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友人は人間関係の上級編

本表紙 上野千鶴子著

友人は人間関係の上級編

旧友の深澤真紀さんが、『自分をすり減らさないための人間関係メンテナンス術』(光文社。2009年)という本を出した。日経ビジネスオンラインのウェブ上の連載をまとめたものだが、男性の読者がたくさんついた、という。ご本人も経営者。“血中オヤジ濃度”が他界と自認するだけあって、オヤジ族の共感を呼んだのだろう。

 小さいながら一国一城の主となれば、しかも、この不況期を乗り切ってきた経営者であれば、苦労はオヤジと変わらない。この本の書評対談でしばらくぶりに再会して、「ああ、あなたも苦労して一人前になったわねえ」と、長い旅から成長して帰ってきた妹分を見る思いがした。

 その本の中に、「友人は人間関係の上級編」という項目があるのが目にとまった。
 それを指摘すると、深澤さんはいたずらっぽく、しめしめ思惑通り獲物がエサにひっかかった、という顔をした。

 この項目は、わたしの本を読んで書いたものだ、という。「金持ちより人持ち」っていったって、あんたは友だちがたくさんいるからいいでしょうよ。でも、友人づくりって、だれにでもできるもんじゃないのよ、と組織的な気持ちで書いたとか。

 まつたくそのとおり。
 ホントいうと、友人づくりは、家族づくりより、もっと難しいかもしれないと私は思っている。
 なぜって、家族は役割や定型があるけれど、友人にはないからだ。

《愛がなくても「」家族ゲームはできる》

家族には、夫らしさ、妻らしさ、親らしさ、子どもらしさがあるが「らしく」ふるまっていれば、それっぽくみえる。だからこそ、「家族を演じる」とか「家族ゲーム」とかいう表現があるくらいだ。

 だれかと「つきあいたい」と思えば、「恋人らしく」ふるまえばよい。デートスポットを選んでマニュアルどおりにふるまえば、だれの目にもそれっぽく映るだけでなく、なにより自分たちが「恋人気分」になれる。

「マニュアル付きの恋愛」とバカにする人もいるが、実はこれって恋かしら? とかんじるときには、実際の体験を味わう前に、とっくに小説やドラマで「恋ってこんなもの」と予習しているものだ。人間かそうやって人生をフィクションのなかとか、「家族ってこんなものなのかなあ」といちいち確認していくのだ。

 あらかじめモデルを知っているからこそ、現実の家族を見て、「うちの夫はヘンじゃないかしら」とか、「少し母親らしくしてよね」という注文も出る。

「らしさ」が昂じると「ロボット」になる。と言ったのは。AC(アダルト・チルドレンの略。アルコール依存症などの親から精神的・肉体的な虐待を受けて育ち、なんらかの心的外傷後ストレス障害をもつ子ども)ブームを引き起こした精神科医の斎藤学さん(『アダルト・チルドレンと家族』学陽書房、1996年)。「父親ロボット」「母親ロボット」「子どもロボット」が寄り集まって家族になると、そのなかでいちばん心の弱い子どもが壊れる。人間はロボットではないからだ。

 だか。斎藤さんの指摘には、逆説的な真理がある。心がなくてもロボットのように振る舞ってさえいれば、いちおう「家族」の体裁は維持できるからだ。愛情がなくてもセックスできるし、愛し合わなくても子どもはつくれる。
 残念ながらそれが現実だというくらい、誰でも知っている。

《友人と知人で使い分ける》

 だが、友人はそうではない。「友人らしさ」ってどんなものか、想像できるだろうか。
 どう振る舞えば「友人らしさ」か、わかるだろうか。
「いつでもつるんでたあのひと、お友だちじゃないの?」と聞いたら、「ケッ、とんでもない」と答えが返って来ることもあるし、「つるんでたようにみえるけど、実は、深刻ないじめにあっていたんです」ということだってある。

「ほんとうの友だちとはなにか」などと考え始めたら、迷路に入る。
 つまり定義できないものは、定義しないでいい。
 さいわいなことに、夫婦や恋人とちがって、友人はおたがいに友人契約を結ばなくていいし、契約違反をとがめられることもない。

 深澤さんによると、「友人」カテゴリーと「知人」カテゴリーとを上手に使い分けて、特定の人を「友人」から「知人」へと勝手に降格したり、その逆をやったりしているという。

 それだって、いちいち相手に申告しなくてもいい。「友だちなのに…・」と考えて苦しむよりは、「もう友達ではなくなった、知人なんだ」と自分の中カテゴリー変更する方が、精神衛生にずっとよい。

 一緒にいて気分のいい相手。しょっちゅう会いたい相手、ときどき会いたい相手、たまに会いたい相手、困ったときに助けてもらいたい相手、助けてあげたい相手、気になる相手、気にかけてくれる相手・・‥が、多様に自分の身のまわりをとりかこんでいればよいのだ。それをセーフティネットともいう。

《気の合う仲間を探すには?》

友人のネットワークをつくるには“一本釣り”もあるが、もっと効率の良い方法がある。
 選択縁の仲間に入れてもらうことである。
第2章でも触れたように、選択縁は文字どおり選べる縁。志や教養、趣味、思想信条、ライフスタイル、学歴や経済水準などで、あらかじめスクリーニングされているから、打率が高い。

 よりすぐりの釣り堀の中で、気の合う相手を選べばよい。ライフスタイルが似ているところや、経済的なゆとりの程度が共通していることも大事。相手の懐具合をきにして、行きたいところに気安く誘えないのは困るし、自分からおごるのが度重なると続かない。

 それに、何か共通の目標があって活動している集まりだと、ただのお楽しみの集まりとは違って、そのひとの責任感や誠実さ、仕事ぶりや対人関係などがよく観察できる。社内恋愛が多いのは、仕事の上の振る舞い方をちゃんと見ていれば、ひととなりがよくわかるから。

 ただし、選択縁が社縁とちがうのは、上下関係のないところ。地位や収入を報酬にすることが出来ないので、骨惜しみしない人柄や、腰の低さなどが良く見える。

《女縁に男性がひとりで参加するとき》


 女縁が男女混成になるための道筋には、ふたつのシナリオがある。
 第1は、女縁にパートナーの夫たちが入っていくことで、カップル参加になるケース。
 第2は、女縁に男性が個別に参加するケースである。
 どうやら日本では、第1のシナリオは実現しそうにもないことがはっきりした。カップルづきあいだと、どちらか先立たれたりして「おひとりさま」になったら誘いにくいだろう。残ったほうに新しいパートナーができたりしたら、当人もバツが悪くて参加しにくい。
 カップル単位で付き合っていたふたりが離婚したらしたで、別れたカップルのどちらかを誘おうかで、やっぱり困る。

 一緒に遊んでいた友人のカップルが離婚した。どちらとも仲が良かったから、飲み食いやパーティに、どちら誘えばよいか、困った。一方を誘えば他方を誘えないので神経をつかう。そのうち、仲間の一人が別れた夫のほうの新しい恋人になった。

 そうなるとその女性と別れた妻を同席させることにも気を遣う。やれやれ。

 それに新しい友人の選んだ配偶者が、どうにも気の合わない相手だと、友人と会いたいのにその配偶者が必ずついてくるのも不自由だ。友人関係はひとり対ひとりが基本。カップルづきあいはめんどうが多い。

 アメリカのように離婚、再婚、再々婚が多くて、パートナーがしょっちゅう変わる社会で、カップル単位の付き合いが条件になっているなんて信じられない。さぞかしめんどうなことが多い事だろう。アメリカ人の友人と付き合うと、しばらくぶりに会ったとき、「奥さまはお元気?」は禁句だということがすぐ気がつく。
 何年ぶりかで会うと、パートナーが代わっていることがままあるからだ。

 それになにより、女縁づきあいの女性たちが、夫を女縁仲間の集まりに連れて行くのをイヤがっていることがわかった。
 夫のほうがついていきたがったとしても、だ。

 というのも、選択縁の社会では。脱血縁、脱地縁の非日常。ふだんとちがうわたし、を演出する変身の場だ。そこに夫を連れて行った日には、日常のヘソの緒を引きずったまま外へ出て行くことになる。そんな選択を女性排除したがらない。

 それに、出かけた先に夫以外のステキな異性が入るかも知れないし。カップル参加なら、どの異性もだれかに“所属”していることになるが、おひとりさま参加なら、そんなしがらみもない。夫付きでなければ、友情以上・恋愛未満のおつき合いだってうまれるかもしれないのに、せっかくのチャンスをみすみす逃すのはもったいない。

 選択縁は、「おひとりさま」の資格でつながる場と心得た方がよさそうだ。それに、そのほうが配偶者と死別・離別しても、仲間との関係に影響が少なくてすむ。
つづく 選択縁タブー集「男の七戒」