2 創造する人
創造性ということが、最近では特に高く評価されるようである。せっかく、この世に生まれてきたのだから、何か新しいことを創り出したい。大人になるといことも、何かそのような新しい何ものかを、人間の世界にもたらそうとすることだと言えるかも知れない。
しかし、「創造する」といっても究明や発見をしたりとか、偉大な芸術作品をつくり出すことのみをいっているわけではない。現代人にとってモデルは無いといったが、モデルの無いところで、自分なりのいきかたをさぐることは、すなわち、創造ではないだろうか。つまり、われわれの人生そのものが、ひとつの創造過程である、というわけである。
イマジネーション
創造するためにはイマジネーションが必要である。あれかこれかと心に想い描くことによって、われわれは新しくできあがってくるものの可能性を探ることができる。しかし、それは単なる願望充足の空想であっては駄目である。
創造につながるイマジネーションと、すぐ消え去ってしまう空想の差は、そこに費やされる心的エネルギー量の差によって示される。前者の場合は、相当な心的エネルギーを必要とするのである。
もっとも、この両者は判然とは区別し難く、後者のはかない空想が前者の方へと創造的に高められてゆくときもある。
青年期は特にイマジネーションに満ちている時期である。しかも、モデルが無い時代なのだから、自分のイマジネーションをはたらかすには、まったくあつらえ向きの時代といえる。
しかし、実際には、青年のイマジネーションは、むしろ貧困であると言うべきではなかろうか。
イマジネーションの枯渇が多くの青年を「しらけ」に追いやっている。これはいったいどうしてだろう。
青年のイマジネーションを枯渇させる、ひとつの原因として物質的な豊かさあげられるのではなかろうか。親が子どもに与える玩具をみると、それがよく解るのだろう。現在の玩具は極めて精巧に、高価にできている。親は子どもに対する愛情の深さを、与える玩具の値段によって計られるような錯覚に陥っているので、どうしても高価なものを与えてしまう。
精巧な玩具になるほどよくできているが、子どものイマジネーションのはいる余地がなくなっている。ラジコンはラジコンにしか使用できない。
しかし、物のない時代においては、棒切れでいろいろなものに変えることが出来た。刀になれば魔法の杖にもなる、それは子どものイマジネーションと共に、姿を変えることができた。また、子どもたちは少ない玩具で楽しく遊ぶための創意工夫を必要としたのである。
親の与える高価な玩具の多さは、一種の公害のようなものである。子どもの頃の内部に自然に存在しているイマジネーションの宝庫をそれは汚染してゆくのである。
玩具だけでなく、外部から与えられる情報量の多さも、イマジネーションのはたらきを鈍くさせるのに役立っているように思う。それに、子どもたちは何と多くのおきまりの知識を覚えねばならないことか。
子どもたちは外から与えられ、外から詰め込められるものが多すぎて、彼の内からり情報としてのイマジネーションをキャッチする力を失ってしまうのである。
このことを、物質的に豊かな時代に生きる親たちは、よく心得ていなければならない。
大人のなかの子ども
イマジネーションは創造の源泉であるが、それは子どもっぽいこととして価値をおかない人である。
しかしその「子どもぽいこと」こそが創造の源泉となるのである。ここで、大人と子どもを対比してもう一度考え直してみると、子どもの不安定さに対して、大人の安定性をあまりにも強調するとき、その安定は停滞にもつながると言えるだろう。
つまり、毎日毎日決まりきったことを繰り返すだけになってしまって、それを大人と考えるならば、それは全くつまらないことになってしまう。大人をそのように捉える人は、「大人になりたくない」と考えることもあろう。
確かに、大人と子どもをそのように単純に分類してしまえば、大人になりたくない子どもが負っても当然である。
しかしながら、今まで述べてきたように、創造過程を歩むものとしての大人を考えるときは、事態はそれほど単純ではない。このことは、真の大人というものは、そのなかに子どもっぽさを残している人だ、というふうにはいえないだろうか。ここにいう子どもとは、世の中の事をすべて決まりきったことと考えずに、あらゆることに疑問をもち、イマジネーションを働かせる存在だということである。
コップを見ても、それはコップだということで済ませてしまわないで、そのコップはひょっとして話をするのではないかとか、もしコップが空を飛んだらとか、考えてみることのできる大人こそ、本当の大人ではなかろうか。
自分の心の中に住んでいる子どもを、殺さずに生かしておくのである。
このようにいっても、大人の心の中の子どもの活かし方は、なかなか難しいのではなかろうか。内界の子どもの力が強すぎて、何を見てもイマジネーションばかりはたらかせていたのでは、大人としての義務を遂行できないであろう。
といっても、子どもの力を弱めてしまうと、すべてのことがきまりきったことになって、創造性がなくなってしまう。
青年期は子どもと大人の境界にあって、早く大人になりたいという気持ちと、いつまでも子どもで居たいという気持ちのジレンマに苦しんでいる時期である。そのときに、大人になることは、子ども性をまったく放棄することではなく、むしろ、子どもをうまく大人の中に残してゆくことが、真の大人になる道であることを教えてやると、随分と気が楽になるのではなかろうか。
そして、この事は何時までも子どものままでいることと、同じでないのは当然のことである。
創造的退行という言葉がある。退行というのは、人間のこころの状態が子どもの頃に変えるような状態になり、まったくの無為になったり、馬鹿げた空想をしたりするようなことをいう。
退行がひどいときは、幼児的な心性までが出て来て、病的な様相を示すことになる。したがって、退行ということは、最初は病的な状態とばかり考えられ、いろいろな精神障害の説明のために用いられたりしていた。
ところが、極めて創造的な人々の様子をよく観察すると、創造活動が活発になるとき、退行現象が生じることが解ってきたのである。もちろん、それまでには意識的な検索活動が大いに行われるのであるが、それに疲れたころにこのような退行が生じ、そのときに普通では思いつけなかったような新たな発見の萌芽が生じるのである。
それを確実に有用な創造にするためには、再び意識的な活動が必要となって来るのだが、何しろ、もっとも根本的な着想は退行時に生じているのだから、そのような現象を称して創造的退行と言うようになったのである。
創造的退行の現象は、今までのいい方によると、大人が自分の内なる子どもと接触を図り、子どもとの対話の中にヒントをつかみ、それを再び大人の知恵によって現実化してゆくことといえそうである。
このように、大人の中の子どもは実に貴重な存在であるにもかかわらず、現在の教育においては、子どもたちを早く大人にしようと焦り過ぎていないかを反省すべきである。
子どもからイマジネーションや遊びを取り上げ、大人の知識をできるだけ早く、たくさん、子どもに押し付けようとしてはいないだろうか。そのことによって、かえってわれわれは、本当の大人をつくるのに失敗しているのである。
つづく
3 個性の発見