X 大人と子ども
今まで述べてきたことによって、大人になるとはどういうことか、なぜそれが現在において難しいのか、ということ大体のアウトラインが解ったと思う。
本章は全体のまとめとして、もう一度、大人とは何かを問いつつ、現在に大人として生きることの意味を考えてみたい。
1 大人とは何か
未開社会においては、大人と子どもが判然と区別されており、そこにはイニシエーションという制度化された儀式があり、それによって子どもは大人になることができた。
既に述べたように、近代社会になって、われわれは人間の個性や自由を尊重し、社会の進歩を目指すようになって、必然的にイニシエーション儀礼を廃止してしまうことになった。
そこで、大人になることは、個々の人の仕事としてまかされることになり、それだけにそこに困難が生じることになったのである。
したがって、子どもは大人の境界は曖昧となり、そもそも大人ということを明確に定義することさえ難しい状態になってきた。この点についてこの筆者の考えは、既に述べきたが、ここではそれらをまとめる形でもう一度考えてみることにしよう。
さまざまな次元で
大人になるということは、生理的、社会的、心理的な次元において、それぞれ考えることができる。生理的には身体が成熟し、生殖機能を営めるようになったとき、大人になったと言えるわけである。
あるいは、法律的に自分の行為に対して責任を負えるという観点から、法的には二十歳で大人になると決められている。この観点からすれば、生理的、法律的には立派に「大人になる」ことが出来た人が、社会的・心理的な面から見ると大人にならないままでいることが多く、このギャップのために現代人の苦しいみが存在すると考えられる。
社会的な意味での大人といっても、たとえ、職業をもち自分で自分の生計を営んでいるとしても、それは社会的に大人と言えるかどうかという点では問題があるかも知れない。つまり、われわれの社会を維持し発展させしめてゆく上において、どれだけ貢献しているか、という点から見れば、まだまだ不十分ということになることもあろう。
その点、社会が複雑になると共に、大人として社会に負う義務がかえって不明確になって来て、別に何ら社会の事など考えなくとも、一応は社会人として通用できるのが近代人の特徴であるといえる。
むしろ、未開社会の方が個々人のその社会に対して果たすべき義務は明確なものであるといえる。
このような社会に対する怠慢さが許容されることと、一方ではコンピューターの導入などによる管理体制の
発達のため、われわれは一方ではかつてない自由を得ているようでありながら、他方では、ほとんど自由を持っていないという状況に追い込まれつつあるともいえる。
このような点で、社会的次元における大人になることの意義をもっと考え直す必要があると思われる。
心理的次元の事については、今まで詳しく述べてきた。それによっても心理的な自立ということが極めて難しいことが明らかになったであろう。ただここで、自立ということを依存ということのまったくの対立概念として捉えないことが大切である。
自立は孤立ではないという言い方をしてきたが、そのような観点からすると、適切な依存ができる人こそ自立している。という逆説的ないい方さえできるのである。青年期には直線的に自立を求めようとしても、いわば依存による自立の裏打ちとでも言うべきことを忘れることが多いので、その点によく注意しなければならない。
大人になるためには何らかのことを断念しなくてはならぬ時がある。単純なあきらめは個人の成長を阻むものとなるだけだが、人間という存在は、自分の限界を知る必要があるときがある。
これは真に残念なことだが致し方ない。単純なあきらめと、大人になるための断念との差は、後者の場合、深い自己肯定感によって支えられている。ということであろう。
自分としては、ここが限界だからここまで断念しようとか、二つのことは両立させ難いのでこちらを取ろうとか、どうしても成就し難い恋を断念するとか、もちろんそのときは苦しみや悲しみに包まれるだけの時もあろう。しかし、それによって大人になってゆく人は、そこに深い自己肯定感が生じてくることを感じるのであろう。
この点については、青年を援助、指導する人が良く知っていなければならないのである。人間は全てのことが出来るはずがなく、何かができない、個々が限界だと解るときがある。
そのときに、そのことのみによって人を評価するのではなく、勉強ができないとか、どうも人とうまく話せないとか、いろいろの欠点があろうとも、そんなことは人間本来がもつ尊厳性にかかわりのないことを、指導する立場にある人が、はっきりと腹の底に据えて知っていることが大切である。
そのような人との人間関係を通じて、青年は自分の無能力を認識しつつも、自己嫌悪に陥ることなく、立派な大人になってゆけるのである。
日本人と西洋人との比較につい述べてきたが、日本人の標準では大人であっても、西洋の標準は大人になっていないこともある(この逆もいえることだが)、などと考えてみるのも興味深い。
これからは国際化がますます激しくなるので、このような観点から、大人になることを考えてみる必要は、ますます強くなるであろう。ただし、既に述べたように、このような点まで話を拡大してくると、モデル無しの状態となり、大人になることの問題は極めて難しい問題になって来るのである。
したがって、それは極めて遣り甲斐のある仕事だということもできるのであるが。
世界観
大人であるということは、その人が自分自身の拠り所とする世界観をもっている、ということである。
一人前の人間として、自分なりの見方によって、世界を観ることができる。あるいは、自分という存在を、この世の中にうまく入れ込んでいる、あるいは位置づけているといってよい。
もう少し深く考えると、自分という存在は、いったいどこからきて、何処へ行くのか、という問題にも突き当たってくる。家庭内暴力の子どもが、両親に向かって、「どうして俺を生んだのか」と怒鳴りつけるとき、それは無茶苦茶なことをいっているようだが、いったい人間はどこからきて、何処へ行くのかという根源的な問いを、両親に向けて発しているとも考えられるのである。
衣食住に関して十分に与えさえすれば、それで親の役割は終わったと思っているのか、自分が生きてゆくのに必要な世界観の形成という点において、親は今まで何をしてくれたのか、と子どもたちは鋭く問いかけているのである。
仏教的世界観や儒教的世界観、あるいは民族的信仰などに基づく世界観を、ひとつの社会に属する人がすべて共有しているとき、この点についてはあまり問題はなかった。
これらの世界観は、人びとと世界の関係について述べてくれるものであった。しかし、近代になって自然科学が盛んになるにつれて、自然科学的な知識は、これらの宗教的世界観が与えてくれる考えに一致しないところが多く、人々の心はだんだん宗教的世界観から離れていった。
しかし、実のところ、自然科学は強力なものであるが、人間が何処から来てどこへ行くのか、私は何故この世に存在しているのか、などという根源的な問いには答えてくれないのである。
自然科学が宗教的世界観を破壊する一方で、何らかのイデオロギーを支えとする世界観が成立してきた。イデオロギーに基づく世界観は理論的によく整っていて、説得力のあり、多くの若者の心を惹きつけてきた。
しかし、1970年頃から、世界の情勢に照らしてみて、イデオロギーに基づくユートピア建設がどれほどまやかしのものであるかが、だんだんと一般に解ってきたように思われる。イデオロギーに頼るときには、理論的にすっきりと何が善で何が悪かを判定できるので、若者たちの間に魅力があったのは当然である。
しかし、それは理論的な見事さを、現実に無視することによって得ているようなところもあった。この点に現代の青年たちは気づき始めたのである。
大人になることの難しい現代の特性は、この点にあると思われる。何らかの宗教やイデオロギーが画一的な世界観を与えているときは、その線に沿って、大人になることが出来るし、どうすることが大人であるかも比較的に明確にいえるだろう。
しかし、それも駄目、これも駄目となると、青年は一体何に頼ればいいのか、まさにしらけざるを得ないのであろう。このような点で、現代の青年は大人になることを実に難しいという事実を、われわれ大人はよく了解していなければならない。
ひとつのイデオロギーを絶対化することが難しいとすれば、どうすればいいのか。その答えは間接的であるが、日本と西洋の問題を論じた際に述べておいた。
現代では、ひとつのイデオロギーに頼って単層的な世界観をもつのではなく、もっと重層的でダイナミックな世界観をもたねばならない。まさに「観」というにふさわしい、全体を見渡したヴィジョンを持たねばならないのである。それはひとつの基準に照らして、何が善であり何が悪であるかを判定するのではなく、一見悪と見えるものさえ包み込んで、全体的な世界を構築するような「観」を見出してゆかねばならないのである。
このような大変なことであるので、筆者のとしては、むしろ、世界観を明確に持つことによって大人になるというよりは、既成のモデルに頼らずに、自分なりの世界観を築こうと決定し、その過程を進み続けつつあることによって、大人になると考えるべきだと思うのである。
つづく
男性と女性