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初期投資が高いと、安いコストで楽しめる

本表紙 上野千鶴子著

初期投資が高いと、安いコストで楽しめる

文化資本をみにつけるにも投資がいる。時間待ちのリッチなヒマつぶしをみていると初期投資が高くつくことがわかる。

タケシさんは4輪駆動のランドクルーザーとカヌーを持っている。スキーの道具にずいぶん投資した。マサアキさんは、オーディオ装置にカネをかけている。自慢のスピーカーを置くために、半地下のオーディオルームをつくり、室内をコルク張りにしたので、結局インフラ投資はずいぶん高くついた。

数年前にDVDでオペラを観ようと大型スクリーンを設置した。亡くなった妻は、「お父さんの道楽」と呼んでいたが、タバコもお酒もやらないマサアキさんにとっては、このくらいの道楽はバチも当たるまいと思っている。

おもしろいのは初期投資が高いと、一回あたりのフローのコストは安いこと。タケシさんが友人たちと2泊3日のカヌー旅行に行ったときは、ガソリン代や食料を入れてひとり3万円程度しかかからなかったし、友人と息子を連れて元旦に富士山初滑りに行ったときでも、高速代込みでひとり6千円程度で済んだ。

これが子どもたちふたりを連れて浦安にディズニーランドへ行くのだったら、そんな予算ではすまないだろう。

文化資本に加えて、社会関係資本も力を発揮する。社会関係資本とは、どんなひとをどれだけ知っているかというかという付き合いのストック。「人持ち」をまんまん専門用語にしたようなもので、最近、社会学の業界で流行りだした。

その社会関係資本があるおかげで、フローにおカネをかけずに楽しみのメニューを増やしている例はいくつもお目にかかる。

あるひとは、知人が経営している会社の社員用の研修施設(とはいっても名ばかりで、税金対策のために経営者が建てた自分のための別荘なのだが)を毎年家族で利用している。

別の人は、プロモーション関係の仕事をしている友人から、招待券や試写会の案内が次々に来るので、映画や展覧会におカネを使ったことがない。

《高学歴者の“地域デビュー”はむずかしい》

こういう例を見ると、生涯にわたっての豊かなヒマつぶしには、子どもの頃の文化資本や社会関係資本の蓄積がものをいうことがわかる。

 老後になって急に生き甲斐や趣味を、というのでは間に合わない。子どもたちには学校以外の遊びのメニューをたっぷり与えた方がよいし、学生時代には、学業以外のクラブやサークル活動にいそしんだ方がよい。

 一見ムダとみえる活動が、あとになって時間待ちのヒマつぶしメニューを増やしてくれるのだ。
 お稽古ごとや学問もそのメニューのひとつだろう。

 先述のマサアキさんは「一生勉強」の強要志向の男性。元教師だけあって、学校が大好きだ。おもしろいのは各地の高齢者向けコミュニティ活動には「シルバー講座」だの「寿大学」だのと学校教育を彷彿させるネーミングが多いこと。

 こういうところに集まる高齢者には高学歴者が多い。「寿大学」だの「シルバー講座」だのは、学校好きな高学歴の高齢者向けに、自治体が苦肉の策で考えたネーミングだろう。

 他方、地域には昔からの老人会があって、老人会長が仕切っているが、こういう地縁コミュニティには、定年退職者は入っていきづらい。老人会の主力メンバーは地域の商店主や商工自営業者。もともとその地域にしっかり根をはって、年齢集団ごと持ちあがってきた例が多い。

 そこに突然、大企業の定年退職者が“地域デビュー”をしようと思っても無理。水に油で、お互いにそりが合わない。それに70代、80代の男性は、学歴差が大きい。

 大卒者の割合が同年齢人口の1割っていったころの世代だ。学歴がちがえば異文化のようなもの。こういう社縁からはみだした高学歴者の集まりには、地縁・血縁より、選択縁のコミュニティが相応しい。

《年齢に関係ないヒマつぶしのノウハウを》

茶道、華道などの芸事も、ヒマつぶしのメニューとしてはよくできている。日本人はただの芸事を人格陶冶(とうや)の「道」にまで高めるのが好きだ。

しかも天皇制によく似た家元制度まであって、権威付けをしてくれている。ネズミ講システムになっているから、弟子もつくし、先生と呼ばれる。

京都はこの種の家元のメッカ。東京が政治経済の首都なら、京都は文化の首都。家元の総元締めは天皇家だから、昔から京都には、憲法第1条を改定して天皇に「国の象徴」を降りていただき、文化財天皇制の家元として京都御所に帰ってもらおうと、という動きがある。

いや、かえってめんどうだから、このまま千代田のお城にいていただくほうがよい、という反対意見もあるが。

京都は今でも文化都市のブランド価値が高く、「みやこ」といえばだれでも京都を思い浮かべる。京都暮らしだったわたしは、はじめて東京に行ったとき、鉄道が「上り」だったことにびっくりしたものだ。だって京都人にとって、東京に行くのは「東下(あずまくだ)り」と決まっていたものだから。

 その京都の観光案内のポスターに、「そうだ京都、行こう。」というキャッチフレーズコピーがある。京都に縁がなくても歴史のゆかりからなんとなく京都をなつかしくおほえ、何の理由もなく思い立って、「京都、行こう」が通用する。これが、「そうだ名古屋、行こう」とか「新潟、行こう」では、このインパクトはない。

だが、短期滞在の観光旅行より、いっそのこと京の町屋を宿舎として提供し、一流の家元の元で3カ月から半年間、仏画から面打ち、能楽から狂言、染織から工芸まで、上級編を授業料込みで提供するプログラムは組めないものか、と考えたことがある。

パリの名門料理学校、コルドンブルーに高い授業料を払ってわざわざ留学するひともいるぐらいだ。京の町家の生活体験付きで日本の伝統芸能や工芸を学べる留学プログラムは、きっと需要があると思うのだが、キャンペーンのキャッチコピーは、「そうだ、京都留学しよう」と提案したら、即却下された。

学問も、この種のヒマつぶしメニューとして時間とエネルギーをいくら投資しても追いつかないくらい、よく出来ている。学位や資格など、権威主義の匂いのあるところに惹かれるひともいる。わたし自身は、「学問は、自分がすっきりしたいだけの、死ぬまでの極道」とかんがえていて、年齢のないヒマつぶしのノウハウをもっていてよかった、と心から思っている。
つづく 男おひとりさまの生きる道