創造的な人生を生きることは、いいかえると、自分の個性を見出してゆくことであろう。個性を見出すことは、言うは易く行うは難しいことである。
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3 個性の発見

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ピンクバラ3 個性の発見

創造的な人生を生きることは、いいかえると、自分の個性を見出してゆくことであろう。個性を見出すことは、言うは易く行うは難しいことである。

特に、我が国のように常に周囲に対して配慮を払わねばならぬところでは、自分の個性を見失いがちになる。大人になることを、既成のシステムのなかへの適合と考えすぎると、失敗してしまうわけである。

好きなこと

好きなこと
 ある高校生がスポーツ用具の窃盗でつかまって、そのために両親を連れられてカウンセラーのところへ来た。窃盗は初めてのことであるし、反省の色も濃いので大した事件にもならず、すぐに許してもらったのであるが、両親としては心配だったのでカウンセラーのところに来談したのであった。

特に、そのスポーツ用品が比較的大きいもので、窃盗といってもすぐ店の人に見つかるものであり、みすみす捕らえられるためにやったのかと思われるようなところもあり、気が変になったのではないかと両親は心配されたのである。

 話し合いをしてすぐにわかったことは、両親ともに音楽家であり、親戚にも音楽関係の職業についている人が多いということであった。本人もある楽器を演奏し、相当に上手であった。しかし、彼の他のきょうだいに比べると、彼は見劣りがして、プロとして立つのにはやや不足という感じであった。

彼の盗んだものがスポーツ用品であったので、それにヒントを得て聞いてみると、彼はそのスポーツが好きなのだが、音楽に比べるとスポーツなど非文化的であり、それをやりたいとは両親になかなか言えなかったというのである。

ひとつの家族はそれなりに「家族文化」とでも言うべきものを持っており、それに従って、その家族なりの価値観を持っていることである。この家でいえば、音楽ということが絶対的価値観をもち、スポーツなどは価値の無いものと、なんとなく決められてしまっていたのである。これとは逆に、スポーツが高い評価を受けている「家族文化」の家もあるだろう。

ところが、この高校生はこのような家に生まれたのだが、それほどの高い音楽的素質を持っていなかったのである。ただ、彼の心の奥底では、それに対して「否」というものであり、家では低い評価を得ているスポーツ用品を盗み取ることによって、家の文化の在り方に対して批判ののろしをあげたわけである。

彼はその後は両親と話し合って音楽を止めた。趣味として好きなスポーツをしたが、別にそのプロになったわけではない。しかし、自分の進むべき学部を見つけ、その道へと進んで行ったわけである。ともかく、好きなスポーツをすることによって、無理に音楽をすることによって抑えつけられていた彼の心の働きが活性化され、より自分に適切な方向を見いだせたものと考えられる。

外からの情報や押し付けるによって、人解の持つうちからの情報が抑えられていると述べたが、何かを「好き」と感じるとは、内からの情報の最たるものである。ともかく、好きなことはできるかぎりやるべきである。

それがすぐに自分の道につながることは無いにしても、先の例が示すように、そこから個性への道が拓かれてくることが多い。

 筆者はカウンセラーとして青年期の人に会ったとき、何か好きなことはありませんか、と尋ねることが多い。それはどのようなことであれ、その人の好きなことの中には、内界からの情報が含まれているからである。

誰でも好きなことの話には熱中する。その話をこちらも一生懸命に聞いていると、そのことを通じて人間関係が深まるし、どのような可能性が存在しているかが解ってくるのである。

将棋が好きだなどという人があると、実際に将棋を指すこともある。気の弱い人が将棋においては、だんだんと攻撃性を発揮してきて、こちらも負けずにやり返しているうちに、その人が場面においても強さを発揮するようになって、問題を解決されたりする。カウンセリングといっても、いつも話し合いばかりしている必要はないのである。
 
 ところが、好きなことは何と聞くと、「単車で無茶苦茶に走り回ること」とか、「パチンコ」とか、なかには「けんか」などと答える青年がある。そんなときでも、なぜそれが好きか、何処が好きなのかを真剣に聞く。すぐ降参してしまうようである。

 ところで、単車の暴走が好きだなんて言う青年には、こちらもこまるのである。あまりも無茶をしてもらったら困るという気持ちと、その青年にとってはそれしか楽しみがないのが解る気持ちと、その両者の間に自分の身を置いて、こちらが分解してしまうか、そのような過程から相手が何か建設的な方向を生み出すかに賭けてゆくのが、われわれカウンセラーの役割なのである。

対極のなかで

暴走族は駄目だということ。暴走族にならざるを得なかった若者の気持ちが解ること。そのどちらか一方に加担することは容易である。

 確かに、暴走族はけしからぬことは事実であるし、また一方から言えば、単車で走り回るより仕方がない若者たちの状況もよく解るというものである。そのとき、その中に身をおいていることは大変である。

 青年は私に若者の気持ちが解るなどというのなら、われわれと一緒に走って見ませんかと圧力をかけてくる。青年の母親は、「先生に息子の非行を加担するのですか」と責め立ててくるだろう。

 その両者に誠実に会い、両者に責め立てられつつ、なお頑張り抜いていると、解決は思いがけない方法で訪れてくる。

 そして、そこそこ、その青年の個性とか、カウンセラーの個性とか、あるいは、その母親の個性とがうまく顕現してくるのである。

 個性などいうものは、考え込んでいて見つけだせるものではない。自分の人格の分解しそうなギリギリのところに身をおいてこそ、自ら浮かび上がってくるものなである。

 暴走族など「悪」であることが明らかであるのに、なぜそんなことをするのか。それは現在の青年たちが数限りのない対極性のなかで、それをいかに生きるかに苦闘しており、それによってこそ個性的な大人になりうること、そして、暴走の一件はそれらの多くの対極性の代表として目の前に出て来ているものであることを知っているからである。

 今まで述べてきたことを、この際思い出していただくなら、実利と依存、日本と西洋、男性と女性、孤独と連帯、などなど多くの対極性に目を向けて来たことに気づかれるであろう。そのときに、どちらか一方を善といえることは可能であり、そのときは単純明快な人生観や理論に頼って「大人になる」ことは可能であり、そのような大人も沢山いることは事実である。

 現在の青年たちが大人になることに難しさを感じるのは、そのような単層的な人生観や、イデオロギーに絶対的に頼るようなことができなくなっているからであ。

 古来から絶対視されてきたものが、絶対でないことを彼らは余りにも多く知りすぎたのである。このような限りない相対化のなかで、青年が「しらけ」を感じずに生きてゆくためには、対極性のなかに身を投げ出して、そこに生きることを学ばなければならないし、われわれ大人がまずそれをやり抜いて行かねばならないのである。

 人生の中に存在する多くの対極に対して、安易に善悪の判断を下すことなく、そのなかに敢えて身を置き、その結果に責任を負うことを決意するとき、その人は大人になっているといっていいだろう。それらの対極はハンマーで鉄床のようにわれわれを鍛え、その苦しみのなかから個性というものを叩き出してくれるのである。
  完 1983年7月  河合 隼雄  =著= 発行所 岩波書店
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