
上野千鶴子著
在宅単身介護は可能か
家族がいるばっかりに、家にいられない。とりわけ男おひとりさまだと、家族にもてあまされる。家族がなくてよかった、と思うのは、こんなときだ。わたしに家から出て行ってくれと言うものは誰もいない。
放っておけないから、施設に入居して欲しいと考える者は誰もいない。おひとりさまのよいところは、誰も私に代わって意思決定を代行する者がいない、ということだ。
介護保険がもともとも在宅支援を理念としていたことは、既に述べた。ところがスタートした初期の目算違いは、在宅支援事業に対するニーズよりも、施設入居志向がいっきに高まったことだ。
介護保険は、措置時代の施設入居の「ウバ捨て」という汚名を返上して、「中流家庭の子世代が、親を施設に入れることへのハードルを下げる効果があった」と皮肉な説まで現れたくらいだ。
介護が「恩恵から権利へ、措置から契約へ」変わったというわれる介護保険では、施設入居も「利用者の権利」になった。だが、この「利用者」は本人ではなく、もっぱら「家族」だった。というのも、施設入居を自分からすすんで選ぶ高齢者はほとんどいないからだ。
《デイケアはだれのため?》
人口20万人地方市、K市の市長が、こんな発言をしたことがある。
「ここらじゃ、介護保険の需要調査をしても、デイケアやショートスティの希望はあるけれど、ホームヘルパーなんてニーズがないんですよ」
だれのニーズを調べているのだろうか。この調査では「利用者のニーズ」とはその実、家族ニーズのこと。
デイケアやショートスティにニーズが集まるのは、家族が年寄りに、ちょっとの間でもいいから家から出て行ってほしい、と思っている証拠である。高齢者本人のニーズとは限らない。
『当事者主権』(岩波書店、2003年)という本をわたしと共著で書いた身体障害者、中西正司さんは、もつとラディカルだ。デイケアやショートスティはいらない、と主張する。なぜなら、利用者本人のニーズのなかには、どちらもないからだ。
デイケアやショートスティも、出て行ってくれると家族がほっとする、休憩が採れたり、外出したりできる、誰かが見守ってくれるので安心する・‥というニーズに応えるものだ。
その証拠には、自分からすすんでデイケアやショートスティに生きたがる高齢者はほとんどいない。
デイケアによっては「行くのか楽しい」と答えるお年寄りもいないわけではないが、それだって、最初はなだめすかしたりして、家族がつれて行ったもの。「試しに行ってみない?」から始まり、1日2日に延ばして馴染んでもらうのだ。
保育園と同じく、行ってみたらおもしろかった、ということはあるだろうが、自分の意志ですすんで行きたいという類のものではない。
こんなことを言うとすぐに「いや、デイケアに引きこもりがちな高齢者のコミュニケーションニーズを満たす機能があるので、たとえ最初はイヤがっても連れ出すほうが介護予防にもなる」という人が現れそうだが、それには簡単に反論できる。
中西さんは、脊髄損傷による下半身麻痺の中途障害者で車いす生活者。障害者自立支援法なら利用できる外出介護のサービスさえあれば、毎日同じような顔が揃うデイケアなどにいかなくても、趣味のサークルや町の囲碁クラブ、友人たちの集まりなどに自由に出かけられる。
外出先のメニューを増やし、当事者に合ったコミュニケーションズニーズに対応すればいい話だ。行った先がバリアフリーになっていれば、それですむ。
いくつになっても、要介護になっても、ふつうの市民生活が送れる。そのための都市インフラを誰でもいつでも自由に利用できる・・‥ようになりさえすれば、年寄りを一か所に集めるデイケアなど、必要なくなる、はずだけど。未来は遠いなあ。
《持ち家をバリアフリーに改装》
介護保険ができてこのかた、施設化の流れがすすむいっぽう。障害者の世界では、かつての大規模施設化への反省が起きて、すでに脱施設化がすすんでいるというのに、まったく逆行している。
どんなに素晴らしい施設でも施設は施設。施設で暮らしたいとすすんで願う高齢者はいない。いや、健康な人でも、施設で暮らしたいと思う人などいないだろう。
わたしたちの共同研究者には、イケメンの建築家、岡本和彦さんがいる。彼は病院建築の専門家である。彼の書いた論文に、「施設度の高さ」というユニークな概念がある。彼によれば、ヒトの集団性・画一性・効率性、空間の孤立性。自己完結性、そして時間の計画性・統制性・非限定性が高いほど、「施設度」が高い、と判定する。
つまり、毎日同じ人と規則でしばられて集団生活を強いられ、衣食住の何もかもが外からは孤立した施設のなかで完結し、時間が予定どおり規則正しく統制のもとにあるような環境を、「施設度」が高い、と呼ぶ。ついには、建物と機能が一体化すると、施設の「世界」化が完成する。
施設が自分の生きる全世界になってしまうところは、監獄や収容所。小笠原さんが『出口のない家』と呼ぶように、死体にならなければ出て行けない高齢者施設は、強制収容所と変わらない。誰がこんなところで暮らしたと思うだろうか。
「安心」を施設で確保できない。という考えは間違っている。しかも、施設が提供してい目「安心」は、本人の安心以上に、家族の安心だ。年老いたお父さんやお母さんを施設に入れておきさえすれば、「わたしが安心ていられる」・・・・。
その家族の安心の代償に施設に入れられるとしたら、まったく本末転倒だろう。
障害者の場合はいったん大規模な施設化の動きが起きた後、その反省から脱施設化の動きが始まった。ちなみに中西正司さんは、障害者を「施設から地獄へ」と唱えてきた障害者自立生活運動のリーダーである。
障害者が地域での自立生活を果たすには、まず障害者を受け容れてくれたり、バリアフリーの設備を持った住宅を確保する必要があった。
高齢者の場合は、もっと話は簡単。ほとんどの高齢者は、すでに住宅を持っている場合が多いからだ。その持ち家をバリアフリーに改装するのはそんなに難しいことではない。
それに在来の日本家屋だって、悪くはない。わたしは、93歳の高齢女性が単身で暮らしている古い日本家屋をお訪ねしたことがある。足腰の立たないその方は、それでもヘルパーさんの助けを借りて、住宅で暮らしておられた。
畳の部屋はちょうどいざって歩くのにラクで、ドアで仕切られていない襖の部屋は移動が自由。雪見障子やテレビなど、全てが座卓の生活に合わせた目線の高さに統一されていて、車いすがなくても室内で暮らすには不自由はなさそうだった。
在宅の高齢者を規格サイズの建物に集めて、施設でお世話するのが「シンポジウム」だろうか。障害者運動の歴史を振り返ってみると、高齢者の施設化の動きは、それからなんにも学んでいないばかりか、逆行していると思わないわけにいかない。
《介護保険はおひとりさまが有利?》
住まい(ハードル)ケア(ソフト)は、べつに考えたらよい。
だとしたら、ケアのついている住まいに移転することを考えるよりは、自分のいる住まいにケアを持ってくることを考えればよい。
つまりは、要介護でも死ぬまで在宅で、を可能にする在宅看取りケアである。
介護保険はもともと住宅支援が目的。それが施設志向になってしまったのは、なんといっても「利用者」が家族だからだ。家族の都合を考えれば、テマのかかる年寄りには家から出て行ってもらいたいと思うのは人情。同居を開始したばかりに、家族によって施設入居を決められてしまうことになる。
同居しているからこそ、出て行ってもらいたいということになれば、本末転倒ではないか。それなら最初から同居を選ばなければよかったのに、と言いたくなる。
だからこそ、「一緒に住まない?」という子どものからの申し出を、わたしは「悪魔のささやき」と呼んでいる。
ここ数年、介護保険の在宅支援サービス利用者が徐々に増える傾向にある。その理由は、夫婦世帯と単身世帯が増えたせいだ。
こうした介護保険の利用動向をみても、在宅支援を受けたくない(つまり他人を家に入ってもらいたくない、従って年寄りの方に家から出て行ってもらいたい)のはかぞくのほう。
それさえなければ、高齢者は、他人に家に入って来てもらうことをためらわない。家族がいなければ、いや、もっとはっきり言おう、子どもさえいなければ、在宅でヘルパーさんに来てもらう敷居は高くない。
かつて、介護保険の改定ならぬ改悪で、「不適切事例」への行政の「指導」が強化され、家族が同居している場合には、「利用者本位」の名のもとに、介護保険の利用が難しくなった時があった。いまでは多少ましになっているかもしれないが。
当時は、たとえば同居家族がいるだけで、利用者“ペッパー離婚”させようかと本気で思ったくらいだ。
介護保険になれば、男も女もない。高齢でも元気でいるうちは、女の年寄りは家にいると使い出があり、男の年寄りよりはかさ高で持ち重りがする、と対照的。だから配偶者に先立たれても、母親には同居のオファーが来るが、父親には滅多に来ない。
だが、要介護になってしまえば、他人のお世話になるのは同じ。あとは口うるささと体重の違いだけだが、女親の方が子供には口うるさいだろう。
要介護になって、単身で、在宅で暮らせるか?
さらに単身で在宅で死ねるか?
できる、というのが、わたしの答えだ。
自分の暮らしの流儀をそのつど相手に合わせてきた女と違って、自分のスタイルを買えたくない男おひとりさまにとって、この問いは切実だろう。
次章から、その可能性を探求しよう。
つづく
第4章 ひとりで暮らせるか