2 日本人として 日本人として
対人関係の問題を考えてゆく上において、日本人の対人関係の在り方の特徴を知っておくことがまず大切である。この点を抜きにして、一般的に、あるいは西洋人をモデルとして、個人や家や社会の関連を考えても、それは実状とかけ離れたものとなるであろう。
われわれはごく最近まで西洋近代の文化をモデルとして、それとほとんど変わらぬ生き方をしているとさえ思っていたが、国際交流が激しくなってきて、外国人との接触も増え、外国の事情がよく解って来るにつれて、日本人の生き方は多くの点で西洋人と異なっていることが明らかになってきた。
そのために、最近では日本人論が盛んとなり、ほとんどの読者の方がその点についてある程度知っておられることであろう。
その点について、ここに詳しく述べることはできないが、「大人になる」ことを考え上で無視することのできない問題であるで、ここに簡単に触れておくことにする。
今まで述べてきた「大人になる」ことは、ある程度、一般的に通用することを述べてきたのであるが、厳密にいえはせ、大人といっても、日本的大人なのか西洋的大人なのか、という問いが成立するほど、この問題は難しいことなのである。
日本人の自我
大人になるといえば、「自我の確立」ということを条件の一つといて、誰しも考えるであろうが、実のところ、「自我」ということが西洋人と日本人では異なっていると筆者は考えている。まず、ひとつの例をあげてみよう。
筆者がスイス留学中のことだが、ある小学校一年生の子が成績不良というので、幼稚園に落第させられことを知り、驚いていると、幼稚園の先生が、日本には落第がないのかと聞かれる。
小学校では落第がないというと、その先生が驚いた顔して、「日本ではそんな不親切な教育をしていいのか」といわれる。
このときに筆者にとって印象的だったのは、落第させることを「親切」と考えているという事実であった。つまり、成績の悪い子はその子に適切な級に落第させるのが親切だというのが西洋流であり、たとえ成績が悪くとも進級させてやるのが親切だというのが日本流ではなかろうか。
このような考えが生じてくるのは、その考えの主体となる自我の在り方が異なっているからだと考えられる。
西洋人の自我は他と切り離して、あくまでも個として確立しており、それが自分の存在を他に対して主張してゆくところに特徴がある。
それに対して日本人の自我は、あくまで他とつながっており、自分を主張するよりも他に対する配慮を基盤として存在しているところがある。
先の例でいえば、ある子どもが一年生に入学してくると、その子の成績がどうあれ、その子の気持ちを配慮して、みんな一緒になって進級してゆくようなことをよしとしなくてはならない。それに対して、西洋では成績が悪ければ落第し、落第が嫌なら進級できるように自己主張せよ、つまり、自ら努力せよ、ということを教えるのである。
日本人であれば、何を言わなくとも相手の気持ちを「察する」ことのできる人間になることが、大人になることといえるし、西洋人であれば、自分の事は自分で自己主張できることが、大人になることといえるだろう。
このような混乱は、西洋と日本の交流が盛んになるに従って良く生じている。たとえば、欧米に長く滞在した日本人が帰国して、何のためらいもなく自己主張すると、「いばっている」とか「勝手者だ」などと非難されるというような事実として、そのことが示されている。
また逆に、長い間日本にいたアメリカ人が、帰米すると、自己主張をしないので、そんなことではアメリカでは生きてゆけないと友人に忠告されたと聞いたこともある。
日本人はその自我をつくりあげてゆくときに、西洋人とは異なり、はっきりと自分を他に対して屹立(きつりつ)しうる形で作り上げるのではなく。むしろ、自分を他の存在の中に隠し、他を受け容れつつ、なおかつ、自分の存在を無くしてしまわない、という複雑な過程を経てこなくてはならない。
しかし、その間において、他に対する配慮があまりにも優先すると、常に「他の人はどう考えているか」、「他の人に笑われないようにしなければ」というこが強くなりすぎて、西洋人から言わせれば「自我がない」というようなことになってしまいかねないのである。
ここで、筆者は西洋流の自我と日本流の自我と比較して、どちらが優れているとか、どのようになるべきであると主張するつもりはない。
戦争に負けたころは、西洋流の考えが強く、日本人の自我を「個人志向的」だなどと批判する傾向がよくみられ、最近になって日本の経済的成功が高く評価されるようになると、ある種の日本人論のように、日本人の在り方の弾力性がよいこととされたりしたが、実のところ、両者の在り方は一長一短であり、軽々しく判断を下すべきことではない、と筆者は考える。
子育ての在り方
日本と西洋と、そのどちらがいいか解らないと述べたが、一般的傾向として、日本人が西洋の影響を受けて、西洋化されつつあることは事実である。しかし、それがどの程度、どのようになされているかについての自覚がないときは、大きい混乱をもたらすようである。
一つの例をあげて考えてみよう。ある若い女性が母親に付き添われて筆者のところに相談みえた。二年間にわたる恋愛の末に結婚したのだが、夫の両親があまりに理不尽であり、夫の理解も少ないので実家に逃げ帰ってきたのだが、これからいったいどうしたものだろうという相談であった。
彼女の夫の両親に対する怒りは色々あった。たとえば、母親が夫の好きな料理を作って訪ねてくるということがあった。夫は妻の気持ちを知らないで、「やっぱりお母さんの料理は一番おいしい」などといいながら喜んで食べ、自分の作ったものを少ししか食べなかった、しゃくにさわったが辛抱していたら、その後、夫が長電話した後で、母緒に対して先日の料理のお礼をいうために電話に出ろという。
あまりにも自分の気持ちを無視していると思って、「出る必要はないでしょ」というと、夫は親をないがしろにすると怒り出した。あるいは、夫と一緒に両親の家に招かれたとき、両親と話していてもそれほど面白くもないし、夫と二人で、以前の夫の部屋にゆき長々と話をしていた。すると、父親がもっと親の気持ちを考えろと文句をいった。すると、夫はすぐに両親の部屋に行ってしまった。
このようなことを考えると、夫は両親や家に縛られていて、まったく自立できていないと思う。夫と自分が楽しく時間を過ごしていることを喜ぶべきなのに、それに対して文句をいうのは身勝手だと思う。母親にしても、いかに料理自慢であれ、それを持ってきて、まるで妻の自分の料理下手にあてつけるようなことをすべきではない。・・・・などなどと不満はいくらでも続き、付き添ってきた母親も、まことにもっともだと頷かれるのである。
このような話は日本中に満ちているといっていいことだろう。この女性の言うことは半面は正しいのだが、全面的に正しいとはいい難い。夫が両親から自立していないと非難するのなら、少しのことで実家に逃げ帰り、母親に付き添われて相談に来る自分は、両親から自立しているといえるだろうか。
夫が楽しく自分と過ごしていることを、子どもが可愛いと思うかぎり、親は無条件に喜ぶべきだという考えが正しいのなら、もし、彼女が夫を愛しているのなら、夫が母親の料理を食べて喜んで食べているのに対して、妻はそれを無条件に喜ぶべきだということにもなるだろう。どちらもまったく五分五分なのである。
昔の「嫁」なら泣く泣く辛抱したことであろう。辛抱せずに自己主張するようになることは、西洋流になったということである。しかし、彼女がここで本当に「西洋流」であるなら、泣いて実家に帰ったりはしなかったであろう。自分の考えを夫に告げ、それに対して、夫の方も自分の考えを妻に告げることになるだろう。
その上において、一体どうするのかを二人で力を合わせて考え抜いてゆくだろう。ここで注意すべきことは、われわれは他人を非難する時は知的機能に頼りやすいので、「頭」に覚え込んでいる西洋流の考えを使いやすい――たとえば夫が「自立」できていないなどと批判する――が、いざ「生きる」となると、それまでの「体」にしみついていることが出やすいので、日本流に行動してしまうことになるということである。
これを「子育て」という点からいえば、われわれは子どもを育てるときの基本姿勢としては、知らず知らずに日本流にやっていながら、知的には西洋流にやっていることを反省すべきではなかろうか。
そして、この女性の両親のように、自分の育て方について反省するのではなく、娘の一方的な理論にそうだそうだと同調してしまうのである。この娘さんも、成績が悪かったら一年生から幼稚園に落第させるような「親切」教育を受けていたら、これほど甘い考えに頼って、自己主張することは無かったであろう。
「子育て」といえば、赤ちゃんのときから日本と西洋では育て方が異なっている。
そのことを知らずに、小さいときには日本流に育てておいて、大人になってから急に西洋風にしようとしても無理があるというものであろう。欧米では、母親が忙しくしている間に、父親が小さい子にお話してやったり、本を読んでやったりして寝かしつけることを見聞きしたが、こんな実態を知らず、子どもを「自立」させるために、日本人が西洋の真似をしているつもりで、小さい子を両親がともにほっておいて、正常に発達を歪ませてしまうような例もあった。
これもまったく困ったことである。異文化を取り入れることは、なかなか簡単にはできないことなのである。
これからどうなる
それでは、われわれ日本人としてはどうすればいいのだろうか。既に述べたように、日本人が西洋化されていく傾向が、現代においては、強いことは事実である。われわれは簡単に戻れない。
今さら、イニシエーションを行っていた未開社会に戻れるはずもないし、明治は良かったなどいっても、明治に戻れるはずもない。それに、それぞれの社会、それぞれの時代において、それ相応によい面もあれば悪い文もあるのも事実である。われわれがある程度モデルとしてきた西洋社会においても、むしろ、その行き詰まりがみえつつある状態である。
われわれにとっていまもっと大切なことは、従うべきモデルが無いことを、はっきりと認識することではなかろうか。モデルが明確に存在するとき、ある程度ハウ・ツー式のことがいえるはずである。現在、「大人になること」について、これほど語ることが難しく、ハウ・ツー式のことが述べにくいのも、結局はモデルが無いからである。
昔から、日本流も駄目だし、西洋流も駄目なのである。そうすると、いったい「大人になる」とは、どのようになるのか、モデルが無けれれば判定のしようもないじゃないか、と言われそうだ。
この点に関しては、モデルが無いことを認識し、モデルの無いところで自分なりの生き方を探ってゆこうとし、それに対して責任を負える人が大人である、といえるのではなかろうか。
大人になるという決められた目標があり、そこに到達するというよりは、自分なりの道をまさぐって苦闘する過程そのものが、大人になることなのである。
このように「大人になること」を考えると、既に第一章に述べたような「つまずきの意味」が余計はっきりするであろう。自分なりの進むべき道は、つまずきを通じてこそ知ることができるとさえ。いうことができる。
たとえば、家庭内暴力の場合を取り上げてみよう。この点については既に第V章において取り上げたが、この問題を「日本人」の問題として考えてみよう。家庭内暴力の子どものひとつのタイプとして、親に対する要求がだんだんとエスカレートしてくるものがある。
はじめは、単に、食事に連れて行け、と要求していたのが、だんだんと高級のホテルに行くことに変わり、それもホテルで食事をしても、後になって、あれはまずかったとか、もっと他のホテルへ行くべきだったと文句をいう。
あるいは、父親が最も忙しいときに、一緒に食事に行こうなどという。つまり、だんだんと要求が実現不可能なことへと変化してゆき、今日は駄目だからこの次にとか、少し辛抱しなさいなどと親がいった時に、暴力を振ってしまう。
その後は、まったく同様なことを繰り返しとなる。なぜ俺を生んだのか、と両親を責め立てて殴る子どもいる。
これだけの話を聞いていると、子どもがまったく不当なことをしているように見える。
しかし、その底流として存在しているのは、子どもが何かを要求したときに、親が自分の判断と責任において、はっきりと「ノー」と言わなかったという問題なのである。
「自分の判断と責任において」ということは簡単である。しかし、このことは日本の男性にとって、極めて難しいことである。われわれ日本人の男性は、既に述べた日本的自我の特性に従って、何かを決定するときに自分の判断に頼るよりは「他の人々はどう考えているかな」と他を配慮する癖がついてしまっている。
あるいは、少しくらい無理な要求でも、もし自分が妥協できるなら妥協して、あまり波風の立たないようにしたいと思う。ところが、子どもたちは、それが気に入らないのである。子どもは、西洋流の父を無意識的に望んでいるのである。
子どもたちが、この点についてもあまりにも無意識だということもあって、解決はそれほど簡単ではない。
しかし、ここで強調したいことは、一見理不尽に見える家庭内暴力というつまずきにしても、そこには「大人になる」ための大切なきっかけが存在しているということもある。
しかも、その「大人」の問題は深刻で、従来からの日本的大人では不十分であり、西洋的な面も必要であることを示しているのだ。家庭内暴力において、父親が弱いから強くならねばならない。したがって昔の頑固おやじの復活が望ましいなどと考える人があるが、事態はそんなに簡単ではない。
日本の昔流の頑固おやじは、西洋流の観点から見れば、腕白小僧くらいにしか見えないのではなかろうか。そして、繰り返しになるようだが、家庭内暴力の子どもにしても純粋の西洋流の父を望んでいるわけではない。
そのような要素の必要性を示してはいるものの、彼らは日本人であり、日本流に育ってきているので、日本的な要素が必要ことも当然である。だからこそ、われわれは、家庭内暴力の子どもに対して父親はこのようにすべきだなどと、ハウ・ツー式の解答を与えることはできないのである。
ただ、われわれとしては彼らの行為にも、大人に対する正当な問いかけがあり、彼らもいったいどのような大人になるべきかと、彼らなりの探索を試みていることを忘れてはならないのである。
つづく
3 家と社会