子どもが大人になる時、そこには様々なつまずきが存在している。いわゆる反社会的行動、非社会的行動として分類されるようなこと、それに病気もあるし、失敗とか事故などもある。トップ画像

つまずきの意味

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ピンクバラつまずきの意味

先にあげた例によって、息子の家出という一種の「つまずき」が、当人にとってのみならず、両親にとっても、成長の契機となったことが理解されたと思う。確かに、つまずきは飛躍へのステップなのだ、といいたいくらいに感じられることが多い。

 このようにいっても、それはむしろ少数で、つまずきはやはり損失だといいたい人もあろう。確かに、ここにあげた家出の例は、つまずきといえない軽い例で、私のような臨床家は、つまずきを克服するのに数年も必要とする例に接している。

 しかし、そのようなときでも、つまずきを取り巻く現象の全貌が見えてくると「つまずきの意味」も、明らかになってくることが多い。したがって、私としてはそれ相当の経験に支えられて、つまずきの意味と言うことを述べているつもりである。

 ところで、そのような意味について考える前に、いったいどのようなつまずきがあるのか、みてみることにしよう。

さまざまなつまずき
 子どもが大人になる時、そこには様々なつまずきが存在している。いわゆる反社会的行動、非社会的行動として分類されるようなこと、それに病気もあるし、失敗とか事故などもある。

 そして、それはどう考えても自分には非はなく、なぜそんなことになったのか、運命としかいいようのないときもある。これらについて詳細に語ることはできないが、一応の概要をしておこう。

 窃盗とか傷害、時には殺人まで及ぶような反社会的行為は、青年期の前半が多い。既成のものを一度は解して、新しいものを創り出そうとするために、青年の心の中に生じた強い破壊傾向が、内面化されずにそのまま外に出てしまうわけであるが、年齢が進むにつれてコントロールする力が強くなるので、青年期後期になると、そのような行動が減少してくるのも当然である。

 青年期後期になると、心理的には未成熟であっても法律的には成年に達しているので、この時期に生じる反社会的行為は、対処することが難しくなってくる。あるいは、その人の抱えている課題がなかなか大きいものだと言ってもよいだろう。

 反社会的行動に走るようなことのない人にとっては、つまずきは、非社会的なノイローゼなどの姿をとって生じてくることがある。次章にそのような例を挙げるが、青年期にはいろいろとノイローゼの症状に悩まされ

 これはごく一過性に生じてすぐ消え去るときと、相当長期にわたって続くときもある。青年期においては、ある程度一過性のノイローゼ的症状を経験するのが、むしろ普通暗いではないだろうか。そんなときに周囲がさわぎすぎて、かえって問題を大きくしてしまうときがあり、その判断は専門家でなければわからないときもある。

 女性に比して男性の方が反社会的行為をする率がはるかに高い。また一般的にいって、ノイローゼの重い症状は、女性の場合は青年期前期に多く、男性は青年期後期に多いことが指摘されている。

 ごく割切った言い方をすると、男性は大人になることを獲得するという形をとり、女性は大人になることを受け容れるという形をとるといえる。

 そのような受け容れは、女性の場合、身体的変化と共に青年期の前期に必要となるのに対して、男性はむしろ青年期の後期になってから、職業や配偶者を「獲得する」課題として、大人になることが体験される。

 それに伴なうつまずきが、女性の場合は青年期の前期、男性の場合は青年期の後期に生じやすいのである。もちろん、これはごく大まかな一般論として言えることである。

 次に、つまずきが身体的な病気として生じることもある。現在は医学の進歩によってほとんどなくなったが、かつては、青年の結核は極めて深刻な問題であった。このために多くの有為の青年が命を失ったのである。

しかし、その反面でき、この病によって深い内省体験をもち、それを大人になってゆくためにステップとして生かしていった人も多かったのである。

 病気は「「身体」のことと、割り切って考えられ勝ちだが、その人の生き方全体と 案外強い関係を持っているものであ。われわれは病気の意味ということについて、もっと考えてもいいのではなかろうか。

 大人になることへのつまずきとして、いろいろな失敗や事故など生じる。試験、就職、恋愛などにおける失敗は、それらの中の大きいものであろう。これらのことが、既に述べたノイローゼや病気などと関連して、どちらが原因とも結果とも言いかねる形で生じてくることもある。

 あるいは、それはまったくの「不運」としかいいようのないときもある。

問題提起

既に述べたように、子どもが大人になろうとするとき、いろいろなつまずきを経験する。しかし、家出の高校生の例に示したように、それはその背景に何らかの問題提起を持っているものである。

 単につまずきが生じてそれを解消したということだけではなく、もっと大きい課題をやり抜いているのである。しかも、その問題提起は本人に対してのみならず、周囲の大人に対しても向けられていることが多い。

 両親や教師に対してのみならず、それは社会一般に対して向けられているとさえ感じられる。極言すると、一人の青年が、家、社会、文化などの代表として問題提起を行っているとさえ考えられるのである。

 たとえば、これまで一人の家出した高校生について述べたことは、わが国の現在の問題として多くの家に通じることではないだろうか。深く考えれば考えるほど、われわれは他人事としてすましておられないのである。

 こんなあうに考えて人間の成長の過程を見ていると、つまずきの必然性、あるいは必要性などということさえ主張したくなる。人間の成長のつまずきはつきものだと考える人がある。それは内面的な過程であったり、子だしに継続的に続いたりして、他人の目には見えないだけのことである。

 私は職業上、多くの人の秘密を聞くことが多いので、ますますこのように思わされるのである。他人から見て何の苦労も泣く大人になっているように見える人でも、よく話を聞とそうでないことが多い。

 大人の中には自分の体験としては、この事を知っていながら、自分の子どもの事となると、つまずきをできる限り経験させないようにし過ぎて、子どもが大人に成長していくチャンスを奪ってしまう人もある。

 あるいは、子どものつまずきが親に対する重要な問題提起を意味しているのに、子どもを責め、教師を非難し、社会の在り方を嘆いたりして、せっかくの子どもの問いかけに答えない人もある。こうなると、子どもはそのつまずきから抜け出せないのも当然のことである。

 問題提起としてのつまずきは、したがって、「悪い子」や「悪い親」の所に生じるとは限らないことをよく知っていてほしい。よい親とよい子がそろっても、それをよりよくするためには、新たな問題提起が必要となってくる。

 子どものつまずきに対して、いったい誰が悪いのかを考えるのではなく、それは何を意味しているのかを考えるほうが、はるかに建設的であるのである。

意味を探る

ある大学生が登校もせず下宿に引きこもって、外に出なくなってしまった。このようなことが起こると、大人はすぐに「原因は何か」と考えたがる。そのときにどうしても問題を早く片付けたいという焦りがあるだけに、原因は――結果の鎖を見出すのに短兵急になり勝ちであり、「子ども意志が弱すぎる」ことが原因として??責する。

あるいは、「大学の教官が学生に冷淡すぎる」ことが原因と考え、教官を非難する。ところが、一方、大学の教官のほうは「親の過保護が原因」と考え、親を攻撃するかもしれない。

 原因捜しはしばしば「悪者捜し」しなり、それも大人たちはとかく自分以外の者を悪者に仕立てようとするので、互いに攻撃し合ったり、一緒になって子どもを責め立てたりするが、問題はなかなか解決しないのである。

 そこで、この学生が登校もせずに下宿に引きこもっている「意味は何か」という問いを発すると(その答えはそれほど簡単には出てこないのであろうが)、焦って悪者探しをする態度からは皆が解放され、その事実が早く片付けねばならぬ嫌なこと、という見方ではなく、そこから何かプラスのことを引き出せる可能性のあること、という見方に変わるであろう。

 このように考えるほうが、はるかに建設的となってくる。原因――結果の連鎖を探り出そうとする態度は、やもすると目を過去にのみに向けさせ、そこに存在する悪を見つけて攻撃したり、後悔の念を強めたりするだけで、そこから前進する力を弱めることが多い。

 意味を探ろうとする態度は。むしろ未来へと目を向け、そこからどのように立ち上がって行くかと言う建設的な考えに結びつけやすいのである。

 このようにいっても、人間は因果関係によってのみ事象を見ることがあまりにも好きであることとのために、なかなかこのような思考パターンから逃れられないのである。

 これに対して、意味を探る態度で事象を見ていると、知らぬ間に、自分が局外者でなくなっていることに気付かされるのであろう。「意味」というものは周囲にある多くのものを関係づける作用をもっている。

 因果の場合は直線的に――そしてそれはしばしば実状とは異なるものなのだが――何かと何かを結びつけるだけで終わってしまう。意味の場合は二つのものを直線で結びつけるだけではなく、多くのものが関連し合って、ひとつひとつ全体を形成しているのである。

 下宿に引きこもっている大学生に対して、その親は、親子関係の改変を迫る警鐘として、それを意味づけるかも知れないし、大学の教官はもっとひろく、日本の青年のアイディティの事にまで考え及ぶかも知れない。

それからの意味付け糸が絡み合って、そこから、すべての人々にとって生きることの意味が検索され、それを通して、その大学生も生きる方向を見出そうとすることになるだろう。

 ところで、青年期においても年齢が低くなるなるほど、個々に述べたような問題提起とか意味の探究などということは、本人には何ら意識されることなく、本人としてはつまずきの現象のなかでただ困り果てていることが多い。

 このような青年に「意味を見出せ」などといってもはじまらない。われわれ大人としては、彼をまず現実的に立ち直らせるように、慰めたり、援助したり、励ましたりしてやらねばならない。しかし、そのような実際的援助に終始していても、われわれ自身が意味を見出そうという姿勢をもっていると、青年たちは自分が単純に悪者扱いされたり、軽蔑されたりしていないこと、そこに何らかのプラスの意味が内在しているらしいことを感じとって、無用の悔恨に悩まされることなく、早く立ち直ることが出来るのである。
つづく U 大人になること 

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