大人になることの難しささ=青年期の問題= 河合隼雄 著
子どもが大人になるということは、現代社会においては、なかなか大変なことである。
そして、その大変な中間期間として、青年期というものが存在している。
家出をした高校生は、実は親類に立ち寄ったために、両親からの通報で家出のことを知っていた親類の人に足止めされ、両親がそこ取るものも取りあえず会いに行ったのだった。ところが、息子は一部屋に閉じこもって両親に会うともしない。
話を最初に述べた例に戻すことにしよう。前節にはやや一般的な考え方を述べたが、このことは、実のところ、家出をした息子さんを理解してもらうために、私がこの御両親ら説明したことなのである。
先にあげた例によって、息子の家出という一種の「つまずき」が、当人にとってのみならず、両親にとっても、成長の契機となったことが理解されたと思う。確かに、つまずきは飛躍へのステップなのだ、といいたいくらいに感じられることが多い。
大人になる前の色々なつまずきについて述べ、それは大人になるための必然的なことであるとさえ強調した。一体それはどうしてなのか、そのことを少し異なる角度から論じてみたい。
未開社会においては、イニシエーションの儀式は必要欠くべからずるものであった。
後にも述べるように、このイニシエーションの儀式を無くしたことが近代社会の特徴なのであるが、そのことの意味についてわれわれはあまりにも無知であったので、既に述べたような青年期の問題を抱え込むことになった、ということもできる。
近代社会の特徴
エリアーデは先に紹介した彼の著書『生と再生』の冒頭に、「近代世界の特色の一つは、深い意義を持つイニシエーション儀式が消滅し去ったことだ」と述べている。いったいこれはどうしてなのか。
イニシエーションの儀式において、「死と再生」の過程が生じることが必要であると述べた。しかし、「進歩」を必要と考える現代においては、手練者の死と再生のみならず、親の方の死と再生の体験が必要となって来るのである。つまり、親も一度大人になったからといって、いつまでも安閑としてはいられない、
彼自身も時に、ドラスティックな変化を体験しなくてはならないのである。
人間にとって、こころとからだの問題は、永遠の謎といってよいほどのものであろう。
心と体を我々は一応、区別して考える。しかし、それが相当に関連し合っていることを、われわれは経験的に知っている。
大人になるときに、大きな問題となってくることがセックスというコントロールの難しい現象にある。精神分析の創始者であるフロイトが人間の性欲ということを重視したのは周知のことである。
現在では性の解放がすすみ、性的に相当自由になっていることも事実であるが、その逆の現象も結構多くなっている。われわれ臨床家は、青年男子のインポテンツによる相談が増えてきたと感じている。結婚しても性的関係がもてぬために、われわれの所に相談に来られるのである。
思春期になってくると、身体が急激に成長してくる。それに伴って第二次性徴があらわれ、思春期には身体的にはまったく大人になる。このように急変化を遂げてくる身体を「己のもの」として受け容れることは、あんがい、難しい事なのである。
からだというものは不思議なものである。わたしのものであって、私のものでないところがある。
たとえば、手術によって私の腕が切り落とされたとき、それは私の一部としてではなく処理されてしまうのだろう。
現代の青年の心の亀裂は相当に深いものがあると述べたが、そのことに関連することとして、心身症が増加してきている事実を上げることが出来るだろう。
子どもは子どもなりに人間関係を持っている。大人は大人としての人間関係をつくりあげてゆかねばならない。そしてまた、子どもは大人へと成長してゆくとき、その成長を促進したり、妨害したりするような人間関係の在り方が存在することも事実である。
対人関係の問題を考えてゆく上において、日本人の対人関係の在り方の特徴を知っておくことがまず大切である。この点を抜きにして、一般的に、あるいは西洋人をモデルとして、個人や家や社会の関連を考えても、それは実状とかけ離れたものとなるであろ
日本人としての問題を論じたので、これとの関連において、家や社会と個人との関係について考えてみることにしよう。
子どもは大人になるときに、家や社会の事を必ず考えねばならない。ともかく社会の成員としての役割を果たさなければ大人と言えないのだから、これは当然のことである。
今まで述べてきた中で、子どもが大人なるときの援助者となる大人の役割については、いろいろと明らかになってきた。とくに、実例をあげた話の中での、援助者の動きによって、重要な点はよく感じ取っていただいたことと思う。ここではそれらをまとめて簡単に述べることにしたい。
可能性を信頼するとか、本人のたましいのはたらきによって自ら癒されるとかいえば、いいことずくめに聞こえるが、この過程に大きな危険性が伴うことを指摘しておかねばならない。
今まで述べてきたことによって、大人になるとはどういうことか、なぜそれが現在において難しいのか、ということ大体のアウトライン
が解ったと思う。本章は全体のまとめとして、もう一度、大人とは何かを問いつつ、現在に大人として生きることの意味を考えてみたい。
大人になることは、それぞれ男性としての大人、女性としての大人となるわけである。男に生まれるとか、女に生まれるからかは人間の宿命であり、人間は自分の性を受け容れて大人になれねばならない。しかしながら、男である、女であるということはどういうことかについて、現在では混乱と疑問が渦巻いていることを指摘しておかねばならない。
創造性ということが、最近では特に高く評価されるようである。せっかく、この世に生まれてきたのだから、何か新しいことを創り出したい。大人になるといことも、何かそのような新しい何ものかを、人間の世界にもたらそうとすることだと言えるかも知れない。
創造的な人生を生きることは、いいかえると、自分の個性を見出してゆくことであろう。個性を見出すことは、言うは易く行うは難しいことである。
特に、我が国のように常に周囲に対して配慮を払わねばならぬところでは、自分の個性を見失いがちになる。大人になることを、既成のシステムのなかへの適合と考えすぎると、失敗してしまうわけである。