
上野千鶴子著
カネ持ちより、人持ち
カネさえあればなんでも買える、わけでないことを強調した。それならカネでなく、何か安心のもとなのだろうか。
カネ持ちより人持ち、というのは、「おひとりさまの老後」を書いたあとに、評論家の吉武輝子さんから書評を頂いた有り難い言葉がある。調べてみると、ジャーナリストの金森トシエさんの著書に『金持ちよりも人持ち・友持ち』(ドメス出版、2003年)があった。
この「人持ち」とは、もちろん家族以外の人持ちのことである。
人持ちといえば、すぐに「家族持ち」という言葉が浮かぶ。「家族持ち」から「家族」を引き算すればどうなるか。後に何にも残らなければ、「人持ち」とは呼ばない。
おひとりさまは「家族持ち」ではないが、「人持ち」にはなれる。ここでは、そのためのスキルについて考えてみよう。
《ふたたび「つがい」になるのは考えもの》
これからは、男性もおひとりさまになる可能性が高い。再婚して「おふたりさま」になる確率は低く、男におひとりさまとして生きる人たちが否応なく増えてくるだろう。不如意を嘆き、世間に背を向けて孤立して生きるより、同じ死ぬまで暇なら、楽しくつぶしたい。
死別・離別を問わず、おひとりさまになったら、もう、つがいを作ることは考えない方がいい。つがいを作るのは、まぐわって孕(はら)んで産んで、家族を作るため。発情期ならともかく、高齢になったおひとりさまに、いまから巣作りをする必要はない。
それどころかお相手になる女性のほうも、ほとんど「あがった」ひとたち。
え、そんなことはない、ですって?
たしかに高齢になってから、まだ生殖年齢にある女性と再婚して、子どもをつくった人もいる。海外では73歳で子どもをつくったチャップリン、日本では71歳で子どもをつくった俳優の上原謙が有名だ。その子が成人になるときには、ご本人はいったいいくつになっているのだろう。
《再婚というショック療法の結果は?》
連れ子の娘はふたりとも思春期でむずかしい年齢だった。再婚してすぐに、年下の妻との間に3人目の娘が生まれた。それまでの静かなひとり暮らしから、3人の育ち盛りの娘と育児中の妻とからなる怒涛(どとう)のような暮らしら変わった。その妻がわたしの古い友人である。
ある日、その妻が席を外したときをみはからって、再婚した夫に聞いてみた。
「傷害の終わりに近くなって、よくこんな家族のある暮らしを引き受けるつもりになったわね」
「座して待つより、いいだろう?」
と、その夫は答えたものだ。
たしかに、彼の生活は生気に溢れるようになった。溢れすぎていってともいい。妻は、子どもだけでなく、生き物が大好きで、観葉植物で室内をいっぱいにし、動物も飼っている。
彼の生活のリズムは乱され、娘の領分と妻とその娘たちに侵され、異国から来た子どもたちの心身や教育ついて心労が絶えず、日々の些事(さじ)を巡る妻との口論は彼の心の平安を乱した・・・・。
アーチストだった彼の作品は、再婚後、みごとに色彩に富み、生命力にあふれるようになった。彼は生き返ったのだ。
ただし、こんなエネルギーとコストのかかるショック療法は、万人におすすめできない。この男性は「肉食系」の民族に属していた。
《わたしが再婚をすすめない理由》
非婚の男おひとりさまも、これからつがいをつくって家族をつくろうと考えない方がいい。アジア圏からの輸入花嫁のなかには、40代や50代の非婚おひとりさまと結婚する女性もいるが、これでは老後のための介護要員か、跡取りをつくるための「産む機械」。一時はこうした国際結婚をすすんで斡旋した自治体も、その後の、離婚やDV、失踪などトラブル続出で、事業を自粛するようになった。
考えてみれば、こういう男おひとりさまも、いわば「家」の犠牲者。非婚シングルには、地方在住・長男・家業後継者という「三重苦」の男性が多いという傾向があるから、男も辛いよ、と言うべきだろう。
わたしが再婚をすすめないのは、現実的に可能性が低いばかりではなく、結婚という形をとると、女性との関係を固定化し、狭めることになるからだ。
つがいとは文字どおり、ふたりでワンセット。カップルが出来てしまえば、他人はこれに口出しできない。それよりもなにより不自由なのは、つがいが閉じると、それ以外の異性との関係を作りにくくなることである。
友人はいくらいてもいいし、新しい友人を古くからの友人に紹介して、どうしてうまくいかないのだろうか。新しい女性を古くからの女性に紹介して、お互い上手くいってくれたら・・‥って言うのは、実のところ、ハーレム状態の男性の夢だったかもしれないが。
だが、もしそうなら、逆の立場にも堪えなくてはならない。
それならそもそも、「あなただけ」という独占契約を結ばないことだ。結婚を経験した人なら、すでに一度はそういう排他的なつがいの関係をつくったことになる。
たつたひとりを命綱にしたことによる、喪失経験の深さも味わっているはずだ。ほかに取り換えの利かない関係を既に持っているのなら、あの世で自分を待っているのは死別した配偶者ひとりにしておいたほうがよさそうだ。
《第二の親友もやがては先立つ》
老後のおひとりさまを支えてくれるのは、「このひとイノチ」という運命的な関係よりは、日々の暮らしを豊かにしてくれる緩やかな友人のネットワーク。そう思っていたら、ファッションデザイナー花井幸子さんの『後家楽日和』(法研、2009年)に、「無二の親友より10人の“ユル友”」とあった。
ユル友は、「関係は淡さゆえに、長続きすることだって珍しくない」という花井さんの、「ユルく淡くつながっている友」をあらわす造語である。
「ひとりの親友より、10人のユル友よ。『走れメロス』みたいな魂の友がいないからって、嘆くことはないのよ」
思えば、魂の友だっていつかは先立つ。その親友を失ったからといって、だれかがその人の代わりを勤めてくれるわけではない。家族だけでなく、どんな人との関係も、ほかとかわりがきかないという点では「かけがえのない」ものだ。かけがえのない関係は、相手の死によって、その人の記憶ごと、あちらの世界へ持ち去られてしまう。それを補うものは、何もない。
新しい関係は、新しい自分をつけくわえてくれるだけ。新しい友人に、かつての友人と交わした経験と同じことを期待しても無理だし、同じ理解を求めてもムダだ。
家族や友人の死とともに、あちらの世界へ持ち去られた記憶については、沈黙するしかない。せめて共通の友人たちと思い出話をするのが慰めになるくらいだ。それならやはり、友人は多い方がいい。
《“ユル友”ネットワークをつくる》
そのユル友には、内面の葛藤や墓場に持って行くような告白などしなくてもよい。
しょっちゅう食事やお酒を共にする友人には、思想信条についての議論はふっかけないほうがいいし、まつたり時間を過ごしたい相手に知的刺激を求めるのは、お門違い。
なにごとにも薀蓄(うんちく)はたまにはいいが、疲れるから会うのはほどほどにしておこう。弱音を吐ける相手とは、たまに会うくらいがちょうどいい。ついついグチを誘発されてしまうので、あとで自分はなんてグチっぽい人間なのだろうと落ち込むこともある。
だいたい友人には、知的刺激と心の安らぎ、切磋琢磨(せっさたくま)と包容力の両方を同時に求めたりしないものだ。思想信条が同じでも、一緒にご飯を食べたくない相手はいるとし、気心の知れた飲み仲間でも、まさかのときの助けにならない友人はいる。
内面の共有などなくてもつながるのがユル友。毎日を機嫌よく生きていくことを支えてくれる仲間がいればじゅうぶんだろう。
女おひとりさまには、こういうユル友ネットワークを自覚的・意識的に努力してつくってきた。男おひとりさまにはそれがないとしたら、努力が足りん、と言いたいところだ。あるいはなくてすむ、というおごりから努力しなかったのか。しみじみ衰えを感じてからでは、もう遅い。
つづく
友人は人間関係の上級編