心身症
現代の青年の心の亀裂は相当に深いものがあると述べたが、そのことに関連することとして、心身症が増加してきている事実を上げることが出来るだろう。
心身症という言葉は例の日航機の事件以来、一般によく知られるようになったが、またそれだけに誤解されている点が多いようである。心身症とは日本心身医学会の医療対策委員会によると、「心身症状を主とするが、その診断や治療に、心理的要因についての配慮がとくに重要な病態」であるとされている。
心身症は、喘息(ぜんそく)、消化器系のいろいろな潰瘍、アトピー性皮膚炎、など多くのものがあって、学者によって心身症を狭く考える人と、広く考える人があり、たとえば、既に述べた思春期拒食症などは、心身症の分類に入れる人と、入れない人とがある。
このような細かい点はともかくとして、心身症が青年期においてかつてよりは増加してきているのである。最近では児童にまで胃潰瘍になるものが出てくる有様である
心身症について、「心理学的因子についての配慮がとくに重要な」という含みのある表現がなされ「心理的因子が原因となっている」などと述べられていないことに注意しなくてはならない。
心身症について、一般的に「心の原因によって身体の病気が起こる」という短絡的な誤解が存在し、このことによって不要な混乱を起こしているように思う。
たとえば、心身症の人に対して、「心がけが悪いからだ」とか、「意志が弱いから」などと言ったり、「なにか悩みがないから」と詮索してみたり、「もっと気楽に生きたら」などと忠告したりする。
これらの考えは、ころころとからだとの結びつきに対して、あまりにも安易に考えすぎているといわねばならない。「悩みがないから」といわれて、すぐに言葉で表現できるような悩みから心身症が生じることは、あまりないだろうし、もしいえたとしても、その解決はちょっとした心の在りようなんかで変わりそうもない事であろう。
「気楽に」などといわれても、そもそもそれほど簡単に、人間は「気楽に」生きられるものではないのだ。仕事を休んで温泉にでもつかっておればなどといっても、温泉に浸かっている間中、仕事はどうなるのか、将来はどうすべきかなどと考えていたら、それは別に「気楽」ではないのである。
心と体の絡み合いは、それほど単純ではない。いったいどちらが原因とも結果とも言えぬことが多い。したがって、わざわざ「心理的因子についての配慮がとくに重要な」という含みのある表現がなされているのである。
しかも、この「心理的要因」は、既に述べたように一般的な考えによって、簡単に類推したり、取り扱ったり出来ぬような類のものである。
そして、実際には、心身症だからといって、なまじか心理的なことを考えず、身体的な治療をすると、よくなってしまうことが多いのである。身体を癒す過程において、自然に心も癒されることがあるのだ。
第三領域
心と体の問題の本質を考えてみるために、ここでひとつの児童文学作品を取りあげてみよう。
ロビンソン作の『思い出のマーニー(岩波書店)の主人公、アンナは喘息に苦しんでおり、まわりの人々に溶け込むことが出来ない少女である。
アンナは転地療養のために、ある海辺に住む老夫婦のもとにあずけられる。アンナは自由に海岸のあたりを散歩しているうちに、マーニーという少女に会い親しくなる。アンナは両親に早くから死に別れた孤児で貧しい子であるが、マーニーの方はお金持ちの家に育った子である。アンナはマーニーの「恵まれた」境遇を羨ましがりながらも、マーニーの優しさに惹かれて、親しく付き合ってゆく。
マーニーの暖かい接触によって、アンナはだんだん癒されてゆくのだが、そのうちに、「恵まれた子」と思っていたマーニーが、実のところ、お金持ちの家に育ったということはあるにしろ、それほど暖かい両親の愛に恵まれていないことを知るようになる。
アンナはマーニーとますます親しくなるが、マーニーがアンナを棄てたと誤解し、強い怒りを感じる。しかし、苦しむマーニーの姿を見て、彼女を許してあげるとアンナは叫ぶのである。
このようにして、アンナは激しい感情の嵐を体験しつつ、マーニーとの心の交流のなかで、だんだんと癒されてゆくのだが、ここで非常に大切なことは、マーニーが、実のところ、実在の人物でなく、それはアンナの幻想体験だったということである。
詳しいことは原作を読んでいただくこととして、これを読みながら筆者が心を打たれたのは、そのような幻想の世界の住人こそが、アンナを癒すことができた――そして、この世に実在している誰もがアンナを癒せなかった――という事実であった。
それでは、いったいマーニーという存在は何者であったのだろう。アンナのもとにうまく立ち現われ、最後に姿を消していったマーニーというのは、いったい、どこに住んでいるのだろう。
『思い出のマーニー』を読んで、筆者が感じたのは、人間存在というものを考えるとき、心と体という二つの領域のみではなく、その両者をあわせて全体性を形づくるものとしての第三領域の存在を仮定せざるを得ないということであった。アンナは身体が悪いのでも、心が病んでるのでもない。
彼女の第三領域との接触が上手く行っていなかったために、いろいろ問題が生じていたのではなかろうか。そして、彼女の幻想のなかに立ち現れたマーニーこそ、その第三領域からの使者ではなかっただろうか。
この第三領域について、筆者は今のところ、それほど詳しく確実に語ることはできないが、それが古来から、たましいと呼ばれてきたものではないかと思っている。
自分でもそれほど確かではない、たましいのことについて、なぜわざわざここに言及するのか。それは現代において、子どもたちが大人になるときに、この問題を考えずにおくことはできないと感じるからである。
既に示した未開社会におけるイニシエーション儀礼の場合のように、社会に属するすべての成員が、祖霊とか神とかいう超越者のはたらきによって、手練者の信じている場合は都合がいい。そのときその超越者のはたらきによって、手練者の「実在的条件の根本的改革」が、集団的に生じることになる。
しかし、現代においては、そのような集団的変革はもはや生じなくて、個々の人間がここに大人になるより仕方なく、そのときに、それぞれの自分なりに、自分の魂の存在との接触を必要としているのである。己を超える存在の認識かせ、大人になることの基礎として必要なのである。
筆者はこのことによって、大人になるためのなにか特定の宗教を信じたり、宗派に属したりすることが必要だと言っているのではない。時には、そのような形態をとることにもなろうが、大切なことは、自分をコントロールを超えた存在を認識すること、それとの関連において、自分という存在を考えてみることが出来ることなのである。
そのことは、自部の意志で完全にコントロールできない自分の身体を、我がこととして引き受けることの背後に存在しているのである。
アンナとマーニーの交友は、まったく秘密の誰も知らない出来事であった。人間が自分の魂との接触をはかり、自分という存在の個人としての確立をはかろうとするとき、そこには何らかの秘密の存在を必要とする。心と体をつなぐものとしての性(セックス)が、しばしば魂の問題と密接に関連するものとして、秘密のヴェールに包まれるのも、このためである。
性は卑しむべきもの、汚れたものとして隠されているのではなく、極めて意味深く、尊重すべきものとして隠されているのである。思春期の子どもたちに、性に関する生理的知識を与え、それによって「すべてを明らかにする」ことが、性の問題を解決するというのは誤りである。
確かに、性に関する生理学的な知識を与えることが必要な時もあろう。しかし、それで問題は解決したりしない。既に述べたように、女性の場合は、自分の意志に関係なく、初潮という形で性の問題がやって来るのを、いかに受け容れるかがまず課題となるで、それに関する知識を持っていることが必要なのである。
青年は性の秘密を知ろうとして苦悩し、性に関する秘密をもって苦悩する。そのような苦悩を通じて、彼は、男と女、精神と身体、善と悪、などについて考えざるを得なくなるし、自分という存在と他者との関係についてもいろいろと考え直してみることでもあろう。
深く考えれば考えるほど、性の秘密は永遠に解きがたい謎を含んでいるのである。青年が大人になってゆくためには、これらの問題と自ら直面し鍛えられてゆくことが必要であり、生理的な事実を早く教えることによって、性のことが「わかった」と思わしめ、せっかくの鍛錬の機会を奪う必要はないともいえるのである。
つづく
W 人とのつながり