上野千鶴子著
弱さの情報公開
下り坂を降りるスキル、といえば、まず、「弱さの情報公開」だ。
この言葉は、北海道浦河町にある精神障碍者のための生活共同体「べてるの家」の標語のひとつ。「安心してさぼれる職場作り」「病気を治さない医者」「あたりまえの苦労をとりもどす」など、数々の「べてる用語」を生んできた。
べてるの家をテーマに、横川和夫さすの『降りていく生き方』(太郎次郎社、2003年)という本もがあるくらい。この人たちは、「昇る」方じゃなくて、「降りる」方のプロだ。
精神障害者のひとたちは、自分で自分をコントロールできずに、パニックにおちいったり、カラダが固まってしまったりする。自分でトイレに行けなくなったり、ごはんを食べられなくなったら介助があるように、自分で自分をどうしようもなくなったら、やっぱり誰かの助けを求めたらよい。
その助け方のノウハウを大公開したのが、『べてるの家の「当事者研究」(医学書院、2005年)だ。
その「べてる用語」の白眉(はくび)ともいえるのが、「弱さの情報公開」。弱いことは、悪い事でも、恥ずかしい事でもない。過労になればカラダは壊れるし、追い詰められれたらコロコロが壊れる。何もあっても壊れない身体と心を持ち主なんて人間じゃない、サイボーグだ。そもそも、「患者になる」ということは、自分の弱さを引き受けて、だれかに「助けてくれ」SOSを発信するのと同じ。
医者の前に行ってまで、「いや、何ともありません、大丈夫です」なんて強がりを言うようでは、助けてもらえるものももらえない。
《老いるとは、弱者になること》
男性を見ていて、女性と違うなと思うところがある。
それは、自分の弱さを認められないということ。男が弱い、といっているのではない。女の方が男より強い、といっているわけでもない。女も男並みに強いし、男だって女同様、弱い。男も女も、人間は強くあるが、弱い生き物でもある。
歳をとるにつれて、人間は壊れものだという感覚が身に染みてきた。壊れものだから、取り扱いを乱暴にすると、壊れてしまう。無理をすれば。身体も壊れるし、心も壊れる。壊れものは壊れものらしく、大事に扱わなくては、と思うようになった。
男が女と違うのは、同じくらい弱いのに、自分の弱さを認められない、ということだった。弱さを認めることが出来ない弱さ、といおうか。これが男性の足を引っ張ることになるのは、老いるということが、弱者になることと同じだからだ。
わたしには、これは「男というビョーキ」に思える。男は小さいときから強くなくては、と思い込まされてきた。自分のなかにある弱さを押し殺し、他人に見せず、虚勢を張って生きてきた。
弱さが許せないから、弱虫や卑怯者を軽蔑してきた。病気になった同僚を、自己管理がなっていないからだと吐き捨て、学校へ行けなくなった息子を、そんなヤツはオレの息子じゃない、しっかりしろ、と??咤激励してきた。
障害者を差別し、高齢者は分相応に引っ込んでいろ、と思ってきた。認知症の高齢者には、こんなになってまで生きている値打ちがあるものか、生きる価値のないものは“処分”したらよい(実際、この通りの発言を80代の元気老人の口から直接聞いたことがある)と考えてきた。
ず―っと強いまま、現役のまま、中年気のまま、死を迎えられたらよいかもしれない。
だがそれが不可能なのが、人生100年時代である。死にたくてもそう簡単に死なせてもらえない超高齢化社会が来たことをわたしが歓迎するのは、だれもが人生の最後には人のお世話にならなければ生きられず、弱者になることを避けられないからだ。
男は女になる可能性ないから、平然と女性差別ができる。障碍者になる可能性も小さいと思っているから、障害者差別ができる。自分が認知症になる可能性が無いと思っていられるあいだだけ、認知症のお年寄りに生きている値打ちがない、と言い放つことができる。
だか、いずれ自分も老い、衰え、弱者になり、だれかの助けを求めならないとしたら?
弱者を差別したツケは、自分自身に返ってくるだろう。
老いだけは、だれでも平等に受け容れなければならい運命だ。それどころか、現在の年齢になるまで健康状態が良く、経済的にもゆとりある暮らしをしてきた人なら、きっと長生きする可能性が高いことだろう。
つづく
定年後にソフトランディングする