3 家と社会
日本人としての問題を論じたので、これとの関連において、家や社会と個人との関係について考えてみることにしよう。
子どもは大人になるときに、家や社会の事を必ず考えねばならない。ともかく社会の成員としての役割を果たさなければ大人と言えないのだから、これは当然のことである。
家のしがらみ
本書の一番初めに、家出した高校生の例をあげたが、子どもが自立してゆこうとするとき、いかによい家庭に育っても、家が自立を妨げるしがらみなように感じることは事実である。しかし、本当の意味で、家から自立してゆくことは、日本人にとってなかなか難しいことである。
ある若い女性が恋愛をし、結婚しようと思ったが、父親がどうしても許してくれない。とうとう自殺を企てたが、未遂に終わり、筆者のもとに相談に来られた。彼女の話によると、彼女の恋人はなかなか素晴らしい人間なのだが、何かにつけて父親と反対なのだという。
父親は堅実なサラ―リマンで、こつこつと着実に人生を歩んでいく方であるのに、恋人はむしろ腹の太いタイプで、今は一応サラリーマンだが、近い将来は自営業をやりたいと大胆な計画をもっている。
父親は煙草は吸わないし、酒も少ししか飲まないが、彼の方は酒もたばこもやるという。彼の話を聞いていると、彼女はとしてはまったく頼もしいと感じるのだが、彼を一度家に連れてくると、父親はあんなにいい加減な人間は駄目だときめつけてしまったのである。
もう少し話を聞いてみると、彼女は実は父親が大好きであったし、父親も彼女を随分と可愛がってくれたという。父親のような人と結婚して、自分も堅実な家庭を築きたいなどと思っていたのに、同じ職場の彼に対して、だんだんと惹かれるようになったのだという。
彼女の語るところによると、彼女としては、父親の気持ちがむしろよく解るというのである。父親としても自分の娘が堅い男性と結婚し、自分も安心してみていられる家庭を築くものと期待していたのである。
それに彼女が連れてきた恋人は、そもそも酒やたばこが好きだというだけで、父親から見れば失格であろう。
父親が自分に今までしてくれたことを思い出すと、こんな恋人と結婚したいということは、まったく父に対して申し訳なく思う。
しかし、かといって自分は結婚をあきらめることはできない、というのである。そこで、私は彼女に対して、彼女がそこまで父親の気持ちが分かり、済まないと思うのだったら、父親に対して本当に心から済まないといった事があるかと尋ねてみた。答えは否であった。
私はずいぶんと冷たいいい方だと思いながらも、次のようにいった。「あなたにとって、父親に本当に謝るよりも、死ぬことの方が容易だったのですか」
家から、あるいは、親から離れようとするとき、ある程度の無理をしなくては、なかなか成就しないときがある。彼女の場合は、自分でも自覚しているとおり、父親との結びつきが強かったためでもあろう。
父親と正反対の人物を選んでいることによって、父親からの分離を果たそうとした――といっても、これはある程度無意識のうちに行われることが多いのだが、彼女は自分の心の底から生じてくるこのような力に対して、従わざるをえないと感じると共に、それが父親にとってどれほど悲しいことであるかを知っていた。
しかし、彼女はそのことをハッキリと親に言えなかった。ここに、彼女の強い甘えがある。自立しようとする者は、親に対しても人間と人間としての務めを果たさねばならない。すまないと感じるかぎり、すまないというのが人間の務めではないだろうか。
彼女が筆者に対しては、父親にすまないと繰り返しいったように、彼女も他人に対してなら、あやまるべきときはあやまることのできる人であろう。しかし、家族に対しては、するべきことをしなくても許されるという甘えがあり、そこを克服するよりは、まだ死を選ぶ方が容易なのであったろう。
(もちろん、筆者との話し合いの後で、彼女は父親に正面から謝り、事態は好転したのだったが)
家から自立しようとするものは、家族に対して正面から話し合う覚悟をもたねばならない。このことをせずに、ただ家から飛び出るだけでは、既に述べたように孤立にはなっても、自立にはならないのである。
家から飛び出しても、本来的には家との結びつきが切れない形として、疑似家族の問題がある。
一番典型的な場合が、家出をしてやくざに仲間入りしているような例である。
ヤクザ仲間と言うのは、強力な日本的家族集団である。そのしがらみは普通の家よりはるかに強いものである。こんな場合は、その青年は自分の家から離れただけで、心理的な面からいえば、ますます「家」に取り込まれていったといわねばならない。
つまり、ヤクザ仲間というのが、疑似家族を形成しているのである。既に日本人の自我特性を論じた際に述べたように、日本人は西洋流の自立が下手であり、家族的な人間関係によって結ばれていてこそ安心するところが強い。
したがって、自分では家から自立したつもりでいても、疑似家族のなかに安住していることが多いものである。そのようなまやかしに頼るよりも、むしろ、家のしがらみを避けることなく、それを生きることの方が大人であるというべきかもしれない。
ともかく、家のしがらみを避けていては、大人になれないのである。
社会とのつながり
大人になることは、社会の成員となることである。その社会のもつ規範を取り入れ、また、その社会を維持してゆくことに、貢献しなくてはならない。しかしながら、われわれは未開社会のように、社会を不変の決定されたシステムであるとは考えず、それを進歩してゆくものと考えている。
したがって、社会の成員になるということは、既成の枠の中に自分を入れこんでゆくとはかぎらず、枠そのものの変化の過程に自ら参がしてゆくことだということができる。社会の成員になるということは、既成の鋳型のなかに自分を流し込むことではない。
青年期は家の建て替えをするようなものであると述べた。青年期とは、自分自身の変化と社会の変化ということが、微妙に絡まる時期である。目をもっぱら外に向けて、社会への奉仕とか変革とかに熱中しているうちに、内的にも変化が生じて立派な大人になる人や、目をもっぱら内に向けて、自分の内的な世界の変革に力を注いでいる人も、知らぬ間に社会人として通用するおとなになっていることもある。
内的、外的と言っても、これらは思いの外に絡み合っていて、どちらが一方の事に真剣に関わるかぎり、他の一方のことが関係せざるを得なくなってくるものである。ただ、その人の個性によって、どちらか一方が得意である、ということが生じてくる。
青年期においては、ともかく強い変動が内的に生じているので、何か新しいもの、何か変化するものを求める傾向が強くなるのは当然である。青年期の初期においては、それは極端な場合、たとえ事態が悪くなろうとも、何らかの変化があれば歓迎したいというほどのものになる。
「大人たち」の好きな安定ということが、もっとも我慢ならないのである。このような強い変革願望を、社会というある程度できあがっているシステムのなかに、どのようにもちこむか。ということが青年期の課題である。
それは単純な場合には、少し変わった服装をしてみるということに表されるであろうし、強力な理論武装をもって社会に変革を要求するという、強い異議申し立てとして表わされることもあろう。
一応できあがったものとして存在している社会と、何らかの意味でそこに 変革をもたらそうとする青年の力と、それらの烈しいぶつかり合いのなかで、青年は鍛えられて大人になってゆくのである。
大人たちは、青年の変革の強い意志に対して、それは時に途方もない形をとって表されるにしろ、深い理解をもっと同時に、青年の前に強い壁となって立ちはだかり、それを撥ねける強さをもたねばならない。
そのようにして鍛えることによってこそ、青年は社会の成員として育ってくるのである。青年の内なる衝動を社会へ受け容れられる形において示す窓口として、どのような職業を選ぶかという問題が生じてくる。
職業の選択
人間には職業をもち、その収入によって自分及び自分の家族を養うことによって、大人になる条件のひとつを満たすことになる。その際に、どのような職業を選ぶかといことは大きな問題である。現在においては、われわれはどのような職業でも好きな職業をえらぶことができる。
封建時代のように身分が固定した時代のことを考えると、われわれはかつてない自由を享受していることになる。しかしながら、人間にとって伝統とか血のつながりなどということも、思いの外に大切なことのようである。
先にあげた歌詞職人の父子の例では、息子は、いったんは父の意志に反したようでありながら、やがて父の職業について理解を示すようになった。父親の職業、あるいは、先祖伝来の仕事などというものは、思いの外の影響力を持っているものである。
あるいは、父親と全く異なった職業についているようでも、父親が職業人としてもっている気質や態度などを、そのまま新しい職業のなかに形を変えて引き継いでいるようなこともある。
現在は何をしても自由であるし、せっかく他の可能性をもちながら、自分の父親や先祖の仕事に縛られるのはばかげていると思われるが、やはり、伝統的に引き継いできたものの価値についても考慮することは必要である。
そして、たとえ、父親と全く異なった仕事についたとしても、父親の継承者として何を継承しているのだろう、などと考えてみることは、自分の職業の質をもたせることにもなるだろう。
職業の選択や配偶者の選択においては、思いがけない偶然性が伴うときがある。職業や配偶者は、その人にとっての人生の一大事であるのに、偶然によって決めるなど、まったく馬鹿げているように思われるが、実際には、その相手が上々であることも少なくないのである。
友人の見合いについて行って、その相手に気に入られて幸福な結婚をした人、買い物に行った店の主人から仕事を手伝わないかといわれ、それから、だんだんと成功していった人、などなど考え出すといくらで多くいるものである。
これとは逆に、大きくなったら「××」になるといい、ひたすらそれに向けて努力してきながら、実際には不成功に終わっている人もある。このことは、人生の不思議さと言ってしまえばそれまでだか、職業や配偶者の選択のような、あまりにも重大なことになると、人間の意志や思考のみに頼っていては、あまりに良い結果をもたらさないことを示しているのかも知れない。
絶対にこれはやり抜くとか、どう考えてもこれが一番よいとか、あまりにも生まじめな態度を持つときには、野球における打者の「肩に力が入っている」状態や、投手が「考えすぎると、かえって打たれる」状態に似てくるのだろう。深い必然性を生かしたものほど、人間の目には一件偶然に見えるといってよく、そのような偶然を生かすことと、偶然に振り回されることは、似て非なるものであることは、いうまでもないことである。
一生懸命に行為してゆくにしろ、どこか偶然が入り込んでくるゆとりを残しておくことは、おとなであるための条件のひとつといっていいだろう。
つづく
4 援助者の役割