
上野千鶴子著
第5章 ひとりで死ねるか
生の延長線上にある死
寝たきりや認知症になってしまえば、女も男もない。他人さまのお世話になって従容(しょうよう)と生きるしかない。男女問わず、おひとりさまの老後は施設で、というのが、これまではたった一つの選択肢だったけれど、ようやくそれ以外の選択肢「在宅ひとり死」の可能性が見えてきた。
おひとりさまはひとりでいることが苦痛でなく、それを選択したひとのことだ。
「ひとり死」は「孤独死」とは、まったく違う。
孤独死は、孤立した生の果ての死。それに対して、ひとり死は、ひとりで生きてきた人生の延長に、ひとりで死ぬことがあるだけ。おひとりさまの暮らしが決して孤独でないように、ひとりで死ぬのは、たんに看取る人がいないということだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
死ぬのはだれにも代わってもらえない、ひとりで成し遂げる事業。だれかに立ち合って貰わなければあの世に行けないわけではない。一人暮らしのひとがひとりで死ぬことを、価値判断抜きに「在宅ひとり死」と呼ぼう。
その覚悟さえあれば、ひとり暮らしに何の問題もない。
世の中には集団生活に馴染めない人もいる。第2章で紹介したグループホームでただ一人男性入居者のように、「社長」意識がアタマから抜けない人の場合は、はたが迷惑するから集団生活を向うから断られるケースもある。
妻さえいれば最期まで自分のわがままに付き合ってくれる可能性もあっただろう。だが、配偶者のいない男おひとりさまにとって、他人に合わせるのはよほど苦痛だろう。
女性のほうが、環境適応力は高いし、柔軟性が高い。女がもともとそういう生きものだから、とは考えないで欲しい。それしか生きる道がないから、あきらめて環境に適応してきたのだ。ほかに生きる道がないと思えば、強制収容所の暮らしだって、人間は適応する。
施設入所を自分から決めるお年寄りの中には、「家族の迷惑をおもんばかって」という動機がある。そういう配慮をつねに先取りするのは女性のほうだ。
それにくらべれば、男性のほうがわがままだ。他人に合わせなくてはならない集団生活をするくらいなら、不便でもひとり暮らしを選ぶ。ゴミ屋敷で「ぜったいここを動かん」とがんばるのは、男性に多いそうだ。
《家で最期を迎えるための条件》
それでなくても柔軟性を失っている高齢者を、新しい環境に連れ出すのは酷というもの、それなら、その一人暮らしを維持しながら、在宅で最期まで看取りをすることは可能だろうか?
それがわたしの次の課題になった。
在宅ひとり死は可能か?
イエス、というのが、答えである。
そのための条件は以下の3点セット
@ 24時間巡回訪問介護
A 24時間対応の訪問看護
B 24時間対応の終末期医療
つまり、介護・看護・医療の3点セットと多職種連携がありさえすれば、おひとりさまの在宅死は可能である。
これまでわたしは介護関係のひとたちとおつきあいをしてきた。介護関係のひとたには、ほんとうに志の高い、人柄の温かいキモチよいひとたちが多い。他方、ワンマンの父が医者だったこともあって、わたしは医療関係者への偏見が抜けずに、できれば遠ざかっていたいものだと思ってきた。それがターミナルケアを研究対象にすると、そうも言っておられなくなった。
医療者の役割を無視することができなくなるからだ。そう思ってつきあってみると、在宅ターミナルケアを実践しているお医者様には、人柄のいいひとが多いことに気がついた。
《生涯現役をはばむ「病」という障害》
日本の高齢者の死因は、上から、1位が悪性新生物(がん)、2位が心疾患、3位が脳血管疾患(脳梗塞)、4位が肺炎(感染症)の順。
年齢が上がるにしたがって、心疾患と肺炎の順位が上がり、85歳以上になれば老衰が5位や4位に登場してくる。
ざっくり言えば、@ガンで死ぬか、A心疾患や脳梗塞で突然死するか、あるいは、B心疾患や脳梗塞などで療養中に感染症(肺炎)にかかったり心不全で死ぬか、それともうんと長生きした、C老衰で死ぬか、のいずれかであろう。
老衰で死ねるのは文明の証。抵抗力の落ちた年よりは、たいがい肺炎などの感染症にかかって亡くなることが多い。寒い季節に高齢者の死亡が集中するのはそのせいだ。
PPK(ぴんぴんころり)のように、「突然死」願望は高いが、死因のうち突然死が期待できるのは、心疾患や脳梗塞。ただし、重篤な症状で助かる余地のないケースは多くない。
それ以前に余震のような前兆があるから、軽い発作だと一命をとりとめて、半身麻酔や言語障害などの後遺障害を残して生き延びる。
脳梗塞を経験した後、リハビリで奇跡の復活を遂げた男性に会ったことがあるが、「あのまま傷害が残ったらと思うと、思い出してもぞっとします」と口にした。
「生涯現役」が信条の男性だったが、「あのまま死んでいたら」と思ったら、もつと「ぞっとする」んじゃないだろうか。
「あのとき、いっそ死んでいれば」と思うのは、障害持った自分を受け入れられないから。
わたしは障害のある人たちと付き合って。自分のキモチがほんとうに軽くなった。人生を楽しむのに傷害の有無なんて関係ない、と思えたからだ。
たとえ傷害が残っても一命をとりとめたことを、あとになって感謝するのではないだろうか。
《がんの余命宣告を受けたとき》
死因が、@心疾患や脳血管疾患、Aがん。B老衰や感染症の順に療養期間が短い。ただし、@心疾患や脳梗塞が「突然死」なるのは、一発で死ねれればの話。とはいえ、「予期ぬ死」は、本当に幸せなのだろうか。自分にも周囲にも死を受け入れる準備がないのは、不幸なことかもしれない。人生にも仲間にも、「さようなら」も言えないのだから。
それにくらべれば、Aがん死は、かなりの確率で死期を予測できる。死への準備や周囲への配慮をする時間があるだけいいかもしれない。それに「余命」は長く続かないので、資金計画も立てやすい。
がんの余命宣告を受けたと佐野洋子さんは、「これでこの先、生活費の心配をしなくて良くなった」と心から安堵し、宣告を受けたその足で、カー・ディーラーに立ち寄って、かねてより念願のジャガーを購入したそうだ。
『がん患者学』(品文社、2000年)の作者、故・柳原和子さんは、一時は玄米菜食の代替治療に凝りまくっていたのに、「カネがない」といいながら、京都で療養生活をするあいまいに懐石料理や板前割烹などのグルメ三昧にふけった。その点、京都は世界有数のグルメ都市だ。あと少しの命、と思えば、遠慮も我慢もいらない。「好きなことにオネを使って何が悪い」と開き直れるのも、がんの良さかも知れない。
《死に至るまでの時間と覚悟》
これに対して、B老衰や感染症が死因となるケースは、寝たきり期間が一番長いと言えるかも知れない。肺炎のような感染症はあっというまに死ぬと思っているかもしれないが、その実、寝たきりや長期療養中の高齢者が感染症で死ぬ場合が多い。
感染症が死因になるということは、そのひとの体力や抵抗力が著しく堕ちていることを意味する。高齢者にとって感染症は、誤嚥(ごえん)性肺炎や院内感染などの一種の介護・医療事故ともいえるものである。
86歳で死んだわたしの父親は、15ヶ月間、病院に長期入院してがん死した。衰弱していたカラダは新陳代謝の能力を失って、皮膚はいまにも裂けそうなほどもろく薄かったが、遺体は床ずれもなくきれいで、15か月のいだ肺炎にかかることなく亡くなった。
病院がよほど手厚い看護をしてくださったのだろうと、心から感謝した。ただし、迫りくるがん死に、本人は心身ともに苦しんだが。
いっぽう、都内の有名病院に入院して肺炎の治療にあたり、肺炎ウィルスは100%根治して治療に成功したのに、感染症にかかってあっというまに病院死したひともいる。病院は、抵抗力の落ちたひとには危険な場所なのだ。
死亡診断書に医師が「肺炎」とか「心不全」とか書くのは、主病因ではない死に方によるものが多い。
わたしの母親(享年76歳)は、転移性再発した乳がんの闘病中に、心不全で亡くなった。
末期がんの患者さんに死相がうかび、下顎(かがく)呼吸が始まるがん死を見てきたことがあるわたしは、まだ肌に色艶のある母を見て、「お母さん、かわいそうだけど、そうすぐには死ねないわよ。
クリスマスには帰って来るからそれまで待っていてね」と言い残して、当時の赴任地であるドイツに旅立った。ついて数日後に、死亡の知らせを受けて、急遽日本に戻ることになったのだけれど。
母の遺体はふっくらとして肌もきれいだった。モルヒネがカラダに合わず、苦しんでいた母が、がん死を迎える前に心不全で死ねたのは、彼女にとってはよかったかもしれない。母は心臓病の持病を患っていた。
こんなふうに書けば、いたずらに不安を煽ることになるのだろうか。
つづく
在宅看取りを支えるひとたち