大人になるときに、大きな問題となってくることがセックスというコントロールの難しい現象にある。精神分析の創始者であるフロイトが人間の性欲ということを重視したのは周知のことである。トップ画像

V こころとからだ

本表紙  

ピンクバラV こころとからだ

 人間にとって、こころとからだの問題は、永遠の謎といってよいほどのものであろう。
心と体を我々は一応、区別して考える。しかし、それが相当に関連し合っていることを、われわれは経験的に知っている。

 体の調子が悪かったり、病気になったりすると、気が弱くなったり、物事を理論的に考えられなくなったりする。あるいは、心がふさいでくると、身体の動きがにぶくなったり、食欲が落ちてきたりすることもある。

 このように心と身体は関連し合っているが、後にも述べるような心身症などという病気になってくると、その関連の在り方は簡単に把握できない。

 大人になるときに、大きな問題となってくることがセックスというコントロールの難しい現象にある。精神分析の創始者であるフロイトが人間の性欲ということを重視したのは周知のことである。

 このことについて、ユングがフロイトは人間の基本的な欲求として、食欲や睡眠欲などがあるのに、どうして性欲を重要視したのかを考えて、それは食欲や睡眠欲がより身体的なことに結びついているのに対して、性欲は身体的であり、なおかつ、心理的なものである点に、その重要性にあるからと推論したという。

 こころとからだをつなぐものとして、セックスということは深い意味をもっている。あるいは、ユングがセックスは天国から地獄に至るまで存在している、といっているのも示唆深いことである。それは至高の善にも、限りない悪にもつながっているのである。

 子どもは大人になるとき、自分のからだということを、はっきり我がこととして引き受けてゆかねばならない。自分では勝手にコントロールできない、自分の身体の持つさまざまの働きを、わがこととして引き受けていくことによって、子どもは大人に成長してゆくのである。

この章においては、いわゆる身体的な発育についてではなく、人間が自分の身体を自分の事として、どのように生きてゆくのか、という観点から、身体の問題について考えてみることにしよう。

1 異性との交わり
 大人になることの条件のひとつとして、異性の伴侶を見出すということがある。この事が大人になるために「絶対に」必要なこととは、筆者は考えないが、やはり、一般的に言って、結婚をして家庭をつくり、子どもを養うことが、大人になるための条件のひとつと考えていいだろう。

 このためには、子どもは異性と接することを学んでゆかねばならないが、心だけでなくからだの接触ということが生じてくるので、なかなか困難を増してくる。

しかも、性に関する倫理観は、現代になってから急激に変化してゆく様相を見せているので、大人の方が性に関する自分自身の考えにどの程度信頼をおいていいのか解らなくなっているような点もあるために、この点についての指導の困難さが増大するのである。

ここでも、ひとつの例をあげてみることにしよう。

「不純異性交遊」

青年期になれば、二十歳を越えると法律的にも成人と考えられるので、その人がどのような異性関係を持とうとも、別に罪と考えられないが、未成年の非行のひとつとして、「不純異性交遊」と名付けられているものがある。
 
 これも考えてみると奇妙な命名だと思われるが、未成年者の異性関係が常軌を逸している場合に、非行のひとつと考えられるのである。

 この問題は、このシリーズにおいては、本書よりも、むしろ思春期の問題を論じる『思春期の課題』の方で詳しく論じられていると思うが、ここでは問題の本質を考える素材として、ひとつの例を取り上げることにした。

 ある女子高校生は、家庭の経済状況は中流の上くらい、両親は健在でよそ目には何の不自由なく、中学生のときに級でも上位の生徒で、むしろ優秀な生徒とみられていたが、高校生になってから異性との交遊関係が急に乱れ始め、不特定多数の相手と性関係を持つようになった。そこで、担任教師が呼び出して指導しようとすると、自分のしていることのどこが悪いのかと逆に抗議してくるのである。

 自分は自分の意志で楽しんでいることであり、相手もそれを喜んでいる、そして、そのために誰も苦心でいる人がいるわけではない。どうしてそれが悪いことであるのか、というのである。

 この生徒は知的にも高いので、言うことがなかなか鋭く、担任も少したじたじとしていると、ますます追い打ちをかけて来て、自分の行為がどうして 「不純異性交遊」なのか、不純といわれる理由を説明してほしいという。

 愛し合っているものが性関係をもつのは当然であり、自分はそれを行っているので、何ら不純なことではない。むしろ、不純なのは大人であって、「愛し合ってもいないのに、夫婦だからといって性関係をもつのこそ不純ではありませんか」

と彼女の舌鋒は火を吹かんばかりであ。これには、担任教師も簡単には答えられず、絶句してしまった。
 
  彼女のいっていることは確かに一理はあることだ。それに彼女が最後にいったことなど、現代の日本の多くの夫婦に対する批判として、むしろ当を得たものと言ってよいかもしれない。

 さて、このような手強い女子高校生が筆者のところに連れてこられた。いろいろと彼女のいうところに耳を傾けた後で、私は彼女に、「あなたのしていることは、悪いことだから止めなさい。それがなぜ悪いかなどというのではなく、理屈抜きで悪いからダメです」と厳しく言った。有難いことに、彼女は私のまったく無茶な指示に従ってくれた。

 あれほど鋭く論理的に乱戦を挑んできた彼女が、私のまったく非論理的な指示にあっさりとしたがってくれたのである。

 当然のことだが、ここに述べたのはうまくいった一例についてであり、これが不純異性交遊に対するおきまりの「よい指導」などというのではない。こんなことを言ってみても一笑に付されることもあるだろう。

 そもそも、このような言葉が私の口にのぼってきたというところに、この高校生のもつ自己治療の力の表われがあったと言うべきだろう。指導者が「うまくゆく」ときは、指導される側に「とき」が熟していることが必須の条件なのである。

 それはともかくとして、この例をもとにして、異性交遊のことについて、もう少し考えてみることにしよう。

身体接触

人間がこの世に生まれて育ってくるとき、きず、新生児から乳幼児に至る間に、母子一体感とでも言うべき感情を十分に体験することが極めて大切である。

 このときの母子一体感は必ずしも、実の母との間とはかぎらず、適当な母親代理の存在であれば、誰とでもいいのであるが、そのような一体感を基礎として、人間は育ってくるものである。

 このような母性的なものによって包まれている感情は、文字通り肌の触れ合う体験を通じて得られるものであり、理屈抜きの感情として存在している。

その後、乳児期から幼児期へと発達してくるにつれて、母親との身体接触は少なくなるが、家全体として持っている、子どもを包み込み外界から守る雰囲気は、子どもの発育を支えているものである。
これは子どもの発育に必要な基本的安全感と呼ぶべきものである。

 思春期から青年期にかけて、人間が急激に成長してゆくときに、この基本的安全感が乳児期とは異なるレベルで必要となってくる。このときに、それに必要なものを家庭内に得られない者は、どうしてもそれを他に求め、しかも、そのレベルが心理的に低下して「身体接触」を求める欲求が強まるとともに、一方では身体的には大人になってきているため、相手を選ばずに性的関係を持ってしまうことになる。

 そのような行動の中で、彼らは一時的な快感や安心感などを体験するとともに、深い孤独感や非哀感も味わっているのである。多くの場合、彼らが大人に対して自分の行為を弁護するために、極端な攻撃的になるときは、後者の感情を悟られないように防御しようとしているのである。

 筆者が先に述べたように、ある女子高校生に「あなたのしていることは理屈抜きで悪い」などといって、彼女を納得させたのも、結局は、私の理屈抜きの感情を彼女が評価してくれたからであろう。

 彼女にしても自分の行為に対してどこか納得できないものがあることは、既に感じて取っているのだ。それが良くないことだなどと、くどくど言われることが余計に腹が立ってきて反撥したくなるのだろう。

 彼女が本当に求めているものは、親と子との間の身体接触に等しいほど、理屈を超えて自分に向けられてくる感情だったのであろう。それに対する私の無茶苦茶な言葉はかえって彼女の心に響くものがあったと思われる。
 つづく 性への恐れ 

 煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。