上野千鶴子著
在宅看取りを支えるひとたち
さて、どの死に方がいいか。
残念ながら、死に方だけは選べない。亡くなる前に、数ヶ月間は他人さまのお世話になることをかくごして、それを受け容れる備えさえあれば、恐れることはない。
在宅看取りを実践しているお医者さまに必ず聞くのは、
「おひとりさまでも、在宅で死ねますか?」という問いだ。
「これからの課題です」という答えもあるし、「はい、できます。実際にやり遂げましたから」と答えるひともいる。
首都圏郊外の小平市で「ケアタウン小平」を運営している医師、山崎章郎さんはそのひとり。もともと緩和ケアの専門医だった。訪問介護ステーション、看護ステーションを組み合わせて、在宅ターミナルケアを実践している(山崎章郎・米沢慈『新ホスピス宣言』雲母書房、2006年)。
わたしがお訪ねしたときには、地域の約60世帯の高齢者世帯を対象に、かなり重度の末期がんの患者さんの、ペインクリニック(痛みを緩和する治療)を含む在宅医療を受け持っておられた。ご自分の携帯電話の番号を患者さんに教え、「いつでも連絡していいですよ」と伝えてあるという。
山崎さんは、わたしと同世代の団塊の世代。60歳を超えている。60代にもなればカラダに堪えるだろうし、なによりも私生活が破壊され、家族に怨みを買うだろう。
「いつでも連絡していい」は、まさか本気? と心配したわたしに、山崎さんはこう答えた。
「24時間いつでも対応してもらえるという安心感さえあれば、患者さんはめったに電話はかかってこないものですよ」
実際はこれまで月に約2回。この程度ならこなせるという。昨年からは、ドクターも複数体制になって負担の軽減をはかっている。
山崎さんだけではなく、実際に夜間対応いつでもOKという体制を取っている在宅医療の関係者は、口をそろえて同じことを言う、「大切なのは患者さんの安心感」と。
それさえあれば、そうむちゃくちゃに電話はかかってこないのは事実のようだ。
《生協「オレンジコープ」の取り組み》
24時間対応の医療を支える条件は、ふたり。ひとりの医者に負担が集中しないように複数の医療者のあいだでリスクを分担し合う連携の仕組み。もうひとつは、医者の出番を減らす訪問介護のサポートだ。
急性期治療が終わって様態が急変しないことが予想される患者には、昔からホームドクターがいた。後期高齢者医療制度が提唱した「かかりつけ医」制度は、これを復活させようというものだったが、報酬の定額制は高齢者医療を抑制するためか、と批判を受け、医師会から猛反対を受けた。
なにより「町のホームドクター」そのものが後継者難できえゆく運命にあった。地域の高齢化が進めば、ホームドクターの負担はますます重くなる。これを軽減するしくみが、「当番医」制度だった。
大阪府下の泉南にある生協「オレンジコープ」では、医療・介護・生活支援の安心つきのこれ医者住宅に力を入れている。生協が提供している訪問介護に加えて、地域の医師や歯科医師など医療関係者チームで訪問診療と訪問介護を融合したネットワーク「ゴールドライフ」をつくりだした。
ここの特徴は1人の患者を2名以上の医師が診ること。情報を共有することで、見落としが防げるし、緊急事態にもすぐに代替要員が確保できる。医療者の負担も少ない。
2008年時点で、医師5名、歯科医師8名、鍼灸師・柔道整復師・マッサージ師19名がこのネットワークに参加している。専門家を自分たちの事業体で抱え込むもなくても、在来の地域資源を活用して24時間対応できるシステムづくりを実践している。うまいやり方だと思う。このシステムのモデルができれば、ほかの地域にも応用が可能だろう。
《高まる歯科医療のニーズ》
そのネットワークのなかには、在宅歯科医療を実践している開業歯科医もいる。
高齢になれば、入れ歯も増えるし、口腔ケアのニーズも高くなる。人間、生きるということは、最後の最後まで、食べて出す、ということのくりかえし。口から食べるというのは、人間の生きる証拠だ。
施設ではテマを省くために入居者の入れ歯を外すところもある。その結果、亀亡くなって食事の楽しさを失ったり、ミキサーでごったにして味も分らない流動食を流し込まれたりする。これだって人権侵害だし、高齢者虐待ではないだろうか。
歩けない高齢者も、車いすという補助具を使えば移動が可能になる。目の遠くなった高齢者も、メガネという補助具があれば、新聞もテレビも見れるようになる。
入ればという補助具あることが解っているのに、それを使わせないのは、いじめしか思えない。実際、合わない入れ義歯を作りかえて入れ直したところ、建老の入居者がとたんにしゃっきりして以前の活力を取り戻したという勘当のシーンを、映画監督の羽田澄子さんが制作したドキュメンタリーで見たことがある。
在宅医療には、歯科診療も含めることが必要だろう。
もうひとつ、在宅医療で大活躍するのが訪問介護だ。24時間対応の訪問看護ステーションがあれば、医師の出番を待たなくても相当の事が可能になる。看護士さんは病院勤務の場合でも、夜勤シフトがある。当直医はいても、患者の容態が変わったときには、深夜でも主治医に電話をかけて指示を仰ぐ。
それが病院から地域に変わっただけ。医療のジャーナリストの大熊由紀子さんが、在宅医療にとってホームグランドでの闘い。これに対して、患者の自宅でのアウエー(遠征試合)での闘い。
まったく条件が違う。医師にとって看護師にとっても、在宅のほうが、多様な能力と経験を要求されるのは当然だろう。
《どんなあばら屋でも自宅がいちばん》
なくてはならいのが、訪問介護の役割だ。治療でなく、暮らしを支えるのが介護だ。
ヘルパーさんが短時間で1日に4回とか6回とか巡回で見守りに来てくれれば、状態の変化もわかる。
巡回の合間に息を引き取ったとしても、それはそれでいいのではないかと思えてきた。同居家族のいる高齢者だって、夜の間に見守るひともなく亡くなることもある。
わたしが共同研究した九州の生協、クリーンコープ連合の福祉ワーカーズコレクティブ(メンバー全員が出資して共同経営者となり、老度を担う協同組合方式の非営利組織)では、訪問介護で男性の単身高齢者を在宅で看取った実績がある。
毎日見ているからこそ、変化がよくわかる。いよいよだなあと思ったときに、遠くに住んでいる娘さんたちに連絡した。それから1週間してその方は亡くなった。
ご家族には本当に感謝されたという。1週間ですんでよかった。これが1ヶ月以上続いたり、持ち直してはいたん帰り、また再び呼び出されたりした日には、かえって恨まれたかもしれない。
これに加えて、訪問リハビリ、訪問入浴、医療ソーシャルワーカー、ケアマネージャーなど、多職種の連携があれば、最末期でも在宅で死を迎えることが出来る。
おひとりで暮らしてきたものだもの、ひとりで生きてきたように、ひとりで死んでいけばよい、と思うようになってきた。
どんなに素晴らしい施設より、たとえみすぼらしくても自宅がいちばん、と多くの高齢者が思っていることを知るにつけても、介護保険の理念通り、おひとりさま高齢者の「在宅支援」が可能になって欲しい、と思うようになった。
それに、そもそも介護保険の「在宅支援」の理念には、介護コストを安くしたいという、“不純な動機”も含まれていたはず、在宅看取りは、実際、病死より週末期医療のコスト低減にもつながるだろう。
つづく
家族という“抵抗勢力”