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2 不可解な子どもに

本表紙

ピンクバラ2 不可解な子どもに

この家出をした高校生は、実は親類に立ち寄ったために、両親からの通報で家出のことを知っていた親類の人に足止めされ、両親がそこ取るものも取りあえず会いに行ったのだった。ところが、息子は一部屋に閉じこもって両親に会うともしない。

 模範生と思っていた子が両親に対して、「この部屋に一歩でも入って来るな!」と怒鳴るのを聞き、両親はなすすべもなく私のところに相談に来られたのであった。

 そのときの辛さを思い出して、母親が「今までは手を伸ばせば、手の届くところにいると思っていた子どもが、いくら手を伸ばしても届かない、別の世界に行ってしまったように感じる」といわれたのが、印象的であった。

 今までは同じ性に暮らしていると思っていたのに、息子は別の世界に行ってしまった。親子の間に断裂が生じたのである。

 しかし、それは本当に「断絶」だろうか。親子の絆というものは。予想外に強いものであって、それはなかなか簡単に切れぬものである。本人たちは「断絶」したと思っていても、それは思いがけない形で、ねじれたり、まとわりついたりしているものなのである。

 われわれは単純に「親子の断絶」とか、「世代間の断絶」などという前に、その点についてもう少し精密に考えてみる必要があると思われる。

 こんな話を、中学生の息子持つ母親から聞いたことがある。息子は珍しく一緒に映画を観に行こうと喜んで行くことになった。二人で楽しく話し合いながら歩いていたのに、途中から息子が急にものをいわなくなり、映画館では離れた座席に座って、別々に見ようという。

息子の希望通りしたものの、なぜ息子が急に不機嫌になったのが分からない、何か変なことでもあったのかと気が気でなく、映画も落ち着いて見られなかった。帰宅後は息子の機嫌があんがい良さそうなので、夜になってからなぜあんなに態度が変わったのかを聞いてみた。

 すると息子は、映画館への途中で、苦手な同級生たちと出会い、彼らも映画を観に来るところであることが分かった。「中学生のくせに、まだ母親とひっついている」と、後でからかわれると思ったので、急に母親から離れたのだという。

 このようなことは、中学生くらいにはよくあることだ。母親と一緒に行動するのが嬉しいような気持を持ちながら、一方では、母親なんかまったく意に介さないことを周囲の人に見せつけたい気もある。彼らはそれをどう表現していいのか、戸惑ってしまう時もあるし、ここに示した例のように極端に態度を変化して、母親を驚かせるときがある。

 この例でいえば、母親が息子に後で事情を尋ねてみたのはいいことである。もちろん、それを尋ねるタイミングも少しは大切であるが、このようにして確かめることによって、息子の気持ちが理解できるし、すこしの事から、自分は子どもに嫌われていると決め込んだり、子どもの気持ちが解らないと悲観してしまって、それ以降の親子関係をますます難しいものにしてしまうのを防ぐことが出来るからである。

 その点はともかくして、しばらくの間にしろ自分の子どもの行為を「不可解」とこの母親が感じたことは事実であろう。家出少年の母親はそれをもっと強く感じたであろう。

 それが、近ごろ急増している家庭内暴力の例などあれば、母親にとって子どもの行動は不可解の一語につきるであろう。われわれの臨床家は、このような母親から、「うちの子は気狂いではないでしょうか」という質問を受けることが、しばしばある。母親にとって、息子はどこか「よその世界」に住んでいるように感じられるわけである。

 後にも詳しく述べるように、子どもたちは成長するために母親から離れて行かねばならない。そのためには、彼らは何らかの意味で、一時的には母親と異なる世界に住まねばならないのである。

そのとき、主観的な体験としては、親子の絆が切れたとか、親子の断絶とか感じるかも知れない。しかし、その後に両者が少し努力を続け、自分自身をよく見てみるならば、一時的な切断は絆の質をかえるためのものであったことこが解るであろう。

この点は、家出した高校生の例によって、後に少し具体的に語ることになるが、親子の絆は切断と修復の繰り返しによって、前よりも深いものへと変ってゆくものである。

われわれが絆の強さの方にとらわれ過ぎると、それは相手の自由をしばるものになり勝ちである。深い絆は相手の自由を許しつつ、なお絆の存在に対する信頼をもつことができる。

しかし、われわれは絆を深いものにするためには、切断の悲しみを経験し、それを越える努力を払わねばならぬようである。

着れた絆を修復するというのは簡単であるが、それを行うことは実に難しいことがある。修復しようにも、すでに述べたように息子が「手の届かない世界」、「よその世界」に行ってしまっていて、何とも仕方ないと感じられることも多いのではなかろうか。

どうして、このように急激に不可解な現象が子どもに生じてくるのだろうか。

親の世界・子どもの世界

人間はそれぞれの世界観というものをもっている。「世界観」というと大げさに聞こえるが、われわれがこの世の事をどのように見るか、ということがすなわち世界観といってよい。初めにあげた両親の例でいえば、この人たちにとって、子どもというものは両親の意志に素直に従うのがよい子であるし、そのようなよい子に対しては幸福な将来が約束される。

 そして、その幸福とは家業を継いで安定した家庭生活を送る、と言うことであろう。しかし、考えてみるとこれもある一つの「世界観」であり、子どもについて、幸福について、もっと異なる「観点」も存在するのではなかろうか。

 われわれは自分のものの見方を何となく当然と思っているが、それは思いのほかに人によって異なるのではなかろうか。

 子どもも世界観を持っている。しかし、それは成長するとともに大幅に変化してゆくものである。大人というものは、それなりに比較的安定した世界観を持っている存在いといことができようが、子どもは大人になってゆくときに「自分なりの」世界観を形成してゆくために苦労するわけである。

 子どもは最初の内は、大なり小なり自分を取り巻く大人――主として両親――の世界観をある程度受け入れて大きくなってくるが、子どもから大人へとなってゆく青年期にそれが大いに揺れるのである。

 今まで安定していたものが揺すぶられ、破壊されて新しいものができ上がってくる。このときに、既成のものの否定的な面が拡大して意識されやすいのである。

 子どもが大人になろうとするときは、したがって、今まで自分を守り育ててくれていた両親の否定的な面が急に見えてくる。それは映画のクローズ・アップのように拡大されてくるのである。それよりむしろ、子どもは
現実の親の姿を見ているのではなく、自分の心の中の親のイメージを見ていると言った方がいいのであろう。

 現実の父親・母親と言うことを超えて、父なるもの、母なるもの、とでも呼びたいような超個人的なイメージが、人間の心の中には存在しているようである。われわれ大人でも大自然の懐のなかに抱かれているように感じるときもあるし、雷に打たれたように己の非について自覚することもある。そのようなときに、われわれの心の中ではたらいているのは、個人的な母や父を超えた、もっと偉大であったり峻烈であったりする存在のイメージではなかろうか。
 
 このような心の中のイメージは、われわれの現実の体験と呼応して起こり、その体験に色々な増幅現象をもたらす、ともいうことができる。たとえば、気が弱くなっている時だと、少しの親切をしてくれる女性が慈母の如く感じられたり、少しの??責を受けただけで、相手の人間を悪魔のように感じてしまったりする。

 青年期は世界観の著しい変動を経験するときであり、このため内なるイメージの影響を強烈に受ける時期である。ここで特に注目すべきことは、母なるもののイメージである。これは単純に割り切ると肯定的、否定的、の二つに分けることができる。肯定的な方は、あくまでも子供を受け容れ、養い育てる慈母観音のような姿であり、否定的な方は、子どもを捉まえて離さない力が強すぎて、子どもを拘束し、極端なときは、子どもを呑みこんでしまう山姥のようなイメージである。

 既に述べたように、子どもに自立の傾向が高まるときは、両親の悪い面が拡大されやすいし、それに、ここでも述べた内的なイメージが作用してくると、両親の像は現実とは相当に異なったものとして、子どもに見えてくるものである。

 たとえば、母親にすれば「親切」雨が降りそうだから傘を持って行けばよいと言っただけであるのに対して、子ども側からすれば、自分の行動を支配し、監視する「うるさいやつ」と感じられるものである。

 そこで、内的なイメージが強く作用すると、母親が自分を飲み込んでしまう魔女のようにさえ見えてくる。家庭内暴力の事例などで、普通のことをしているのに、子どもが暴力を振ったと、母親から報告されることがよくあるが、それは上記のような考えによると納得されるのである。

 今まで述べてきた家出高校生の例でいえば、両親や一般の大人から見れば、理解ある教育熱心な親を持つ恵まれた家庭ということになるが、子どもから見れば、それは彼の自由を拘束する牢獄のように思えたのである。

 だからこそ、彼はそこから脱出としようしたのだ。親の世界と、子ども見る世界の差について、われわれ大人は良くよく知っている必要がある。さもなければ、大人は子どもを不可解として突き放してしまうか、時には気狂いなどというレッテルを貼りたくもなって来るのである。
 つづく 3 両親の反省