子どもは子どもなりに人間関係を持っている。大人は大人としての人間関係をつくりあげてゆかねばならない。そしてまた、子どもは大人へと成長してゆくとき、その成長を促進したり、妨害したりするような人間関係の在り方が存在することも事実である。 トップ画像赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

W 人とのつながり

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ピンクバラW 人とのつながり

子どもは子どもなりに人間関係を持っている。大人は大人としての人間関係をつくりあげてゆかねばならない。そしてまた、子どもは大人へと成長してゆくとき、その成長を促進したり、妨害したりするような人間関係の在り方が存在することも事実である。

しかも、それはある時点までは成長促進的であった人間関係が、ある時点からはむしろ妨害的に働くということさえある。このような考えで来ると、人間関係の難しさ、重要さがよく了解されるであろう。

1 孤独と連帯

青年期というのは、相当な程度の孤独と、相当な程度の連帯感と、その両方を味わう時期ではなかろうか。また、大人であるということは、孤独に耐えられることだ、ともいえるし、いろいろな人と共に連帯してゆけることだ、ということもできる。

 人間における孤独と連帯の問題も強いパラドックスを内包しているように思われる。

友人
 青年期において良き友人を得ることは大切なことである。友人との関係を通じて、青年は自分の個性の在り方を自覚すると共に、自分とは異なる生き方を理解し、評価することを学ぶのである。このことは、大人になるために必要な条件の一つである。

 子ども時代の友人関係は、近所に住んでいるからとか、教室で机が並んでいたからとか、偶然的な要素によることが大きいが、成長するにしたがって、自分の個性との関連において、自らの意志によって選ぶ要素が大きくなってくる。ともかく、自分という存在を認めてくれている、許容してくれている、友人がいるということは、人間を力づけてくれるものである。

 既に述べたように、大人になってゆくためには、両親からのある程度の分離が必要であるので、このような友人による支えはずいぶんと有難いことと感じられる。

 ところで、このような友人との連帯感は、ただそれだけ出に終わるときには、本質的には母子一体感とよく似たものとして、むしろ、青年の成長を阻むものとして作用するときがある。

 たとえば、ある大学生A君は大学に行くのが何となく馬鹿らしくなって、下宿に籠りがちになってしまった。それではあまりに寂しいと思うときは、大学に出かけてゆくのだが、誰も相手にしてくれない。

そんなときに、近くの食堂でふと隣り合った同年輩の若者と親しくなった。彼は高校を出てすぐ就職しているのだが、お互いに強い親しみを感じ、下宿を訪問し合ったり、一緒に食事をしたりする仲になった。

 A君にとって、その友人が共にいてくれることは、何となく気分が落ち着くし、別にとりたてて話し合わなくともお互いに気持ちが通じ合うように感じられた。このような友情が一年あまり続いたが、そのうちA君は彼と一緒に居ると、何となくイライラするようになってきた。彼とのどこが気に入らぬということもないのだが、ともかく、いらいらとしてくるのである。

 このような現象が生じてきたのは、A君の友人関係が、もはやA君の成長を阻む方向に動き始めているからである。確かに、この友人はA君の孤独感を和らげてくれるという意味においては、それまでは意味を持っていたのだが、A君がそのような状況から一歩脱け出ようとするときに、何となく妨害的に働くように感じられてきたのである。

 このような気持ちが働いているためか、二人はつまらないことで口論してしまい、しばらく顔を合わせることがなくなった。A君は腹が立って仕方がない。

今まで自分はいろいろ無理してまで付き合ってやったのに――実のところ、相手も同じように感じているのを彼は知らないのだが――少しのことで立腹してしまうなど、まったく馬鹿げている。

あんな人間と一生これから付き合うものかと思う。しかし、一方では、夕食を一人で食べたり、夜、一人で下宿に入ると何となく寂しくて、ふと、彼が来ないかなと思っている自分に気付いて驚いてしまう。

 そんなときの夜遅く、彼が突然やってきた、ともかく上がれということで下宿に迎え入れると、彼が思いつめたようにして次のように話をした。彼は大学など行く価値がないと思い。高校卒業後に就職し、今まで立派にやってきた。しかし、自分の気づかないところで、大学生を羨ましいと思ったりしていたのではないか。だから、A君と友人になり、困っているA君を慰めてやることによって、自分はやはり大学生よりはしっかりしているのだ、偉いのだと思うことに意味を見出していたのではないか、と反省したというのである。

口論の種はささいなことだが、今ではいつも被保護者のような立場であったA君が、少し自己主張をしたことが原因であり、自分は、どこかでA君を対等の人間として見ていなかったのではないか、というのである。

これを聞いてA君は、彼の素直さと、よく考えていることを感心してしまった。そのように言われてみると、A君にもいろいろ思い当たることがあった。

影の共有

友人の素直な話を聞くと、A君も思い当たるところがあり、自分も素直にいってみた。考えてみると、A君たちが一番よく話が合ったのは、他の大学生たちがつまらない勉強をよくやっているなあとか、大学でスポーツばかり熱心にやって、なぜあれほどに意味があるのだろうとか、他の大学生たちの悪口をいうことであった。そのような点で二人は意気投合していたのだ。

ところが、一年ほど経つうちに、A君も何となく大学に出て勉強したくなってきた。しかし、それを言い出すのは友人に悪いと思ったり、今まで大学で勉強をすることを散々悪くいっておきながら、今度は自分が大学に行くというのは、格好が悪いと感じたりして、言い出せなかったと言うのである。

二人とも素直に話し合って、A君はこんなことをいうと二人の友情はこれで終わりになるのではないかと思ったのに、二人ともかえって以前より親しい気持ちになってきて不思議に思った。

友人関係はいろいろな要素から成り立っている。関係の緊密さという点にのみ目を向けるとき、それは非常によい関係であるかのように見えるが、実のところお互いの成長を妨害している関係として、「影の共有」関係というのがある。

人間は誰しも「影の部分」というべきものをもっている。自分にとっては受け容れがたい部分、生きていくことを拒否している部分、といってもいい。

いまの例でいうと、A君もその友人も、大学で勉強するといことは、共通の影の部分になっていた。したがって、二人とも大学生の悪口をいっているだけで意気投合することが出来たのである。

われわれは自分を克服しなくてはならない影の部分に対して、それと直面する苦しさをまぎらわすために、影の部分を共有する人間関係をもち、自分の影の部分を不問にして、他人を笑いものにしたり、他人を攻撃したり、「固い友情」を誇っているときがある。

 そこで、その関係を「大人の友人関係」へと高めるためには、外ばかり向けていた批判の目を内に向け、A君とその友人が話し合ったように、お互いの影の部分を直視することが必要となってくる。

このような話し合いを通じて、A君は大学に行くようになるし、友人は今まで通り仕事を続けながらも、自分は自分の道を歩きくものとして、別に相手が大学に行っていようがいまいと、それにこだわることなく友人関係を保つことが出来るようになるのである。

人間だれしも影の部分を持っているし、弱くもあるから、どこかで影の共有関係を持たないと苦しくて生きてゆけぬことも事実である。しかし、いつまでもそれに甘んじてはいてはならないのである。そのような関係が変えられてゆくときに、A君が体験したように、一時的に友人関係を切ってしまうと思うほどの孤独が感じられ、次にそれをバネとして新しい連帯感が生まれてくるところが特徴的である。

恋愛

といっても、その在り方には人によって実にさまざまのものがある。しかし、その本質は男性と女性という異なった存在が、何らかの意味における合一を目指しているといえるだろう。

 性の問題について既に述べたが、恋愛において、性欲ということが直接に意識されていない場合にしても、人間存在を根底から揺るがすようなエネルギーの流れが、そこにはたらいていることは認めねばならない。

 合一への意志の背後には、人間のように完全な、より全体的なものを求めようとする傾向が働いている。当人たちは相当に遊び半分の気持ちで恋愛をしているつもりでも、そこには何らかの意味で、欠けたものを相補おうとする傾向がはたらいている、といっても過言ではない。

 男性も女性も自分にはない何らかの点を相手に見出し、それに憧れ、それを手に入れようとするし、また、せっかくの相手の期待にも応えたいと願う。このために、多くの男女は、恋愛によって成長することが多い。

 両親とか教師とかの忠告や助言には、全く耳を傾けなかった青年が、恋人の一言によって態度をがらりと変えることは、よくあることである。恋愛の際に動くエネルギーは、普通の場合よりも次元が異なるのである。

 また、それだけ危険も大きく、恋愛が転落の機縁になることもある。しかし、初めに述べたように、恋愛が異なる存在の合一を目指すものであるとするならば、どうしてそこに転落が生じたりするのだろうか。

 恋愛ということは、洋の東西を問わず多くの文学作品の主題として取り上げられ、いまだに耐えることがない子とか見ても、それがいかに画一的に論じられないものであるかが解るであろう。それは永遠に肥え難い要素を含んでいる。

 しかし、ここで大胆にごく大雑把ないいかたをすると、恋愛によって両者が成長してゆくためには、何らかの意味でそこに相反する傾向が存在しなくてはならないといえる。相反するものの合一によってこそ、新しいものが生まれ出てくるわけである。

しかし、相反する傾向があまりにも強すぎては、それは一体となるよりはむしろ離れるのが当然であり、合一へとむかってゆくためには、その過程を進ませる基礎として、両者に共通の要素がなければならぬはずである。

簡単にいってしまうと、両者に共通する要素は関係の安定に役立つが、そこに発展性がなく、相反する要素は発展への可能性も残っているが、そこには離反の傾向が強い。
このようなパラドックスのなかに恋愛関係は成立している。

 結婚のための見合いの場合は、どうしても関係の安定性の方に注意が向けられるので、いろいろな点で男女の間の共通要素が強調されることが多い。

 これに対して、恋愛の場合は、どうしても発展性に賭ける(あるいは、無意識的に賭けさせられる)ので、多くの相反する要素があり、本人たちの熱心さに対して、周囲はその関係の安定性に不安感を抱くことが多いようである。

 恋愛の場合は、それに多くの思い込みや独りよがりが加わるので、せっかくの合一の意図は破れてしまい、破局を迎えることも多いのである。

 つまり、両者の間の相反する要素が強すぎて、合一へと至るまでに破壊作用が生じたり、心理的合一の道が程遠いものに、身体的な関係や、結婚という社会的な結合が先行しすぎて、そのギャップが埋められぬために破局を迎えてしまったりするのである。

 恋愛には思い込みや独りよがりよく生じる。あまりにも強いために、相手がそれを持っているものと錯覚し勝ちになるためである。たとえば、やさしさということを強く求めている場合は、相手の女性のほんの少しの親切に対しても、深い優しさを感じてしまうだろう。

 そして、彼の彼女に対する優しさを求める気持ちがあまり強くなりすぎて、彼女が彼を拒否するようになり、失恋という事態が生じることになる。

 このようなときに、相手の女性に裏切られたとか、自分の思い込みが悪かったとか堂々巡りの後悔を繰り返すのではなく、なぜ、それほどの優しさを自分は期待したのか、そのような優しさは、自分の可能性として自分のなかにあるものを開発してゆくべきでなかったか、と考えてみることである。

 単純に他人を非難せず、生じてきたすべての事象を「わがこと」として引き受ける力を持つことこそ、大人であるための条件であるといえるだろう。
  つづく 2 日本人として