広告1人間のすることで、持続し続けるものを挙げることは難しい。苦しみは必ず終わる時が来るが、喜びもやがてはかき消える。だから、人は希望を持っても単純に喜ばないことだ。
夫婦になれたことを単純に喜ぶのではなく、夫婦は苦難を背負うことだと意識し、ふたりはもともと違う種の人種であり、夫婦の有り様が親子関係に近い親密性が深まった場合、いずれ崩壊する場合が少くなくない。夫婦とは愛情とセックスという動体表現により結ばれたのであり、その動体表現は少しづつ変容していくが特にセックスそのものに飽きがこないよう
新たな工夫を創造することで刺激と興奮の連鎖によって別物のに近いと感じられるようなオーガズムが得られるのが望ましい。

河合隼雄
3 現代のイニシエーション
近代社会の特徴
エリアーデは先に紹介した彼の著書『生と再生』の冒頭に、「近代世界の特色の一つは、深い意義を持つイニシエーション儀式が消滅し去ったことだ」と述べている。いったいこれはどうしてなのか。
それは近代人の世界観がかつてのそれと根本的に異なるものとなったためである。既に少し触れたように、イニシエーション儀式が成立するためには、その社会が完全な伝承社会であることを必要としている。
古代社会においては、極言すれば、すべてのことは原初のとき(かのとき)に起こったのであり、この社会(世界)は既に出来上がったものとして存在し、後から生まれてきたものは、その世界へと「入れてもらう」ことが最も大切なことなのである。
したがって、子どもたちが大人になるためには、その世界へと入る儀式としての、イニシエーション儀式が決定的な意味をもつものである。つまり、そこは「進歩」という概念が存在せず、この世はできあがって世界、閉ざされた世界としてあり、子どもは大人になるときにそこに入れてもらうことになるのである。
出来あがった世界

図1古代社会の構造
それに対して、近代社会の在り方図2に図式的に示した。近代人の特徴は社会の進歩ととう概念を持ち、自分自身をその歴史的な進歩の流れのなかに位置付け用とする点にあるということが出来る。

図2 近代社会の構造
極めて図式的に表現すると、子どもがaがAという社会の大人として、そこに入れてもらったとしても、社会が進歩して、社会Bへと変わってゆくと、a自身も変化してゆかない限り、彼は子どもと同じょうに、社会Bから取り残されてしまうことになる。あるいは子どもcは、大人になって社会Cへと入ってゆくにしろ、既に彼は社会Bの大人たちと同じくらいのレベルに達している。
古代社会においては、一回のイニシエーションによって、子どもがはっきりと大人になり、それで安心していられるわけであるが、社会の進歩ということを考え始めた近代人にとっては、そのようなイニシエーション儀式というものが、既に示したように、意味を持たなくなったのである。
子どもaがAという社会の大人となったとしても、社会Aが進歩して社会Bへと変化してわくとき、彼がそのままでいると、大人として、認められない存在となってくる。
ここには極めて図式的に示したが、社会の進歩とはこのように単純に図示できるものではないので、ある個人が子どもと大人の境界において、どちらともつかぬ状態になることが、近代社会において多くなるのも当然の事なのである。
それでは、近代以後に生きる我々にとって、大人になるということを、どのように考え、どのようにすればいいのだろうか。
個人としての儀式
近代社会になって、制度としてのイニシエーション儀式は消滅してしまった。しかしながら、個人の生き方をよく注意して観察してみると、現代人においても個々人にとって、大人になるためのイニシエーション儀式とでもいうべきことが、個人として生じていることが分かってきたのである。
たとえば、既に挙げた対人恐怖症の大学生の例について考えてみよう。彼が大学の担任教師に退学を賛成され、自殺しようと決意し、その後にやはり頑張ってみようと思い直す過程は、彼にとって個人としてのイニシエーション儀式の体験をしたとはいえないだろうか。
それは未開社会において手練者が体験する「実在条件の根本的変革」とまではいえないにしても、ある種の「死と再生」の体験をしたということが出来る。このことは、彼個人にとってのイニシエーション儀式であったのである。
社会の進歩という考え、人間の個性ということを大切にするかぎり、われわれは集団として制度的にイニシエーション儀礼をおこなうことはできない。もっとも、現代においても、一応「成人式」は存在しているが、そこに生じる本質において、既に述べてきたようなイニシエーション儀式とは異なったものになっていることを、認めねばならない。したがって、個人としてのイニシエーションは、個々人に対して思いがけない形で生じてくることになる。
ただ、その本人もその周囲の人も、せっかく生じたイニシエーションの儀式を、それに気づかずに、馬鹿げたこととか、不運なこととか考えてやり過ごしてしまうことが多いのである。
最初にあげた家出した高校生の例にしても、あの「家出」はイニシエーション儀式の始まりではなかろうかとか。そこで両親が筆者に相談に来られ、その「意味」を把握されたので、その後の経過はイニシエーションに相応しいものになっていったということが出来る。
ここでもしそのような意味の把握と親子のその後の努力がなかったならば、模範生の高校生が家出によって隋落していった、ということにもなりかねないのである。現代のイニシエーションには、常に相当な危険性が付きまとっているのである。
現代のイニシエーションの特徴のひとつとして、それは一回で終わらないことが多いことを知っていなくてはならない。現代においても、一回の経験が「実在条件の根本的変革」に値するものであることも可能である――そのときには文字どおり、大人になってゆくと考えるほうが妥当であろう。たとえば、最初にあげた高校生の例にしも、彼があの一回の家出の体験によって、「大人」になり得たとはいえないであろう。以後に恐らく類似の体験を重ねることによって、大人となっていったと思われる。
このように繰り返しが必要であることは、子どもたちを指導したり援助したりする人が特によく心得ておくべきことである。さもなければ、イニシエーションということを生半可に知っているために、指導者が、子ども接する時に、「一丁上が」式の変化を期待しすぎて失敗してしまうからである。
現代は未開社会に比べて、あらゆる点で複雑になっており、われわれ人間の意識もそれほど単純でない。われわれはそれ相応にその複雑さを楽しんでいるわけであるが、それだけに、子どもが大人になるということも、簡単に成就しないのである。
それにしても、未開社会において行われるあれだけ手の込んだ儀式をまったく放棄したのだから、現代のイニシエーションに、相当な繰り返しがあるのも当然と言えるだろう。
権威の意味
イニシエーションの儀礼において、権威者の存在が不可欠である。手練者が死と再生の体験をするときに、彼に対して死を与え、再生を助ける役割を演じるのは権威者である。もう少し厳密にいえば、イニシエーションに立ち合う長老たちは、原初の神の仲介者、あるいはそれの代理者として、絶対的な権威者として、そこに存在するのである。つまり、彼らの権威者の背後には、原初の神という絶対者が存在している。
現代のイニシエーションにおいても、権威者の存在が必要である。しかし、それがいかなる形で存在するのか、ということに関しては、相当深く考えてみる必要があるようである。というのは、現代では「原初の神」の存在をそれほど簡単に信じるわけにはゆかないので、権威の問題がなかなか難しくなっているからである。
現代、特に日本においては「権威」というのはあまり評判のよくない言葉である。権威を持つべきはずの人が、自分は権威など一切ないとか、誰とも同等であるなどと広言し、それによって人気を得られると期待している。
ところで、本章の最初にあげた大学生の例の場合、大学の先生が権威者として、勉強をする気のないものは学校に来ない方がいいとはっきりと宣言したことは、――危険をはらむにしろ――結果的には良い効果をもたらしたことを提起してみよう。
この大学生に対して、いわゆる「理解のある」教師ばかりが接していたら、彼が大人になるためのイニシエーションの儀式を体験することは、あいまいな形でのびのびにされてしまったことであろう。
ここで、教師や親が子どもに対して、甘い方がいいのか、厳しい方がいいのか、というよくある二者択一的な議論の結論として、筆者が後者の方を支持しているなどと考えないようにしていただきたい。
真の権威は甘い方がいいとか厳しい方がいいとか、そのような単純な二者択一的な嗜好を超えて存在しているものである。どちらの方が子どもの役に立つとか立たないとかいうのではなく、あるべきことをあるべきこととして指し示すだけのことである。
権威ということは最近では評判の悪い言葉あるといった。しかし、筆者が心理学療法家として、教師として多くの若者に接してきた経験から言えば、若者は真の権威にたいしては反抗しないと言い切れるように思う。
かれらは真の権威と偽の権威との差を極めて敏感であり、後者に対しては相当な抵抗を示すといってもいいだろう。
真の権威と偽の権威の差は、その権威の発してくる根源が、どこまでその人の存在とかかわっているかによって区別できるのであろう。地位や名声や金力などに、その権威がよりかかっているとときは、それは偽ものである。環境の変化によって取り去られる可能性もあるもの、それらをすべて取り去ったとしても残る権威、それが本物である。
つづく
4 死と再生