子どもが大人なるときの援助者となる大人の役割については、いろいろと明らかになってきた。とくに、実例をあげた話の中での、援助者の動きによって、重要な点はよく感じ取っていただいたことと思う。 トップ画像 赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

4 援助者の役割

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ピンクバラ4 援助者の役割

今まで述べてきた中で、子どもが大人なるときの援助者となる大人の役割については、いろいろと明らかになってきた。とくに、実例をあげた話の中での、援助者の動きによって、重要な点はよく感じ取っていただいたことと思う。ここではそれらをまとめて簡単に述べることにしたい。

見守ること

青年たちの成長を援助するものとして、それを「見守る」ことはもっと大切なことといっていいだろう。確かに、適当な忠告や助言を与えたりすることは大切である。

 しかし、忠告や助言を与えてくれる人は、案外いるものだし、忠告や助言によって立ち直れたり、成長する人は、なかなか立派な人で、そのような人は、援助者をあまり必要としない人と言ってもいいだろう。

 成長することはなかなか苦しい道であり、長期間を要することである。そのときに、その過程を見守ってくれる人があるとことは、随分と心強いことなのである。

 筆者は心理療法家として、多くのつまずきを経験した人が立ち直って行く援助することをこなしてきた。筆者の仕事の中核は、実のところ、「見守る」ことにあると思っている。多くの人が、つまずきから立ち直る「よい方法」を筆者が教えてくれると思ったり、何か助言を与えてくれるものと期待して、筆者のもとにやって来られる。

 しかし、今まで何度も繰り返し述べてきたように、ある個人が本当に成長することは、「その人なりの」道を自ら見出し、つくりあげてゆくことであり、他人が軽々しく教えたりできるものではないのだ。したがって、その間、その人が苦しい道を進んでゆくのを見守ること以上に、することは無いのである。
 といっても、このことがどれほど難しく、苦しいことだと解って頂けるだろうか。

 見守ると言ことをもう少し詳しく言い換えてみると、その人にできるだけの自由を許し、常に期待を失わずに傍にい続けることだといえるだろう。例を挙げて考えてみよう。

 たとえば、失恋に悲しんでいる青年が、もう死んだ方がましたという。死ぬ場所を探すために旅に出たいなどと言い出したとき、われわれは彼に「自由を許して」いいのだろうか。

 もし彼が本当に自殺したりすると、取り返しのつかないことになる。あるいは、ある青年が職業につくが些細なことから上司とケンカして辞職してくる。こんなことを数回も繰り返して、もう一度就職したいというときに、われわれは「期待を失わず」にいることが出来るだろうか。

 一般に言って、援助を必要とする人は、期待がもちにくかったり、自由を許したくないと感じられるような人である。それに対して、期待を失わず、自由を許すことにこそ意味があるのである。

 期待を持ち続けるためには、人間の可能性を信頼することを学ばなければならない。ほとんどの人が「あいつは駄目だ」とか、「期待していても無駄だ」というとき、それはその人の目に見える状況のみから判断している。しかし、人間には潜在力があり可能性がある。

 そして、それは期待を失わず見てくれている人との人間関係を土台として開発されてくるのである。このようなことは、口先だけでいっても駄目で、実際に体験しないことには、なかなか解らないであろう。

 しかし、他の誰からも見放された人に対して、期待を持ち続け、それによってその人がだんだんと成長し変化してくることを体験すると、それはその後の強い支えとなるのである。

 期待を持ち続けるためには、われわれは物事をよく見ていないと駄目である。以前にも上司とケンカして辞職し、今回もまた同じことをやってきた、だから、もう望みはない、というように簡単に判断を下すのではなく。以前は上司と争って自分の正当性ばかり主張していたが、今回はやや口ごもりながら話をしたり、自分の方にも少し非のあることを認めていた、などと言うようによく見ていないと駄目である。

「ちっとも変化しない、よくならない」と嘆く人が多いが、世の中には「同じこと」など起こるはずはないのである。同じことの繰り返しなどという前に、何か変わったことは無かったかとよく考えてみる必要がある。
 少しでもよい変化があれば、それは期待を寄せてゆくのである。

 自由を許すこともなかなか大変である。自殺の自由まで許すことが出来ないのは当然だ。しかし、自殺したいという話を、止めずにそのまま聞いていると、自分からやはり自殺を思いとどまって頑張って見ますという人もある。

 だから、慌てて止める必要はないないので、こちらの限界まではぎりぎりのところまで、相手についてゆくべきである。こんなときは、援助者の方の許容量と、青年の心の底にある破壊力とのぎりぎりのところでの勝負といった感じがするものである。難しい人を相手にしていると自分の器量の小ささを痛感させられるが、頑張って続けているうちに鍛えられて、こちらの器量も少しずつ大きくなってゆくものである。

 第V章に紹介した『思い出のマーニー』においても、薄幸な少女アンナがだんだんと癒されてゆくためには、アンナを預かってくれた老人夫婦のペグさんたちが、アンナを見守り、アンナの自由をできるかぎり許してくれたことが大きく役立っている。ベグ夫婦の見守りのなかで、アンナは癒してくれるマーニーという少女が、アンナのたましいの国から出現してくる。アンナを癒したのはあくまでアンナ自身のたましいのはたらきであり、それを促進するものとして、ベグさんの見守りが必要だったのである。
 つづく 対決