分の市の職員にも、家族が要介護になったら退職を進めるのだろうか。市長としての責任は、要介護状態の家族がいても、誰もが安心て働きつづけられる仕組みづくりにあると思うのだが。

 自分が率先して辞めるようでは、自分のところの自治体に、家族介護に代わる安心の仕組みがないということを、みずから認めているようなものだ。

 男の介護も希少価値のあるうちは美談になるが、同居の家族介護者の4人に1人以上が男性となれば、もはや例外とはいえない。この場合は、男性の育児休暇取得率(2008年で1.23%)よりはるかに高い。

 男は自分の子どもを育てるために仕事を休んだりはしないが、家族の介護には積極的に引き受けるようだ。

 多くの男性家族介護者が改悟を選ぶ理由は、自分が無職であること、定年退職者であることが条件である。現役世代が介護退職を選ぶケースはすくない。妻の介護や医療の費用を捻出するためにも、働くことを辞めるわけにはいかない。
 
 そういうときには、病院に入院させたり、家政婦さんにお願いしたりして、おカネで外注することになる。女性が“介護退職”を選ぶのとは対照的である。

《夫に介護される妻は幸せか》

ここでは高齢の夫婦の場合に、話を限ろう。
「だんなさまにお世話をして頂けるなんて、お幸せね」と、夫の介護は美談になりがちだ、周囲は夫を「よくできただんなさまねえ」とほめそやすし、「奥さま、お幸せね」と、妻を羨望する。ところで、こういう夫に介護された妻の方は、ホントに「お幸せ」なのだろうか、というのが疑りぶかいわたしの疑問だった。

 イギリスのクレア・アンガーソンという研究者は、「男が家族介護者を引き受けるとき」についての詳細な事例研究を行っている(「ジェンダーと家族介護――政府の政策と個人の生活」光生館、1999年)。その研究によれば、妻の介護は、定年で仕事を失った男性にとって、仕事の代わる新たな熱中の対象として選ばれることがあるという。

 場合によっては、長年苦労かけた妻に、ここぞとばかり負債を返す贖罪(しょくざい)意識から、介護を引き受ける夫もいるようだ。

 家族社会学の笹谷春美さんは、日本で実際に妻の介護を引き受けた高齢の夫の事例を研究対象にした(「家族ケアリングをめぐるジェンダー関係」鎌田とし子・矢澤澄子・木本喜美子編『講座社会学14ジェンダー』東京大学出版会、1999年)。

 定年後の夫は、妻が要介護になると、使命感を感じて、「オレの出番!」とがんばる場合がある。仕事で培ったノウハウや経験を生かし、妻の服薬管理や生活管理、ヘルパーさんの手配やケアマネジャーとの交渉など、テキパキとこなすのは、社会経験のない女性より、ずっとうまい。

妻の体調管理が生きがいとなり、毎朝体温と血圧を測って、パソコンに記録を入力したり、インターネットで情報収集をしていろいろな介護法や看護方法を試したりする。

笹谷さんはこういうタイプの夫の介護を「介護者主導型介護」と呼ぶ。つまり、介護が夫主導になり、介護される個の妻がそれを文句も言わず従わなければならない傾向があるということだ。

もともと依存的だった妻が、病気や介護で、もっと完全に自分に依存的な存在になる。てますます美化される。

《強まる妻への支配力》

介護される側になるということは、立場を問わず不如意なことが多いものだ。
「よい介護」とは、なんといっても介護される側にとって受けたい介護のこと。
 
夫に介護される妻は、介護に不満があっても、文句を言うのを憚(はばか)れることだろう。
「お父さんの世話をする」のが妻の役割なのに、それが果たせないばかりか、立場が逆転して夫にお世話をかけているという引け目から、身の置き所のない思いをしている妻は多いはずだ。そのうえ文句をいうなんて論外・・・・・・。

介護や医療の方針が食い違った時など、介護を受けている妻が、夫に異を立てるのは難しい。「お父さんのいいように」と、自分を人体実験の材料であるかのように差し出す妻もいる。そうなれば、ほとんど「介護されるボランティア」みたいなもの。

いやいや、男の介護に水をかけようというわけではない。介護は、する側とされる側とで、強者と弱者の力関係ができる。

なんてったって、介護する側の方が強い。嫁のようないちばん従属的な立場の家族に見てもらっていても、カネを払ったヘルパーさんに診てもらっていても、やっぱりそうだ。ただでさえ強い立場にいる介護者に、もともと強い立場にいた夫がなるとどうなるか、が問題なのだ。

介護は介護される側がどうしてもらいたいかが基本。介護する側が主導になってはいけない。男の介護の落とし穴はここ。男性介護者は自戒してもらいたいものだ。

愛する夫に介護してもらう嬉いが、「わたしのキモチにそってね」というのは、セックスと同じだろう。

《老老介護がひきおこす悲劇》

男の介護は悲劇をときおこす。
 孤立して追い詰められた、“老老介護”は、妻が夫を看ている場合も、夫が妻を看ている場合も同じ。「いっそ、ひと思いに・・・・」と思った介護者だって少なくないだろうが、問題は夫はそれを実行に移すことだ。

 2009年9月、寝たきり妻(59歳)を介護していた夫(63歳)の殺人未遂事件の初公判が報道された。「妻を殺して自分も」と思って妻を手にかけたが果たせず、その後、死にきれずに殺人未遂の罪に問われた。夫は「妻を愛していた」というし、妻も厳罰を望まなかったというが、これが「愛」というものだろうか。

 追い詰められた親の「一家心中」は、最近では「親の子殺し」プラス「本人の自殺」と分けて考えられるようになった。自殺したいほど絶望した親がひとりで死ぬのは勝手。子どもを道ずれにする理由はない.それというのも、「この子を残して死ねない」という間違がった“所有意識”から子殺しが起きる。
 
 自分が死んでもこの子は生きていける。だれかがめんどうをみてくれる‥‥と信じることが出来れば、子どもを残して自分だけが死ねばよい。

 それから考えると、この夫も、妻に対して「愛」という名の“所有意識”を持っていたのではないだろうか。自分がいなくても誰かが面倒を見てくれる、という社会に対する信頼関係さえあれば、安心して死んでいけるのに、そんなにつらければ第三者に助けを求めることもできるし、いっそ離婚して妻を生活保護世帯にして公的援助を求めることもできる。

 介護保険のスタートから10年近くたって、この男性にさまざまな支援のメニューを教えてくれる人は周囲にいなかったのだろうか。

 妻が夫を介護する際の介護虐待は事情があるが、介護殺人となると、その加害者の多くが男性で、被害者は女性が多い。要介護になったら女はおちおち安心して寝てもいられない。

 介護者に殺されるかもしれないから、というのは、データを見ると杞憂(きゆう)ではすまされないとわかる。
 つづく セックスは封印?