私は私の心臓の動きや、胃のはたらきなどをコントロールできない。といっても、それはまったく勝手に動いているわけではない。私のおかれた全体的状況にふさわしい動き方をしているのである。 トップ画像 赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

3 己を超えるもの

本表紙

ピンクバラ3 己を超えるもの

からだというものは不思議なものである。わたしのものであって、私のものでないところがある。
たとえば、手術によって私の腕が切り落とされたとき、それは私の一部としてではなく処理されてしまうのだろう。

 私は私の心臓の動きや、胃のはたらきなどをコントロールできない。といっても、それはまったく勝手に動いているわけではない。私のおかれた全体的状況にふさわしい動き方をしているのである。

 私は私の腕を自由に動かせると思っているが、それにしても、時に緊張のために震えたり、硬くなってスムーズに動かなかったりする。こんなふうに考えると、からだという存在は、人間存在そのものについて考えさせる要素を多くもっている。

家庭内暴力

いつだったか、自分の両親を金属バットで殺してしまった青年があった。もちろん、これは彼のしたことであったが、彼にとっては、まったく思いがけないことであったろう。

 いったい誰の意志でそれが行われたのか解らない、といいたいくらいの心境であっただろう。
 最近になって我が国において増加してきた家庭内暴力の事例において、その子どもが良くなってから、なぜあんなことをしたかと聞くと、本当のところは自分でもコントロールのきかない状態になってしまい、止めようがないと言うのが実情であろう。

 言葉のやり取りでは駄目で、どうしても身体的な攻撃を加えないと、気がすまないのである。

 家庭内暴力において、もっとも多いのは息子が母親に暴力を振るうケースである。しかも、その理由や程度がまったく常軌を逸しているので、家庭内暴力の病理が明確に捉えられない初期の頃は、しばしば精神病と診断と誤診されることがあった。

 つまり、それほどまでに、その行為は不可解なことが多いのである。母親のちょっとした行為とか言葉に突然
怒って暴力を振るうのだが、それ以外のときは、まったく普通であり、判断力もしっかりしているのである。

 青年期というのは、今までに建てたひとつの家を壊して新しい家を建て替えるのだ、と思うと良く解るときがある。子どもの時に、子どもなりの家ができあがるのだか、それは仮小屋であって、それをベースにとして仕事をなしつつ、結局はその仮小屋も壊してしまって、新しい家を作らねばならない。

 仮小屋がしっかりしていないと新しい仕事をして行くのに差支えるのはもちろんだが、仮小屋に力を入れすぎて、まるで本屋にでもできそうなものを作っておくと、建て替えが大変である。

 家庭内暴力を振る子どもの多くは、仮小屋を建てるときに、親が妙に張り切り過ぎて、本屋まがいのものを建てさせたようなところがある。したがって、それを壊すのには相当な「暴力」が必要なのだ。

 つまり、子どもを育てる時ときに、親が「よい子」に育てようとし過ぎて、大人のこじんまりとした存在のような子どもをつくりあげていることが、家庭内暴力の例では多いのである。

 家の建てかえの比喩をつづけて用いると、この問題は次のようにいうこともできる。家の建てかえの際に、大きい家を建てようとする人は、基礎を深く掘らねばならない。したがって、きそを深く掘りすぎることによって、問題が生じるてくる可能性も大となってくる。

 つまり、以前に比べて、現代の子どもたちは基礎を深く掘らねばならぬので、なかなか大変なのである。これを心理学的に言えば、現代の子どもたちは、より深い心の問題にぶつかっている。

 たとえば、ある高校生が母親に対するとき、個人としての母親としてではなく、彼女の背後に存在する母性というもののもつ深淵にたいしているのである。

 そこで、母親が何気なく部屋に入って来ても、それは外的には確かに何も大したことは無いのだが、それは子どもにとって「侵入」――それも怪物か何かの――と受け止められ、彼はそれと「戦う」ために暴力をふるうことになるのだ。

 実のところ、彼の成すべきことは、母なるものの内的な戦いであるのに、彼はそれを外界に存在する母親へぶつけてしまうのである。

 もちろん、青年が真に大人になってゆくためには、そのような深い問題と自ら対決し、既に述べたように、母殺しの象徴的実現を、あくまでも自分の内界のこととしてやり抜かねばならない。

 それができないために、彼らは母親に対して暴力を振るうという馬鹿げたことをやっているのだが、われわれ大人としては、そこに生じている問題の次元の深さについて、よく知っておく必要がある。

 現代に生きる青年たちの心の亀裂はかなり深く、精神病的な世界に達するほどのものとなっているのである。この事をわきまえずに、安易に家庭内暴力の事例に対応しようとしても、うまくゆかないことが多い。

 そして、家庭内暴力をふるわないにしろ、多くの現代青年は、この深い亀裂を癒してゆくかという課題を背負っていることを理解しなくてはならない。

 それは、「抑圧されているものを解放してやればよい」、といった単純な考え方によって対処できるようなものではないのである。
つづく 心身症