対決
可能性を信頼するとか、本人のたましいのはたらきによって自ら癒されるとかいえば、いいことずくめに聞こえるが、この過程に大きな危険性が伴うことを指摘しておかねばならない。
たとえば、登校拒否症の青年を、ずっと期待を持って見守っていると、だんだん元気になってくればいいが、「家出したい」などと言い出すときがある。家出という行為の背後に自立の意志が存在していることは感じ取れるにしても、実際に家出をしてしまうと、そこに危険なことが生じる率もと随分高いのである。
それでは、家出を止めさせるかと言うと、簡単にそれをとめてしまったのでは、せっかくの自立の意志を摘み取ってしまうことになる。援助者としては、いったどうしたらいいのか切羽詰まってしまう。このようなギリギリのところに追い込まれ、援助者が苦悩するからこそ、相手の成長を助けられるので、自ら苦しまずに愛の役に立とうとするのは虫が良すぎるのである。「見守る」ことはたいへんなことなのである。
ある大学生が勉強はもちろん、何もする気がしないという訴えをもって、カウンセラーの所に相談に来た。
たびたびやってきて話をしているうちに、彼の父親がどれほど冷たい人であるかという不満を述べるようになった。大学生の息子である彼とはほとんど話をしない、何していても無関心で、お金をやっておけばいいだろうと思っていると言うのである。
カウンセラーも彼の気持ちが良く解り、大変なことと思っているうちに、あるとき、彼がカウンセラーに対して、何とか自分の家まできて父親に対して説得してほしいと要求した。それに対して、カウンセラーは、それは出来ないと拒否した。
彼はそこで腹を立て、カウンセラーなどといっても冷たいものだ、解ったようなことを言いながら、いざというと何もしてくれない、と強く非難した。これに対して、カウンセラーは断固として反対し、彼は立腹したまま退室した。
しかし、その後で彼は父親に向かって、その冷たい態度を正面から批判し、これに対して父親は驚きい怒りながら、とうとうお互いが本音で話し合うことになり、両者の関係が好転するきっかけとなった。
このような「対決」が必要なときが、ときどきある。ここでカウンセラーのとった態度は、絶対に正しいとはいえない。時には、カウンセラーといっても父親に会いに行った方がいいときもある。しかし、相手に対しては真剣に対応している者のみが、その場で感じとれる「これだ」という答えが存在する。
この場合のカウンターは、自分の内心からの呼びかけに従って、断固として父親に会うことを拒否したのである。そして、この大学生がカウンセラーに対して浴びせたかけた非難は、いみじくもそのまま父親に対して通用するものであり、彼はここでの対決をステップとして、父親と対決することができたのである。
粉場合における一番馬鹿げた答えは、「君の気持ちはよく解る。しかし…・」と何かもっともらしい理由をつけて断ることである。この答えでは、正しすぎて相手は黙って引き下がるより仕方ないのである。
援助者の方が「よい子」になってしまうと、相手は何もできない。「断固反対」というように、カウンターがそこに自分の存在を賭けてこそ、相手は何らかの反応ができるのである。第V章の例において「あなたのしていることは理屈抜きで悪い」筆者がいったのも。まったく同様のことである。
家庭内暴力を振るう息子に対して、どうしたらよいのか悩んでいた父親があった。家庭内暴力の息子を立ち直らせた父親であるというので体験談を聞くと、その人は遂に裸になって息子と取っ組み合いをやり、それを契機となって息子が良くなっていったという。
そこで、自分もやってみようと思い、裸になって息子にかかってこいといったものの、息子さんにさんざんやられて死にそうになって逃げだしてしまい、かえって息子にますます馬鹿にされて困ったという。これは同じようなことをやりながらも、一方は切羽詰まってところから自然に生み出されたものであり、他方は他人に聞いた方法に寄りかかろうとした点で、まったく異なっている。前者は真の意味で対決になっているが、後者は対決の姿勢をまったく欠いていのである。
対決というのは、自分と相手との間のみならず、自分の心の中で厳しく行われていないと本物ではないのである。子どもたちは、本物と偽物とを直観的に的確に判断する能力を持っている。
裏切り
他人を援助しようとしている人で、いわゆる裏切りを体験しない人は、まず無いのであろう。もっとも典型的な例としては、次のようなものがある。高校生で窃盗や家出を繰り返す生徒があった。家庭も不幸であり、彼に同情した担任教師が彼を自らの下宿で一緒に住まわせることにした。すると、彼の素行は見違えるようによくなってきた。
他の教師からよくやったとほめられて担任教師も鼻高々でいたところ、その生徒が担任教師の月給を盗んで家出してしまったのである。このような例に接してどう思われるだろうか。だから非行少年には気が許せない、と思われるだろうか。
このようなことは、実はよくおこることである。この場合にもいろいろなことを考えられる。まず考えられることは、担任の先生がいい気になっていなかったかということである。
自分が下宿させて指導しているのでよくなったと自慢の種にされていることが感じられたとき、この生徒はどう思うだろうか。先生は自分に対す愛でなく、ただ自分を利用するためにやっていただけではないのか。それなら、自分はしっぺ返しをしてやろう、と思っても不思議でもない。
あるいはこんなことも考えられる。彼は不幸な家庭に育って、父お母に何度も裏切られことだろう。今度はそううまくゆくと思ったときに、親に裏切られ続けてきたので、彼はその悲しみや苦しみを、自分のことを親身に思ってくれているらしい担任教師に対して、実際に体験することによって解ってもらおうとしたのではないか。
「先生、腹が立つでしょう。人間というものが嫌いになったでしょう。そのことを僕は何度も何度も経験してきたのです」と、
彼は伝えたかったのではないだろうか。
あるいはこんなことも考えられる。担任の先生があまりにも熱心なので、彼もそれに応えて、よい子になろうとした。しかし、考えてみると人間が変化してゆくのには、それ相応の期間がいるものだ。彼は先生のペースに合わせて頑張りすぎたので、この辺で息切れがしたのかもしれない。彼は「先生、少し焦りすぎです。もう少しぼちぼちやりましょう」と言いたかったのかも知れない。
ここに思いついたことを書いてみたが、この三つともすべて正しいかもしれないし、三つとも間違っていて、他にもあるかも知れない。大切なことは、青年の行為をすぐに「裏切り」などと断定せず、その行為によって彼は何を伝えたようとしたか、というように、コミュニケーションの手段として考えてみることである。
それによって、次にどうすればよいのかということが解り、また、期待をもって会うことが出来るのである。
一度は姿を消しても、われわれが期待を失わずに待っている限り、彼は必ずわれわれの前にやってくることができる。
考えてみると、一回や二回の親切で人間が立ち直るのなら、話が簡単すぎるというのである。何度も同じようなことが繰り返されつつ変わってゆくのが当然であろう。それを「裏切り」などと考えるのは、援助者の傲慢というものである。
つづく
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