4 死と再生
イニシエーションの儀式において、「死と再生」の過程が生じることが必要であると述べた。しかし、「進歩」を必要と考える現代においては、手練者の死と再生のみならず、親の方の死と再生の体験が必要となって来るのである。つまり、親も一度大人になったからといって、いつまでも安閑としてはいられない、
彼自身も時に、ドラスティックな変化を体験しなくてはならないのである。
親殺し
子どもが大人になるためには、子どもが母親から分離されることが、まず必要であった。
未開社会においては、イニシエーションの儀式を通じて、それが集団的に行われたが、現代においては、個々の人間がそれを行わねばならない。このことは抽象的には、子どもによる親殺しという形で表現される。もちろん、ここで「抽象的に」わざわざ断っているように、親殺しなどということを、実際に行うことが必要だということではない。
ある父親は先祖から伝統のある菓子製造の仕事に尽くしてきた。彼にとって、息子がその名誉ある仕事を継いでくれることは、むしろ自明のことであった。また実際に、息子の方も小さいときから父親の仕事に興味をもち、父親が菓子つくりの難しさ語ったりすると、興味深く耳を傾けたりしていた。
ところが、息子が大学を受験するときになって、急に自分は法学部に入学して官僚になる、と言い出したので驚いてしまった。
そんな馬鹿なことがあるかと父親は怒ったが、息子の言い分にも筋が通っているところがあった。
というよりも、息子の言い分を聞いて、父親はものがいえなくなった。息子に言わせると、父親は口を開くと税金が高いとか、政治が悪いとか、いつもいっている、
そんなに文句を言いながら菓子作りをしているよりも、日本の政治や役所の在り方を変えてゆくように努力する方が本当ではないか、ということである。
父親は「先祖代々の仕事」などと偉そうに言っていながら、結局は税金だとか、役人の統制とか愚痴ばかりこぼしている。それは本当に自分の仕事に誇りを持っていないからだと思う。
父親は息子に完全に言い負けてしまった形になり、不本意ながら、息子の法学部受験に賛成しなくてならなかった。
これなどは、典型的な「父親殺し」であるということができる。父親が自分の敷いた路線を上を息子が走ってゆくものと決め込んでいたとき、息子は自分自身の固有の道をもっており、それは父親と異なることを宣言したのみならず、父親の生き方そのものを真っ向から批判したのである。
危険性
ここで示したような「父親殺し」は、現代の我が国において、あちこちで生じているといっていいだろう。子どもにとって、象徴的な親殺しは、成長のために必要なことである。しかし、それが、いかになされるか、ということによって極めて重要な差が生じてくるのである。
たとえば、先にあげたような例においては、息子が法学部に入学する。ところが、彼は勉強を始めてみると、法学の勉強は思いの外に難しく、面白くもない。父親の方は父親のほうで、息子が跡を継いでくれないので寂しくてたまらないが、それも言い出すことができず、面当てのような気持もあって、長女の婿に店の後を継がせると宣言してしまう。
息子の方は、ますます勉強に身が入らず留年を重ねていくうちに、下宿に閉じこもってしまって、何もしなくなってしまった。このように話が展開してゆくことも珍しくないのである。いったい、これはどうしてなのだろうか。
「親殺し」にしろ、それを親の立場から受けとめた「子殺し」にしろ、いかに抽象的になされるとはいえ。そこに相当な危険を伴うことは当然である。すべていいことには危険性が伴う。一人の子どもが大人になるということは、なかなか大変なことである。
特に、その子が既成の路線の上に乗っかって、大人になる(これが、本当に大人かどうかは問題だが)ときは、あまり危険も生じないだろう。しかし、子どもが個人として、個性をそなえた大人になろうとするかぎり、そこに何らかの「殺し」が必要となってくる。
ここで、極めて大切なことは、それが意味あるものとなるためには、その死が再生へとつながらねばならないという事実である。
先の例をとって、再生への道を説明してみよう。父親は息子の批判を聞いて怒り、勝手にしろ。ち叫ぶかも知れぬし、息子も息子で、誰がこんな菓子作りなどやるものか、と怒鳴り返すかもしれない。なまの感情をぶつけ合うことが出来るのは、家族関係の特徴かもしれない。しかし、その後で、父親が「息子も思いの外にしっかりしたことを言うようになったな』思ったり、「子どもたちに気を許してしまったな」反省すしたりするなら、それは再生への道が開けかかっていることを意味している。
息子の方息子で、法学部に行ったものの、「おやじは近ごろ寂しそうな顔をしてるな」と感じるかも知れない。お互いに殺し合いを演じつつ、なおかつお互いの関係を切らずにいること、あるいは相手の気持ちを察して関係を新たにしようと努力すること、それを「愛」と言っていいかもしれない。
しかし、死は時に突然に訪れるにしろ、再生への道は長いことが多い。それは相当な長さと紆余曲折を必要とするものである。その長くて苦しい、他ならぬ殺し合いを演じた当人たちが共に歩もうとするところに、家族の愛が共存しているのである。
「親殺し」や「子殺し」が象徴的に再現されていないとき、そのエネルギーが爆発し、大変な事件が生じてくる。それは時に実際の殺人事件にまで至ることもあるのは、周知の事実である。
われわれは、子どもたちが「大人になる」過程において、大きい危険性が常に存在していることを、よく認識していなければならない。
「親殺し」、「子殺し」といっても、それが象徴的に行われるという意味において、それはいつも実の親子の間で行われるとは限らない。それは教師と生徒、上司と部下、先輩と後輩などの間で行われても良いのである。
したがって、教師にしろ、上司にしろ、若者を真剣に指導しようとするかぎり、そこには「殺し」の危険が存在することを知るべきである。安易な姿勢ではそれは成し遂げられないばかりか、時に回復の極めて困難な傷をお互いに与え合うだけになってしまう。教師や指導者は、自らが若者に殺されることによって、その真の指導者がなされることを知るべきである。
と言って、安易に死んでやってもつまらない事であり、時には若者に死を与えることも必要なのだから、その対決はあくまで真剣になされねばならない。
自立と孤立
子どもが大人になってゆくためには、親離れ、子離れが必要だ。ということは、現在では多くの人が知っている。しかし、そこにはいつも大きい誤解の可能性が含まれている。そこでは「離れる」ことに重点がおかれすぎて、その次に生じるべき両者の関係についての配慮が欠けていることが多い。
例えば。先にあげた菓子作りの親と子の例において、子どもが法学部で熱心に勉強して、卒業後もどんどん出世し、偉くなったものの、父親との関係が薄くなってゆくばかり、という場合に、われわれその息子を「自立した」人間であると言えるだろうか。
父親の所に会いに来ることはが皆無となり、「偉くなった」自分が、菓子作りという職人の子どもであることを恥ずかしく思い、そして、父親が死んで後に葬式だけ参列するような人間を、われわれは「自立」した人というわけにはいかないのである。
筆者自身も若いとまには、自立について誤解をしていたことを思い知らされたことがあった。二十年も以前の事だが、スイスに留学したとき、あちらの人たちの親子間の交流が多いのに驚かされたのである。最初にうち、自立ということを浅く考えていたので、ヨーロッパの人たちは日本人よりはるかに自立しているために、親子間のつき合いなどは、日本よりはるかに少ないだろう。と予測していたのに、事実は全くその逆であった。
親子が離れて生活していても、しょっちゅう電話で話し合ったり、何か珍しいものが手に入ると送り合いをしたりしているのである。予想が外れて最初は驚いたが、すぐにわかったことは、彼らは自立しているからこそ、よく付き合っているのだ、ということであった。
この線に沿っていうと、日本人は自立していないからこそ、関係を持つことを恐れて孤立している人が多いのではないか、ということになる。自立と孤孤独はまったく似て非なるものである。
親から本当に自立した子どもは、自立した人間として親と付き合えるはずである。親から離れて自分だけが勝手に生きている子どもは、むしろ、そのようなことが許されると考えている点において、親に対する抜き難い甘えをもっているといわねばならない。
ただわれわれとしては、後に述べるように、西洋のモデルを絶対的に善しとしているわけでもないので、西洋との単純な比較から、日本は駄目だという気はないが「自立」を望ましいことと考えるならば、それが真にどのような意味をもっているのか、それは孤立と混同されていないか、などについて深く考えることが必要と思われる。
我が国の子どもたちは、孤立を自立と錯覚することが多いのである。
つづく
V こころとからだ