両親がまず反省された点は、「よい子」とは何かということであった。大人が子どもを「よい子」というとき、親や教師の言いつけによく従う子というイメージが強く、それを極言すると、大人にとって「都合のよい子」ではあっても、自主性と責任感をもった大人としての成長してゆく上では、むしろマイナスの面をもつものではないだろうか。 トップ画像 赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

3 両親の反省

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3 両親の反省

話を最初に述べた例に戻すことにしよう。前節にはやや一般的な考え方を述べたが、このことは、実のところ、家出をした息子さんを理解してもらうために、私がこの御両親ら説明したことなのである。

 非常にもの解りのいい御両親だったので、こちらのいうことを理解され、いろいろと反省すべき点を自ら述べられた。(ちなみに、これはこのようにもともと話の解る人であると判断したので、私も説明を試みたのであり、もっと困難な場合では、われわれは解ってもらえる「時」が来るまで、随分と待たねばならぬことが多い)。

 次に、両親の反省と、その後の経過について少し述べてみよう。
よい子とは何か
 この両親がまず反省された点は、「よい子」とは何かということであった。大人が子どもを「よい子」というとき、親や教師の言いつけによく従う子というイメージが強く、それを極言すると、大人にとって「都合のよい子」ではあっても、自主性と責任感をもった大人としての成長してゆく上では、むしろマイナスの面をもつものではないだろうか。

 真のよい子は、自分自身の判断力を身につけなければならない。

 このようにいうことは簡単であるが、実際のことになるとなかなか難しいことが生じてくる。自分自身の判断力を身につけるためには、子友だちは、ある程度は、自分の判断によって行動し、その当否を自らの経験によって確かめることをしなくてはならない。人間は何といっても経験を通じてしか学べない面を持っているし、この例の高校生の場合だと、親に対して、従順なために「模範生」というレッテルを貼られ――「非行少年」のレッテルもつらいものだが、「模範生」のレッテルも案外困ることがある――それに応じているうちに、自主性が何とか表面に出てきた芽ではなかっただろうか。

 しかし、両親はその芽をあっさり摘んでしまった。「よい子」、「幸福」ということに近視眼的に縛られた両親は、少しでも危険なことは子どもにさせたくなかったのだ。

 抑えられていた自主性はとうとう爆発し、家出と言う形に顕れてきた。長年抑えられていたものが顕在化するときは、どうしても危険性の大きい形をとるものである。これは好ましいことではないが、反面からいえば、子どもがこれだけの力を出してきたことを、喜ぶべきだともいうことができる。「よい子」が真によい子になるためには、「よい子」殻をどこかで破らなければならない。
 
そのことに両親は気づき、反省されたのである。

悪の役割

子どもが自主性を獲得するためには、時には親の言いつけに反してでも行動にしてみることが必要だ。
これをやってみて、子どもは親のいっていることの正しさを身をもって知ったり、深い後悔の念にとらわれたりして、現実とぶつかりながら自主性を育ててゆくことが出来るのである。

 このような「練習」を適当に行っていないと、抑えられていた自主性が急に顕在化したとき、家出をして一人前になろうとするなどと、現実とかけ離れた形をとってしまうことになる。

 いうならば、子どもは真のよい子になるためには、適切な悪の体験を必要としているのである。だからといって、大人は子どもに「悪のすすめ」などする必要はない。われわれはやはり、悪は悪として禁止しつつ、子どもの自由を適切に保障していると、彼らは自分の力で、うまく善と悪の相対化という難しい課題を、「自然に」やり遂げるものである。

 しかしながら、ここに「自然に」と述べたが、最近では難しいことになってきているという自覚が必要である。昔は、と名が必死になって子どもの悪を禁止しようとしても、子どもの数が多いし、両親とも忙しいので、それほど子供を監視していることが出来ないため、子どもは適当な自由をもち、適切な悪の体験が自然に出来たのであった。今は一般に子どもの数が少なく、母親の家事労働も少なくなってきている。

 両親の子どもに対する期待度ははるかに高くなっている。これらのことのために、大人は子ども対する監視を知らず知らずのうちに強め、「自然」の良さを失っているのである。このために人工的なよい子とでもいいたいような子どもが、最近では増加してきたと考えられる。

 ここに述べてきたことで解って頂けたと思うが、大人は子どもに悪をすすめる必要など全くない。しかし、彼らに悪の可能性も含めた自由度を与えつつ、彼らを信頼することをしなくてはならない。そこには常に危険性が付きまとうので、これは親にとって難しく感じられるすも知れない。

しかし、人工的なよい子をつくってみても、結局はそのお返しとして、より強い危険性に見舞われることを知れば、子供たちの少々の「悪」と耐えられるのではなかろうか。

 子どもを「よい子」にしようとする親は、子どもの事を思って一生懸命のように見えて、自分が危険に会うのを恐れている利己心を内に隠していることが多い。

 この両親もこの点を反省して、子供のために思ってよい子にしたいと努力してきたつもりだったが、じつのところも自分の敷いた路線を子どもを走らせることによって、自分はいつも安心していられるという気持ちがあった、といわれたのが印象的であった。

 この両親は立派な方だったので、この点に気づく否や、息子の所にかけつけ、以上の点についての自分たちの反省を述べ、息子の自由を前よりももっと許し、自主性を尊重すると約束した。怒っていた息子も、これを聞くと喜んで、家に帰って来ることになった。

対 話

これですべてうまくゆくほど、物事は単純でない。この高校生は家出を断念して、今まで通りに高校生生活に戻ったものの、家出の態度が変化して、前ほど「よい子」でなくなってきた。

 それどころか、以前と比較すると、勉強はほとんどしなくなって、ゴロ寝ばかりしている状態で、両親にとっては耐え切れぬものとなってきた。しかし、両親は「自主性」を許すと約束した手前、簡単に叱るわけにいかず、これは困ってしまって、また私のところへ相談に来られることになった。

 これはよくあることである。今までは自分は子どもを束縛し過ぎて失敗した、だから、これからは放任主義で行こうと。こんなに考えても、うまくゆくものではない。子どもに対して、叱るのがいいのか悪いのか。管理するのか放任するのか。
 
 このような単純な二者択一的な議論は、およそ意味がないようである。それほど単純に「よい方法」が見つかるのなら、誰もがそれをしているだろう。教育学者や心理学者の専門家といわれる人でも、自分の子どももことになると困っているところを見ると、おそらく誰にでも通用する「よい方法」などないとと考えるほうがいいのだろう。

 子ども自主性を尊重するということは、親の自主性を尊重するということである。
 親は、子供の態度が悪いと判断するかぎり、やはりそれを子供に伝えねばならない。
 しかし、これは、今までのように、親が絶対に正しくて子どもはそれに絶対に従えというのではない。
 子どもの自由を奪いたくはないが、さりとて、いつまでも怠けているのは困るのである。
 こうなると、親も一方的に押し付けるのではなく、自分の人格をかけて子どもにぶち当たらねばならない。自分の今までの子育てに対する反省や、自由に対するジレンマを意識しつつも、やはり言うべきことは言わねばならないのである。

 再度の私との話し合いによって、このようなことに気がついた父親は、思い切って息子と対面し、自分の気持ちをぶつけてみた。そうすと、息子は案に相違して、むしろ嬉しそうに聞いてくれたのみならず、思いがけないことを言いだした。それは、父親は息子の自由を尊重するといいながら、その約束をして以来いらいらしていて、母親に対して大したことないのに??りつけたりすることが多くなっていた。

それは、父親が表面的に息子の自由を尊重しているようにしているだけで、本当の心の中で納得していないことを表している、というのである。それに父やも驚いてしまった。今まで子ども子どもと思っていた息子が、ちゃんと父親を観察しており、それを的確に表現して見せたのである。

 父親は少し腹が立ったが嬉しさもあった。ここまで息子が成長したのかと感じたからである。父親もそこで素直に意見を述べ、父母と息子の間で互いに思っていたことを話し合うことが出来た。

 この時になって、子どもは以前よりも自主的に行動し、両親もそれによって不安をかき立てられることは無くなったのである。

 家族の対話、大人と子どもの対話は、それが意味深いものであるかぎり、何らかの意味で対決の様相を帯びる。甘い話し合いばかりではどうにもならないのである。

 しかし、その対決は相手に勝つことを目標としているのではなく、互いの成長のためになされていること、および、その対決の姿勢は相手に対してだけではなく、自分の内面に対しても向けられていること、に特徴点をもっている。

 最後のとこは詳しく述べられなかったが、この対話によって、息子ならず、両親にとって成長がもたらされたのは事実である。
 つづく つまずきの意味